第9話 咲耶、いよいよという時に病室を飛び出る
しばらくの沈黙の後。
龍生は、まずは用事を済ませてしまおうと思ったのか、結太に顔を向け、言いにくそうに切り出した。
「結太。怒らせてしまった後で、訊ねることではないと思うんだが……約束は約束だ。例の話を聞かせてくれないか?」
とうとう来たかと、結太が観念し、口を開こうとした瞬間。
「すまん! やはり、私は帰らせてもらう! その話は、秋月一人で聞いてくれ!」
咲耶は急に席を立ち、二人に向かってそう告げると、病室を飛び出して行ってしまった。
何事が起ったのかと、結太がポカンとしていると、
「咲耶っ!!」
慌てて龍生も席を立ち、後を追おうと戸口に向かったが、手前で振り返り、
「すまん! すぐ戻る!」
それだけ言って、やはり、病室を出て行ってしまった。
残された結太は、
(このパターン……前来た時と同じ……だよな?)
などと思いながら、呆然と病室のドアを見つめていた。
「咲耶っ! 咲耶待ってくれっ!」
咲耶は返事もせずに走り続ける。
この間は、エレベーターの前で見つけたものの、横にある階段へと逃げられてしまったが。
今回は、どうにかエレベーターの手前で、咲耶の手を掴むことに成功した。
「咲耶! 急に飛び出して行ったりして、どうしたと言うんだ?」
両手で肩を掴み、強引に自分の方へ向かせると、龍生は咲耶の顔を覗き込む。
彼女は目を合わせようとしないまま、体を激しく左右に振った。
「離せっ! 離してくれっ! 私は行かなければいけないんだッ!!」
「行く? 行くってどこへ?」
「桃花の…っ、桃花の元へ行かなければいけないんだっ!! 行って、ちゃんと説明しなければっ!!」
「――伊吹さんの?」
また〝桃花〟かと、龍生の胸はキュッと痛んだ。
一瞬、肩に置いた手に力を込めてしまったが、どうにか気持ちを落ち着かせ、刺激しないよう、柔らかな声で話し掛ける。
「とにかく落ち着こう。落ち着いて、俺にもわかるように説明してくれ。どうして今、伊吹さんの元に行かなければいけないんだ?」
「だから…っ! 説明するんだ!! 秋月に告白されたことを話さなかったのは、桃花を忘れてたからじゃないって!!」
……いや、違う。
それは嘘だ。
本当は忘れていた。忘れてしまっていた。
龍生に告白されてから、今日に至るまで――話す機会は、いくらでもあったはずなのに。
忘れていた。
龍生のことで頭がいっぱいで、『桃花に相談する』という選択肢を、思い浮かべる余裕すら、なくなっていたのだ。
(嘘だ! 私が桃花を忘れるなんて……。いつもだったら、桃花のことを忘れるなんて、絶対考えられないのに! たとえ一時でも、ありはしなかったのに――!)
そう言えば、ここに来る前だって、桃花にメッセすら送らなかった。
昼休憩時に、咲耶が教室に来なければ、心配するに決まっているのに。
……忘れていた。
そんなことすら、思いつかなかった。
そのことが、咲耶にとっては、耐えられないほどのショックだった。
結太は真っ先に、桃花のことを考えたというのに。自分は、言われるまで気付かなかった。
それが、どうしても許せなかったのだ。
「離せッ!! 桃花のところに行くんだッ!! 行くんだぁああッ!!」
「咲耶ッ!!」
龍生は咲耶を落ち着かせるため、思いきり抱き締めた。
それでも尚、咲耶はもがき続けていたが、構わず強く、強く、抱き締め続ける。
「咲耶、わかった。わかったから落ち着いてくれ。学校に戻る気なら、安田に送らせよう。――俺も共に行く」
「嫌だッ!! 一人で戻るッ!! お前の世話にはならんッ!!」
「咲耶――っ!」
周囲には、入院患者が二~三人、スタッフステーションには、看護師が数名いた。
何事かというような顔つきで、若いカップルの動向を、遠巻きに眺めている。
看護師も、注意したかっただろうが、二人の雰囲気があまりにも張り詰めていて、声が掛けにくかったと思われる。黙って様子を窺っていた。
「秋月、頼むから離してくれッ!! 桃花のところへ行かせてくれぇッ!!」
「わかっている!……わかっているから、少しだけ落ち着いて。今の状態のままでは、君を行かせられない」
「何故だッ!? 私は今すぐ行きたいんだ!! 桃花に会いたいんだッ!!」
「咲耶……」
龍生の顔が、切なく歪む。
改めて、桃花に対する強い想い――執着を見せつけられた気がして、胸が痛んだ。
「離せッ!! 離さないと私は……私は――っ」
そう言ったきり、咲耶は龍生の腕の中で、黙り込んでしまった。
細い肩が、微かに震えている。
泣いているのかと、心配になって来た時だった。
「――ッ!」
鎖骨の下辺りに痛みが走り、一瞬、抱き締める腕から力が抜けた。
その隙に、咲耶はするりと両腕を外し、龍生の後頭部に手を回して顔前まで引き寄せると、彼の唇に、素早く己の唇を重ねた。
驚きのあまり、龍生は目を見開いて固まる。
咲耶はそっと唇を離し、『すまん』とだけつぶやいて、ちょうど来たエレベーターに、吸い込まれるように乗り込んだ。
考えが追い付かず、呆然としたままの龍生をその場に残し、無情にもドアは閉じ――咲耶は、彼の前から消えた。
龍生の脳裏には、唇が離れた瞬間の、咲耶の瞼からこぼれ落ちた一粒の涙が、いつまでも張り付いていた。
一方、いきなり高校生らしき二人の修羅場(?)と、軽いラブシーンを見せられ、周囲には衝撃が走った。
だが、ジロジロ見続けるのも悪いと思ったのか、一人二人と、その場から去って行く。
龍生は呆然としたまま、その場に立ち尽くしていたが……二~三分経った頃。
突然、顔を真っ赤に染めたかと思うと、口元を片手で覆った。
(え……キス?……キス……されたのか、今?……俺に? 咲耶の方から?)
そう思ったら、全身が熱くなり、一気に汗が滲み出て来た。
『いつまでも騒ぎ続けるようだったら、キスで唇をふさいでやろうか?』
そう考えていたのは、実は、龍生の方だった。
だが、まさか、咲耶から仕掛けて来るとは……。
想像すらしていなかった出来事に、さすがの龍生も、激しく動揺していた。
スタッフステーションの看護師達は、そんな龍生の様子を、ちらちらと横目で窺いながら、
(美少年と美少女のラブシーンですってぇええ!?――ったく。昼間っから見せつけてんじゃないわよっ! ここは病院なのよっ!?)
などと、妬んだりしていたのだが。
そんなこととは露知らず、龍生は軽く数分ほどは、顔を赤らめた状態のまま、その場にたたずんでいた。




