第8話 咲耶、強引な龍生に憤る
咲耶が龍生に連れて来られたのは、小高い丘の上だった。
――まあ、丘と言っていいのか、低い山と言っていいのか。とにかく、平地ではない場所だった。
「何なんだいったい!? 私をこんなところに連れて来て、どうするつもりだッ!?」
咲耶は、龍生の手を思い切り振り解くと、鋭く睨みつける。
龍生は一瞬、悲しげな表情を浮かべたが、思い直したように、いつもの王子様スマイルを浮かべた。
「べつに、どうこうするつもりはないよ。君にお願いしたいことがあったんだ。それだけだよ」
「お願い!?――またか! また、協力しないと秘密をバラすとか言うんだろう!? おまえはいつもそうだ!」
「違う。今日は本当の〝お願い〟だ。脅迫なんかじゃない」
「嘘だ! おまえの言うことなど信じられるものか! 信じられるわけがなかろう!?」
「……確かに、今まで君にして来たことを考えたら、そう言いたくなるのもわかる。いや。当然だ。だが、本当に今回は、脅迫なんかじゃないんだ。俺はただ、この胸中に巣くう醜いモノを、一刻も早く取り除きたい。そう思っているだけだ」
「――は? 〝胸中に巣くう醜いモノ〟? 何だそれは?」
訝しんで顔をしかめる咲耶に、龍生はフッと、切なげに微笑む。
「わからないならいいんだ。……いや。わからない方が幸せだ。俺だって、こんなモノ知らずに済むなら、その方がずっと……」
龍生はそこで言葉を切ると、咲耶へと手を伸ばし、まっすぐな黒髪を一束すくった。
「な――っ! な、何をするっ! 離せっ!」
美容師以外に髪を触られることなど、滅多にない。
咲耶は妙に恥ずかしくなり、自分の髪を両手で押さえた。
咲耶の言うことも、聞く気がないらしい龍生は、髪の一束をじっと見つめ、親指の腹で幾度か撫でたり、指先に巻き付けたりしている。
髪の先から伝わって来る振動が、微かに地肌を撫でて行くようで、そのくすぐったい感覚に、咲耶は思わず身をすくめた。
「は…っ、離せと言ってるだろう!? 人の髪をオモチャにするなッ!!」
堪らずに叫ぶと、龍生は、その時初めて咲耶の声が耳に入ったかのように、二度ほど目を瞬かせた。
咲耶を真顔で見返して、
「ああ……すまない。あまりに綺麗な髪だったから、つい見惚れてしまった」
「な――っ! み…っ?」
予想外の台詞に、咲耶の顔は一気に熱くなった。
どうしてこの男は、こんな気恥ずかしいことを、真顔で言えるのだ?
――本心じゃないからか?
お世辞だから、口から出まかせだから、いとも簡単に、言ってのけられるのだろうか?
……そうだ。そうに違いない!
一方的に決めつけると、咲耶は龍生を睨んで言い放った。
「おまえはそーやっていつもいつも――っ!……そんなに人をからかうのが面白いか!? 自分の言葉で、態度で、他人があたふたする様子を眺めるのが好きなのか!? ほんっと、いい性格してるよなっ!!」
龍生は、『褒めただけで、何故そんなに腹を立てるのだろう?』とでも言いたげな顔だ。しばらく無言で、咲耶の顔を見つめていた。
やがて、ふわりと表情を和らげると、咲耶の髪を自分の顔の前まで持って行き、そっと目を閉じて、髪先に唇を押し当てた。
「――っ!」
あまりに意外過ぎる行動に、声すら出ない様子で、咲耶は口を半開きにしたまま固まった。
数秒後、おもむろに睫毛を上げた龍生は、まだ固まっている咲耶と目が合うと、悪戯っ子っぽく微笑し、唇を離して片手を開いた。
――するり。
髪の束が咲耶の胸に当たり、はらりと脇へ流れる。
龍生は小首をかしげてから、まだ固まっている咲耶の耳元に顔を寄せると、『髪へのキスの意味、知ってる?』とささやいた。
「な――っ!……し、知るかそんなものっ! ふざけるな、この痴れ者がッ!!」
咲耶の顔ばかりか、全身が熱くなる。
慌てて、両手でささやかれた方の耳を押さえると、真っ赤に染まった顔のまま、龍生をギロリと睨んだ。
「フフッ。耳まで赤くなっているよ。保科さんも、こういうことには奥手だね。すごく可愛らしい」
龍生は満足げにニコリと笑う。
咲耶は、今度は羞恥からではなく、怒りで顔を真っ赤に染め、悔しさで涙目になって言い返した。
「だからッ!! からかうなと言ってるだろう!? 殴るぞッ!?」
涙目で、真っ赤になって怒る、黒髪ツンデレ美少女。(……残念ながら、龍生はまだ、〝デレ〟の部分を見せてもらっていないが。咲耶はまず間違いなく、ツンデレ属性だろう)
こうなってしまうと、申し訳ないが、怖さなど微塵も感じられない。
ただただ、可愛いだけの生き物がそこにいた。
龍生は抱き締めたい衝動を必死に堪え、
「早くデレさせたいものだ。……俺にそれが可能だろうか?」
どこまでも真剣な顔で、ポツリとつぶやく。
咲耶は再びキッと睨み、
「はあっ!? お前に何が可能かだって!?……おまえ、絶……ッッ対、また何か企んでいるだろうッ!? い、いい加減にしろよッ!? 私はもう、おまえに指図されたりしないぞッ!? 絶対絶対ぜーーーーーったいッ、悪だくみは阻止してやるんだからなッ!?」
まだ耳を押さえながら、可愛らしい生き物が、僅かにふるふる震えつつ、恨めしげに龍生を睨み付けている。
龍生はフッと吹き出すと、
「お好きなように」
余裕たっぷりに言い返した。




