第11話 桃花、龍生からあの夜の出来事を聞く
冷たくした覚えなど、龍生には一切ないが、朝の挨拶時に、咲耶の目を見られなかったことで、酷く誤解されてしまっているらしい。
そうではないということを証明するため、龍生は渋々、昨日、結太から聞かされたことを、ほとんどそのまま桃花に伝えた。
あの夜、二人に起こった事実を知らされた時は、龍生もかなりショックだった。
なるべくなら、桃花の心には傷を負わせたくない、と思っていたのだが……。
こうなっては仕方がない。
確実に傷付けてしまうだろうが、咲耶に冷たくしたなどと、誤解されたままなのも困る。動揺させるのも覚悟の上で、洗いざらいぶちまけた。
やはり、相当ショックだったのだろう。
全て話し終えた後、桃花をそっと窺うと、蒼い顔で固まっていた。
そんな姿を目の当たりにし、龍生の胸は少し痛んだが、黙っていたとしても、いずれは知られてしまっていたに違いない。
どうせ傷付くなら、早いうちの方がいいのだと、龍生は自分に言い聞かせた。
話してしまった以上、そうとでも思っておかなければ、桃花を見るたびに、罪悪感に苛まれる気がした。
桃花は、胸の前で組み合わせた両手を微かに震わせながら、蒼い顔で龍生を見上げた。
「じゃあ、あの日……。あの夜に二人は……。楠木くん、もしかしたら……?」
そこで言葉は途切れたが、感情を推し量ることは出来る。
龍生は首を横に振り、
「いや。二人の間には何もなかった。少なくとも、結太はそう言っていたし、俺もそう信じている。どんな理由があろうとも、恋愛感情のない者同士、どうにかなるはずが――」
「いいえっ!」
突如、桃花が大きな声で、龍生の言葉をさえぎった。
震える手を、両手でしっかり握り締め、更に真っ蒼になりながら、
「いいえ……違うんです。そういうことじゃ、なくて――……」
瞬間。
ぽろぽろと、桃花の両目から涙がこぼれ落ちた。
「あの夜……二人は、そんなに長い間、びしょ濡れのまま……森の中を、さまよっていたんですね……。そんな中、楠木くんは……低体温症……なんて、危険な状態に……。もう少しで……死にそうだったなんて……」
桃花は涙を流し続けながらも、両手の甲で、涙を拭い続けていた。
けれどいっこうに、涙が止まる様子はない。
ぽろぽろぽろぽろ。
涙は、次から次に溢れては、頬を伝って、制服の上にぽとぽと落ちる。
「……よかった……。あの日、楠木くんと一緒に、無人島に行ったのが……わたしじゃなくて、よかった……。咲耶ちゃんで、よかった……」
「――え?……伊吹……さん?」
意外な言葉に、龍生は耳を疑った。
新種の生物を観察するかのように、桃花をじっと見つめる。
「だって、わたしが一緒だったら……きっと、咲耶ちゃんみたいに……助けられなかった。わたしだったら……楠木くんを、死なせちゃってたかも、しれない……。だから……だからっ。……咲耶ちゃんが、一緒にいてくれて……ホントに、よかった……。うぅぅ~~~、よっ、よかったぁぁぁ~~~。よかったよぉぉぉ~~~っ」
そう言うと、桃花は小さな子供のように、声を上げて泣き始めた。
わーん、わーんと。
何度も、『よかった』『咲耶ちゃんでよかった』『わたしじゃなくてよかった』とつぶやきながら――……。
「伊吹さん。……君って人は……」
桃花の発した言葉に、龍生は愕然とした。
まさか、『よかった』などとは……。
あの夜の出来事を知った後、真っ先に桃花の口からこぼれ落ちた言葉が、『よかった』であろうとは。
龍生とて、結太が死に掛けていたと知った時は、肝を冷やした。
そこまでの苦境に追い込んでしまっていたとはと、結太には申し訳ない気持ちでいっぱいだったし、自分を強く責めもした。
だが、それらの感情や後悔以上に、心を占めていたのは……激しい嫉妬だった。
結太は死に掛けていたのだと、わかっていて尚。
二人が新聞紙に包まるようにして、一晩一緒に過ごしたのかと考えると、苦しくて、辛くて、叫び出しそうだった。
……それなのに。
桃花は、そのことを知った後でも、『よかった』と言った。
あの日、無人島で一緒にいたのが、自分でなくてよかったと。咲耶でよかったと。
そうでなければ、結太は死んでいたかもしれないからと――。
桃花の涙は、決して、嘘やごまかしではない。
彼女は本心から、『よかった』と泣いているのだ。
心からホッとして、子供のように泣きじゃくっているのだ。
……己とは、何という違いだろう。
そう感じた瞬間、龍生の全身は、汗ばむほど熱くなった。
すぐさまこの場から、尻尾を巻いて逃げ出したくなるほど、激しい羞恥に見舞われていた。
「……君はすごいな、伊吹さん」
思わず、本音が漏れた。
龍生にとって、負けを認めるということは、かなり屈辱的なことだったが……こればかりは、認めざるを得なかった。
嫉妬よりも何よりも、好きな人が無事であったことを、真っ先に喜べる。
その純粋さ、清らかさが、心底羨ましかった。まぶしかった。
――だからだろうか。
普段なら、決して軽率な行動を取ったりはしない彼が、感情のままに動いた。
龍生は、泣いている桃花の肩をそっと抱き寄せ、大人が子供をあやす時のように、優しく頭を撫で始めた。
「本当に、君はすごいな。心から尊敬する。……咲耶が好きになるわけだ」
自分には出来なかったことを、あっさりとやってのけてしまう。
これほどまでの敗北感を味わったのは、生まれて初めてのことだったが、不思議と嫌な気はしなかった。むしろ、清々しいとさえ思えた。
この時の龍生の感情を、例えを用いて説明するならば。
ライバルに真っ向から挑み、完膚なきまでに叩きのめされた。
それでも、相手のあまりの素晴らしさに、『敵ながら天晴れ』と、拍手を送りたくなった。
――そんな気持ちだったのだが。
この時。
屋上のドアが少しだけ開き、二人の様子を覗き見していた何者かがいたことなど、龍生も桃花も、少しも気付いてはいなかった。




