第3話 結太、歯形に固執する龍生を訝る
龍生の反応を見て、一気に不安が高まった結太は、くれぐれも妙なことはするなよと、しつこいくらいに念押しした。
法に触れるようなことを、龍生がするとは思えない。
だが、龍生は何故か、首元の〝歯形〟にだけ、異様なほど固執している。
そこがどうしても、結太には気掛かりでならなかった。
ここまでしつこく、他人の事情に首を突っ込んで来るのは、龍生にしては珍しい。
――いや。珍しいと言うより、初めてのことかもしれなかった。
少なくとも、相手が嫌がっているのがわかっていて、それでも尚、食い下がって来るようなことは、今までなかった気がする。
SかMかと言われれば、龍生は確実にS寄りだろうなと、日頃から思ってはいた。
人をからかうのが大好きな性質だし、特に気に入った人間には、わざとキツめのことを言ったりして、反応を窺う。
そうやって、楽しんでいるようなところは、昔から、たびたび見受けられた。
それでも、あくまで〝からかう〟程度だ。〝愛のあるイジリ〟とも呼べるような、程度の軽いSっ気が、感じられるくらいのものだった。
咲耶が言っていたような、『犯罪まがいのこと』などとは、根本的に違うのだ。
「なあ。どーしてそんなに、歯形のことなんか気にすんだよ? おまえには、一切関係ねーことだろ? 噛まれて痛かったのはオレで、おまえじゃねーんだしさ」
(……いや。俺だって痛かったさ。首元ではなく、胸の方が……だがな)
結太の問いに、龍生は心の内だけで答えた。
菫からその話を聞かされた時は、一瞬ではあったが、嫉妬で、体中が焼けるように熱くなった。
胸が痛くて、息苦しくて……仕舞いには、めまいまでがして来て。足元がよろけそうになったが、既のところで堪えたのだ。
無論、結太にはわかるはずがない。
龍生が、咲耶と幼い頃に出会っていることなど、彼は知らないのだから。
咲耶に対し、龍生がどんな感情を抱いているかさえ、気付いてはいないだろう。
……いっそ、全て話してしまおうかと、思ったこともあった。
だが、そのたびに、鵲と東雲のことが胸をかすめ、思い留まって来た。
咲耶と知り合った経緯を話すとなると、あのことにも触れなければならなくなる。
触れないように話すことも、出来なくはないが……もし、咲耶があのことを思い出してしまったら、隠す意味もなくなってしまう。
咲耶が思い出さなければ、あのことを知っているのは、龍生達のみだ。結太には、一生知られることはないはずだ。
結太は幼い頃から、二人に親しんでいる。
その彼らが、たとえ過去の出来事とは言え、あのようなことに関わっていたと知ったら、どう思うだろう?
そう考えると、話さない方がいいような気がして来て、いつも口をつぐんでしまう。
知らない方が幸せなことも、この世にはごまんとあるのだから、と……。
「べつに、知ったからと言って、どうこうしようというわけではない。ただ、知りたいだけだ。単純な好奇心というやつだな」
龍生は何でもないことのように言ってのけたが、結太が納得していないのは明白だった。疑うようなじとっとした目で、龍生を見つめている。
「単純な好奇心で、あそこまでしつこく迫って来るかぁー?……おまえ、ぜってー何か隠してんだろ?」
……まったく。
普段は呆れるほど鈍感なクセに、たまに、妙なところで鋭かったりするから困る。
龍生は軽くため息をつき、顔色を変えずに訊き返した。
「隠すって何を? 俺が、おまえに隠さなきゃいけないようなことが、あると思っているのか? だとすれば何だ? おまえに知られて都合が悪いようなこととは、いったい何だと言うんだ?」
「う――っ。……んなこと、オレに訊かれても……」
