第9話 咲耶、龍生の〝お願い〟に混乱する
完全にからかわれていると思った咲耶は、龍生を思い切り睨み付け、片耳を両手で押さえながら、ジリジリと後退し始めた。
いつでも逃げ出せるように、ある程度の距離を取っておかなくてはと考えたらしい。
「それでっ!? 私にお願いとは、いったい何なんだッ!? おまえに従う気は全くないが、一応、話だけは聞いておいてやる! さあっ、早く話せッ!! すぐ話せ即話せッ!!」
さっさと用事を済ませて帰りたいのだろう。咲耶は急かすように言い募る。
龍生は、やはり余裕の笑みを浮かべながら。
「ああ、大丈夫。お願いと言っても、すごく簡単なことだから。――君にね、許可してほしいんだ」
「は? 許可?……何の許可だ?」
「うん。結太の首元の、君が付けた歯形。あの歯形が、どういう経緯で付けられたのか、結太に話してもらうための許可がね。ほしいんだよ、今すぐ」
一瞬、何を言われたのか理解出来なかったのか、ポカンとした顔で、咲耶は龍生を見返していた。
だが、意味を理解したとたん、真っ赤になって龍生を睨み付けた。
「な――っ! ななっ、な、何だそれはッ!? どーして私が、そんな許可をしなければならないんだッ!? ふざけるなッ!!」
「ふざけてなどいないよ。真面目に言っているんだ。君が許可してくれたら話してもいいと、結太は言ったんだ。だから――」
「ちょ…っ! ちょっと待てッ!!――く、楠木が話してもいいと言っただと!? どーゆーことだそれはッ!? わからないってことじゃなかったのか!?」
「ああ。初めは、そう言い張っていたけれどね。痕が付くほど強く噛まれていて、わからないわけがないだろうと詰め寄ったら、観念したよ。君の許可さえもらえるなら、話してもいいそうだ」
「……そ……そんな……」
咲耶はショックを受けたようで、それきり黙り込んでしまった。
彼女は、どうして自分がそんなところに噛み付いたのか、覚えていないと言っていた。
それが事実であるならば、自分さえ知らないことを、他人が覚えているというのは……複雑と言うか、不安なのだろう。
何故なら、許可したところで、話される内容がどんなものなのか、咲耶には一切わからないからだ。
結太の口から、どんなことが語られるのだろうと思ったら、不安になるのも無理はない。
だが、それでも龍生は知りたかった。
どんなにしつこいと思われようが、咲耶が結太に噛み付いた理由、状況、それらがわからなければ、いつまでも気にしてしまいそうで嫌だった。
……まあ、理由や状況を知ったことにより、更に嫉妬心を募らせる結果に――ということも、充分あり得るのだが。
とにかく今は、胸のモヤモヤをどうにかしたかった。
「さあ、許可をくれ。そうすれば、結太から話が聞ける」
咲耶をまっすぐ見据えながら、前に一歩踏み出す。
咲耶はビクッと肩を揺らし、慌てて一歩足を引いた。
「保科さん?……まさか、ここまで来て、逃げ出そうなんて思っていないよね? 逃げるなんて卑怯なことは、君には似合わないよ。――さあ、早く許可を!」
そう言って、龍生はもう片方の足も前に出したが、咲耶も再び足を引く。
龍生の怖いくらいの真剣さが、咲耶には理解出来なかった。
病院で詰め寄られた時も、不可解に感じはしたが……。
「……ど、どうしておまえが、歯形のことなんか気にするんだ? 楠木から訊ねられるのなら、まだわかるが……。おまえには、全然関係ないことじゃないか」
「関係あるッ!!」
ビリビリと空気を振動させたかと思われるほどの大声に、咲耶の肩も心臓も、大きく跳ね上がった。
龍生が、ここまで声を張り上げることがあるなどとは、思ってもみなかった。
年の割には、妙に落ち着いていて、憎らしいくらい、いつも余裕綽々としているのに……。
「あるよ。関係ある。……俺は知りたい。どうしても知りたい。君が何故、結太の首元に噛み付いたりしたのか。その理由を、その時の状況を、何が何でも知りたい」
「……だ、だからっ。どうしてそんなこと知りたが――」
「君が好きだから」
龍生の凛とした声が響く。
咲耶をまっすぐ見つめるその瞳も、口調も、どこまでも真剣だった。
ふざけているようにも、からかっているようにも思えなかった。
咲耶は大きく目を見張り、口を僅かに開いた状態で、龍生を見返した。
龍生は一度目を閉じ、深く息を吸い込んでから、ゆっくり吐き出すと、再び目を開き、真剣な様子を少しも崩すことなく、同じ言葉を繰り返した。
「君が好きだからだよ、保科咲耶さん。……ずっと、ずっと君のことが好きだった。君だけが好きだった。君と同じ高校になる前から、ずっと……ずっと変わらずに、君だけを」
「……なっ……なん――……」
咲耶はそう言ったきり言葉を失い、ただ呆然と立ち尽くした。
……混乱していた。
無人島で告白されたことは思い出したが……あれは〝からかわれただけ〟ということで、自分の中では片付けていた。
――いや。そう思いたかっただけなのかもしれない。
「君が好きだから……どうしても気になるんだ。気になって仕方がないんだ。何故君は、結太の首元に噛み付いたりしたのか――」
「だ…っ! だからそれは――っ!」
「わかっている。君は覚えていないんだろう? だから結太に訊くんだよ。……頼む。許可してくれないか?」
龍生の声色は、笑い飛ばすことも許してくれそうにないほど澄んでいた。
まっすぐに、ピンと張り詰めていて――恥ずかしくて逃げ出したいのに、逃げてはいけないような。目をそらしてはいけないような……。
そんな思いを、咲耶に抱かせた。
しばらくの沈黙が続いた後、咲耶は落ち着いた声で答えた。『わかった』と。
その答えを聞き、龍生の顔はにわかに和らいだが、咲耶は続けて。
「ただし、条件がある」
「……条件?」
訝しげに眉をひそめる龍生に、咲耶は小さくうなずいた。
「そうだ。私も――おまえと共に、楠木の話を聞く。それが条件だ」
意外そうに目を見開いた後、龍生はフッと微笑む。
もちろん、返事は『YES』だった。




