第15話 安田、取り込み中に菓子折りを提げて現れる
まだ、咲耶の家に来る前――車中でのことだ。
突然思い立った訪問だったため、礼儀として、菓子折りを持って行こうという話になった。
そこで、『何か見繕って来てくれ』と龍生に頼まれた安田は、長年ひいきにしている和菓子屋に立ち寄り、急ぎ戻って来たわけなのだが……。
何故か、主は未だ門の前で、途方に暮れた様子でたたずんでいる。
どうしたことかと様子を窺っていると、家の中から咲耶の声が漏れ聞こえて来て、安田は目を丸くした。
……なるほど。
今の咲耶の台詞から察するに、何やら揉めている最中らしい。
ややこしいことになったなと、安田は一瞬、龍生に声を掛けるのをためらった。
だが、ここで突っ立っているわけにも行かない。仕方なく、『どうかなさったのですか?』と訊ねたのだが。
「ああ、安田。戻ったか」
自分専属の運転手に気付き、龍生はホッとしたように微笑した。
安田は会釈して歩み寄ると、素早く彼の耳元に口を寄せ、
「龍生様。これはどういった状況なのでしょう? ご説明いただけるとありがたいのですが――」
「ああ。そうしたいのは山々なんだが……。どうしてこんなことになってしまったのか、俺にもよくわからないんだ。何が気に入らなかったのか、咲耶の弟の一人には、『帰れ』と家から追い出されてしまうし、ちょうど帰って来た咲耶には、無視されて、声も掛けてもらえないまま、家に入られてしまう始末だ。どうやら、俺に腹を立てているようなんだが、何に対しての怒りなのか、皆目見当もつかなくてな。……まったく、女性は難しい。無視されるくらいなら、いっそ責め立ててくれた方が楽なんだが――」
困り果てた様子で、龍生は深々とため息をつく。
その声を耳にした咲耶は、階段の途中で足を止め、ギリッと歯噛みした後、真っ赤な顔で振り返った。
それから、わざと大きな音を立てて駆け下りて来て、玄関口で成り行きを見守っていた時子の横に仁王立ちすると。
「『皆目見当もつかない』だとっ!? さんざん人の心を弄んでおいて、わからないとは聞いて呆れる! どこまで人をバカにすれば気が済むんだ、おまえという奴はッ!?」
門付近で立ち往生している龍生に向かい、思いきり怒りをぶちまける。
安田の方に体を向けていた龍生は、咲耶の剣幕にギョッとし、顔を上げた。
「……『弄んでおいて』? バカにする、って…………俺が?」
やはり、『意味がわからない』と言いたげな顔で、ポツリとつぶやく。
龍生は再び門を通り、玄関の手前まで歩いて来ると、家の中の咲耶に、まっすぐな視線を送った。
「俺がいつ、君を弄んだって?……咲耶。いったい何の話をしているんだ?」
(ぐぬぅ……っ! この期に及んで、まだごまかすつもりなのか!? 私の知らぬところで桃花を呼び出し、抱き締めて、頭を撫でたりしていたクセに!!)
正確に言えば、呼び出したのは龍生ではない。桃花だ。
そして龍生は、抱き締めてはいない。抱き寄せただけだ。
抱き締めたも抱き寄せたも、似たようなものではないかと言われたら……それはまあ、そうなのかもしれないが。
龍生としては、泣いている子を、『よしよし』と慰めていただけ――という感覚だ。あの行為にやましさなど、微塵も感じていない。
よって、咲耶が怒っている原因については、見当すらついていなかった。
一方、すっかり頭に血が上ってしまっている咲耶は、龍生は『二股をかけている』、または、『二股をかけようとしている』と、完全に決めつけていた。ギリギリと奥歯を噛み締めた後、
「何の話って、おまえの話に決まっているだろう!? もう一度、自分の胸に手を当てて、よーく考えてみろ!! 今日の学校での振る舞いを、逐一振り返ってみたらわかるはずだ!!」
「学校での振る舞い……って――……ああ! もしかして、朝に挨拶した時、目を合わせなかったことか?」
「……それもある」
咲耶はムスッとした顔で肯定した。
「『それも』? それだけではないのか?……他には、特に思い当たることなどないが……」
龍生は軽く腕を組み、困惑顔で首をかしげる。
カッとなった咲耶は、更に声を張り上げた。
「『ない』だとッ!?……貴様、本気で言っているのか!?」
「ああ。本気だ」
(く――っ!……こいつ、とことんしらばっくれるつもりだな!?)
