第1話 咲耶、帰宅後こっそりと二階へ上がる
桃花と駅前で別れ、咲耶は日暮れ前に帰宅した。
家に入ると、まずは母の時子に気付かれぬよう、そうっと洗面所まで行って、手と顔を洗う。
特に顔は、泣いていたことがバレないように、これでもかと言うくらい、念入りにすすぎを繰り返した。
タオルで拭いた後、鏡に映った顔をじっと見つめる。
泣き過ぎたせいか、瞼はまだ少し腫れぼったく、ヒリヒリと痛んだ。
(酷い顔だ。これでは、一目で泣いたとバレてしまうな。……やはり、夕食まで部屋にこもっていた方がいいか)
いつもならば、帰宅後はすぐ二階に上がり、スウェットの上下に着替える。
それからまっすぐ金四郎の元へ行き、少し庭で戯れてから、散歩に向かうのだが……。
仕方ない。
今日は少しだけ、時間をずらすことにしよう。
散歩は夕食後に行くと決め、咲耶は抜き足差し足で階段を上って行った。
「あら、咲耶。帰ってたの?」
自室のドアを開けたところで、階下から声を掛けられた。
ビクッとして、声のした方へ視線を向けると、時子が階段を上がって来るところだった。
マズい。玄関の靴でバレたか。
咲耶は素早くドアを開け、部屋に入って鍵を掛けようとしたのだが。
「あっ! ちょっと待ちなさーーーいッ!!」
閉まる寸前。時子はダダダダダッと残り数段を駆け上がり、ドアへと突進して来た。
慌てて閉めようとする咲耶。そうはさせまいと、外側から全力で押して来る時子。
まるで、力比べのようになってしまっている。
「ちょ…っ! 何してるのよ咲耶ッ!? ここを開けなさいッ!!」
「嫌だッ!! 頼むから、今日は放っておいてくれ!!」
「はあっ? 何言ってるのよ、もうっ! 何かあった時は、ちゃんとお母さんに相談しなさいって、前から言ってあるでっ――……しょッ!!」
力比べは、あっさりと時子の勝利に終わった。
強引に部屋に押し入って来ると、両手を腰に当て、仁王立ちする。
「いつの間にか帰って来て、何してるのかと思ったらぁ~……。コソコソと、部屋にこもろうとしてたってわけ!? どーしてそんなことするの!? ちゃんと理由を話しなさいッ!」
目を吊り上げて迫って来る時子に背を向けると、咲耶はベッドに飛び乗った。
掛け布団をまくり上げ、頭からスッポリと被り、体を丸める。
「咲耶ッ!! 何拗ねた子供みたいなことしてるのッ!? もう高校生でしょ!? 倭と建のお姉ちゃんでしょ!? そんな情けない姿、弟達に見せられるの!?」
倭と建というのは、咲耶と十歳違いの、双子の弟達の名だ。
古事記の〝倭建命〟から拝借し、祖父が命名した。
ちなみに、本人はすっかり忘れてしまっているが、咲耶の名を決めたのは祖母だ。
亡くなった祖母は、日本神話が好きだったそうで、日本書紀やら古事記やらを、よく読んでいたという。
自分もそれにならったのだと言って、祖父はカラカラと笑っていた。
陽気で豪快で、時代劇を観るのが大好きだった祖父。
数年前に他界した祖父のことを、咲耶は心から慕っていた。
彼女が時代劇ファンになったのも、明らかに彼の影響だった。
そんな、おじいちゃんっ子だった咲耶は今、頭から布団を被ったまま、
「私だって、一人でいろいろ考えたい時だってあるんだッ!! お願いだから放っといてくれよーーーッ!!」
などと叫んでいた。
だが、時子はそれを許さない。ぐいぐいと布団を引っ張り、咲耶の隠れ場所を失くそうとして来る。
「『放っといてくれ』じゃないでしょッ!? そんな勝手なこと言う子は、夕食抜きよッ!? 今日は咲耶のだーーーい好きな豚肉の生姜焼きだけど、それでもいいのねッ!?」
「いいよ抜きでもッ!! だから放っといてってばーーーッ!!」
「え……ッ!?」
布団を引っ張っていた時子の両手が、ピタリと止まる。
食いしん坊の咲耶が、『夕食抜きでもいい』という意思を示したのは、生まれて初めてのことだったのだ。