相手に強気に出られたとたん、モゴモゴと口を濁す。
結太のいつものパターンだ。
逃げ切れそうだと踏んだ龍生は、勝利の笑みを浮かべる。
「では、俺はそろそろ帰るとしよう。今日で連休も終わりだしな。明日からのことも考えなければ。……おまえは、しばらく学校には来られないだろう?」
「ん?――あ、ああ。一週間か二週間くれーは、ここにいなきゃなんねーらしー。……ハァ。憂鬱だぜ……」
――よし。上手く行った。
話をそらすことに成功したようだ。
結太が単細胞で助かったな、などと思いながら、龍生は戸口まで歩いて行った。
そして取っ手に手を掛け、振り返って、『また明日来る』とだけ伝え、戸を開けたのだが――。
「キャ…っ!」
短い悲鳴が聞こえ、驚いて、声のした方へ顔を向けると、桃花が大きく目を見開き、肩をすくめている姿が目に入った。
その左手には、ケーキが入っているような小箱が握られている。
「――伊吹さん。結太の見舞いに来てくれたの?……一人で?」
いつも桃花の隣にいるはずの咲耶は、今日はどこにも見当たらない。
桃花は気まずそうにうつむき、コクリと小さくうなずいた。
「はい。あのっ、昨日は来られなかったので。……え、と……咲耶ちゃんは、昨日お見舞いに来たんですよね? ですから、あの……二日続けて付き合ってもらうのも、悪いかなって思って……」
「……そうか。ありがとう、よく来てくれたね。結太も喜ぶよ。――おい、結太! 伊吹さんが見舞いに来てくれたぞ。よかったな」
振り向いてそう告げると、結太は『えッ!? い、伊吹さんがッ!?』と裏返り気味の声を上げると、掛け布団をパタパタと叩き、自分の体も叩き、髪を手櫛で整え始めた。
慌てふためく結太を一瞥し、龍生はフッと微笑む。
昨日は桃花が来てくれなかったと、少々落ち込んでいたのだが、これで一気に浮上出来ただろう。
「じゃあ、伊吹さん。後はよろしく」
「えっ!?……あ、あのっ、秋月くんは、どこへっ?」
帰ろうとする龍生の袖をそっと掴むと、桃花は心細そうに見上げて来た。
「僕は、ちょうど帰るところだったんだ。もう少しすれば、菫さ――結太の母親も来ると思うから、よかったら、それまでいてあげてくれないか?……ああ。時間があるなら、それ以降もいてあげてほしいけれど……菫さんにあれこれ訊かれるかもしれないから、それだけは、覚悟しておいた方がいいかな」
龍生は桃花の顔を覗き込み、からかうようにフフッと笑った。
桃花はたちまち真っ赤になって、潤んだ瞳で龍生をじっと見つめながら、何か言いたげに口をパクパクさせる。
龍生は、『こういう、頼りなげで可愛らしいところが、咲耶にとっては堪らないんだろうな』などと思いつつ、桃花の頭を数回撫でた。
「大丈夫。菫さんは押しの強い人ではあるけど、朗らかで優しい人だよ。君を困らせることなら、少々あるかもしれないけれど、意地悪なことは言ったりしない。だから……ね? 安心して」
まるで、幼子をあやすかのごとき、穏やかな声色だ。
それでも、桃花はまだ不安を拭い切れない様子だったが、このまま龍生を足止めするのも悪いと思ったのか、しゅんとしたまま手を離した。
「本当に、心配いらないよ。困ったら、結太を頼ればいいから。――おい、結太! 伊吹さんがこれからついていてくれるんだから、菫さんが来た時には、質問攻めから、ちゃんと守ってやるんだぞ! いいな?」
室内に向かって発せられた龍生の言葉に、結太はすかさず、
「あっ、あったりめーだっ!! 言われなくても、ちゃんと守るッ!!」
やや前のめりになりながら、真っ赤な顔で返す。
「――ほら、ね? 姫を守る騎士が、こう言ってる。だから安心して」
龍生はもう一度桃花の頭を撫で、ニコッと笑って手を振ると、病室を後にした。