あっさりと即答され、咲耶の怒りは頂点に達した。
これ以上、龍生の顔を見ているのも不快だった。
「もういいッ!! 正直に白状するつもりがないのなら、さっさと帰れッ!!」
そう叫ぶと、咲耶は階段を駆け上って行った。
龍生は慌てて玄関まで駆けて来て、
「すみません、上がらせていただきます!」
時子に会釈し、靴を脱ごうとしたのだが。
そこにすかさず、
「ダメだダメだっ! ねーちゃんをいじめるヤツは、ぜってーゆるさねーッ!!」
建がしがみついて来て、龍生の行く手を阻もうとする。
「建ッ!! 何してるの、やめなさいッ!!」
男子とは言え、小学一年生だ。まだ母親には敵わない。
建は後ろから時子に羽交い絞めされ、力尽くで龍生から引き離された。
その隙に、彼は素早く靴を脱ぎ、咲耶の後を追って、階段を駆け上がって行く。
「離せッ!! 離せよかーちゃん!! どーしてあんなヤツの味方すんだよッ!?」
「味方して当たり前でしょう!? あの人はね、お姉ちゃんが建くらいの歳の頃、お姉ちゃんの命を救ってくれた人なのよ!? お姉ちゃんの大切な人なのッ!!」
腕の中で暴れる建を押さえつけつつ、時子は大声で言い聞かせる。
建はビクッと肩を揺らした後、動きを止め、恐る恐る時子を見上げた。
「え……? ねーちゃんの、いのち……?」
「おねえちゃん、死にそうだったの?」
いつの間にか、倭も建の横に立ち、同じように時子を見上げていた。
時子は建の体を解放すると、二人の頭にそっと手を置く。
「死にそうだったって言うか……。崖から落ちそうになってたところをね、あのお兄ちゃんが抱き止めて、助けてくれたの。……でもね、お姉ちゃんの代わりに、お兄ちゃんが大怪我しちゃって……。運が悪かったら、あのお兄ちゃん、死んじゃってたかもしれないのよ?」
「えっ?……死んじゃってた……かも?」
建の言葉に、時子は小さくうなずいた。
「そうよ。あのお兄ちゃんはね、咲耶を命懸けで守ってくれたの。そんなこと、誰にでも出来ることじゃないわ。それは二人にもわかるでしょう? しかも、建や倭と同じくらいの歳の頃によ?……二人は、とっさにそんなこと出来るかしら?」
時子の問いに、二人は顔を見合わせてから、同時に頭を横に振った。
「……わかんない」
シュンとする二人の頭を両手で撫でながら、時子は優しく笑い掛ける。
「いいのよ、そんなに落ち込まなくても。出来なくて当然なの。あのお兄ちゃんが、特別すごかったってだけ。……それくらい、咲耶のことを大事に想ってくれてるのよ。そんな人を、叩いたりしちゃダメでしょう?」
「……それは、そうだけど……。でもっ! じゃあどーして、ねーちゃん怒ってんの? あいつが、ねーちゃんにひどいことしたからじゃねーの?」
それでもまだ、建は納得行かないようだった。不満げに口をとがらせている。
時子は軽くため息をつき、
「さすがにそこまでは、お母さんにもわからないわ。わからないけど……たぶんね、小さな誤解と言うか、すれ違いみたいなものが、二人の間にあったんじゃないかと思うの」
「……ごかい?」
「そう、誤解。……だからね? 後のことは二人に任せて、放っておいてあげましょう? そうすれば――ちゃんと話し合いさえ出来れば、きっとまた、元に戻れると思うから。……ね?」
建はムスッとしながらも、小さくうなずいてみせる。
それで時子は、ホッと胸を撫で下ろしたのだが。
「保科様。お取込み中のところ、恐れ入ります。こちら、つまらない物ですが……どうかお受け取りください」
絶妙のタイミングで、安田が菓子折りを差し出すと、建と倭の瞳がキラリと輝いた。