「ちょっと、ヤダ……。ホントにどーしちゃったの? 夕食抜きでいいだなんて。しかも、生姜焼きを食べなくていいだなんて……。いつも、『生姜焼きがあれば、どんぶり飯五杯は軽いな』なんて言ってるじゃない。それなのに――」
これは困った。
事態は、思っていたよりも深刻なようだ。
時子はたちまち蒼くなり、先ほどまでとは打って変わった、優しい声色で話し掛けた。
「ねえ、咲耶。無理にとは言わないけど、何か悩みがあるなら、言ってみてくれない? お母さん、あんたより倍以上の時間、生きて来てるんだから……少しは、頼りになると思うわよ?……ね、本当に何があったの?」
布団の中で背中を丸めている娘の背を、ゆっくりと撫でる。
しばらくの間、咲耶は黙り込んだまま、ピクリとも動かなかった。
時子も黙って、優しく背中を撫で続けていたのだが……。
ふいに、
「……振られたんだ」
耳を寄せれば、かろうじて聞き取れるほどの小さな声で、咲耶がつぶやいた。
「えっ、振られた!?……そんな、まさか……。ホントに、秋月くんに振られちゃったの?」
時子の残念そうなつぶやきに、聞き捨てならないと思ったのか、咲耶はガバッと布団をまくり、母親を睨み据えた。
「違うッ!! 秋月にじゃない、桃花にだッ!!」
「……へ?……桃花……ちゃん?」
時子の目はまん丸く見開かれ、時が止まったように、体までが静止した。
そして、何十秒か経った頃、
「えぇええええーーーーーッ!?」
まるで悲鳴のような、甲高い声を上げた。
それからまた、しばらくして。
「咲耶……。咲耶って、ええと…………女の子が好きだったの?」
娘の顔色を窺いつつ、恐る恐る訊ねる。
咲耶はすぐさま『違うッ!!』と否定し、
「私は、桃花が女だから好きなんじゃない!! 桃花だから好きなんだッ!!」
涙目で母親を見据え、大声で言い放った。
時子は時子で、言葉を失ったまま、呆然と娘を見返す。
あまりにも急で、衝撃が大き過ぎて……一瞬、頭が真っ白になってしまったらしい。
年頃の娘から、初恋の気配すら感じたためしがないなと、以前から気になってはいたが……。
だからと言って、まさかこんな唐突に、娘のカミングアウトを聞かされる羽目になるとは。
咲耶は、『女だから好きなんじゃない』、『桃花だから好きなんだ』と言った。
それはつまり、男も女も、特に区別することなく――《性別関係なく好きになれる》――ということなのだろうか?
(……え?――ってことは、レズビアンと言うよりは、バイセクシャルに近いってことなのかしら? それとも、今までは異性が好きだったけど、桃花ちゃんだけ例外的に――特別に好きになっちゃった……ってこと?)
時子は混乱した。
ここまで深刻な問題に直面するのは、初めてのことだったのだ。
娘のこととは言え――いや、娘のことだからこそ、慎重に対処しなければならない。
少なくとも、ああしなさいこうしなさいと、安易にアドバイス出来るような、簡単な問題ではないということだけは、時子にもわかった。
だからこそ、『どうしたらいいのだろう? 娘に意見を言うのは、夫に相談してからの方がいいだろうか?』と、かなり長い間思い悩んだ。
しかし、今すぐ答えが出せる類の問題ではないし――……。
「あぁ……ダメ……」
考え過ぎたせいだろう。軽いめまいがした。
時子は両手で頭を抱え、その場にうずくまった。
「母様っ?」
ヒヤリとして、咲耶が声を上げる。
時子は『大丈夫』と手で制してから、その姿勢のまま、数回深呼吸してみせた。
顔を上げ、ぎこちない笑みを浮かべると。
「だ……大丈夫。お母さん、こんなことくらいで、うろたえたりしないわ。……でもこれは、とってもデリケートな問題よね? だから咲耶。今からお母さんと一緒に、少しずつ、話を整理して行きましょ?――ね?」
咲耶は不安げな顔つきで時子見つめ、唇をキュッと結んでから、小さくうなずいた。




