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ヒネクレモノ 第2話「キバ」

作者: シゲノユウ

pixivにあげている作品の改訂版です。

前作の「オキ」と話は続いておりませんが、「ヒネクレモノ」シリーズとなっております。

今回は菊地死導の弟、菊地硬志のお話です。

楽しんでいただければ幸いです。

   0


大きな音がする。

甲高くて耳につく音。

1音1音は鳥のさえずる声を思わせるのに、気持ちのいいものではない。

不快な気分にならないが、夢見心地のところを現実に引き戻す。

そんな力をおびている。


——————目覚ましのアラーム。


しかし、その携帯は近くにいない。

ベッドではなく、机の上に放り出されている。

いっこうに動く気配のない主人を自分のもとに来させて、自分の口を黙らせてくれ、とその体を揺らしている。

彼の主人はまだやかましくさえずる携帯に眉を顰めるだけだ。

おまけに布団から出る気はないのか、ゴソゴソと潜りこんでいる。

こうなった場合、携帯とその持ち主の間での我慢比べになる。

どちらが先に音を上げるか。

両者のどちらも負けるものかと身構えた。

携帯は役目を放棄してはいない。

一方、主人といえば。


まだ寝ていたい。昨日は忙しかったんだ。


そんなことを言いたげに強固な態度を崩さなかった。


と。


「お兄ちゃん? 朝だよ。ご飯、できてるよ?」


勝負が始まってすぐ、扉のむこう側でノックする音が聞こえた。

2回、扉と拳がぶつかる。

それに続いて聞こえる声。

声の高さからして、若い女性だ。

いまも鳴り続けるアラームか、起きてこない兄弟か。

どちらを気にして、ここに来たのだろう。

どちらにせよ、ベッドの住人であった彼は、起きなくてはならなくなった。

ぐずぐずと上半身を起こしたので、かかっていた毛布も落ちる。

ベッドの温かさを失った体は、ぶるぶると小刻みに震えた。

両手を絡めて、腕を伸ばす。

ビンッと張った筋に流れる、心地のいい震動。

緩やかな電流が肩を伝って全身に広がった。

くぁり。

自然とあくびが出る。

おかげで、頭の霧が晴れた。

乱れた衣服をそのままに、ベッドから抜け出して、携帯のアラームを止めた。


今季は秋だ。

夏から冬になりつつあるこの時期は、はやい時間から肌寒い。

机の横になる箪笥から、一組の靴下をとり出した。

それを身に着けて、部屋から出る。


彼は、菊地硬志という菊地死導の弟だ。

短く黒い髪。

ほどよく筋肉のついた体格。

死導よりも高い身長。

青い瞳。

死導の目の色が深海だというなら、硬志は空の色だろう。

そして、姉弟だからなのか。

……そういうわけではないだろうが。

似た顔立ちで鋭い目つきをしている。


また、似たところがあるなら、違うところもある。


たとえば、死導と硬志の仕事だろうか。


死導の仕事は、俳優、もしくは女優業である。


ならば、硬志の仕事は?


答えは、鍛冶屋だ。

職人といってもいい。

包丁や食器を造って、世間に売り出している。

硬志の作品はブランドで、そのために値段が高い。

機械でつくり出される大量生産の商品と違って、1つひとつが手造りであるからだ。

包丁の刀身、皿や箸に刻まれた模様が美しい、とファンに評判だった。

さらには、そのものづくりの才能から派生して、兵器に武器、また精密機器の発明も手がけている。

……違法ではないかって?

いやいや、そんなことはない。

いや、そもそも、法律がどうこうで話せることじゃない。

死導が人間でないなら、弟である硬志も人ではないのだから。

そう。

もう、おわかりかな。


人外だ。


硬志は、彼らは人外なのだ。

人間が作り出した法律は、彼の障害にならない。

法律を作ったのは人間で、その対象も人間だからだ。

ただ、兵器と武器を日の光に当てることはしない。

それで十分だろう。

硬志とその家族が知っていれば十分なのだ。


硬志は平和主義だ。

暴力も戦争も。

血を流したって、なにも解決しないと知っている。

だから、兵器と武器の発明は趣味の域を出ない。

ただ、包丁と皿のように料理の道具を造るだけでは、退屈を凌げなかったのだ。

造りこそすれ、大々的に売り出すこともせずに、1ヶ所に集めてしまいこんでいる。

古くなったら、ほかの作品に活用できるからだった。

ただ、それだけ。



   1


硬志が1階に降りたとき、姉である死導は先に席に着いていた。

硬志がいることに気がついて、「おはよう」と告げてきた。

曖昧に朝の挨拶を返してやる。

そして、死導とむかいあうように椅子に座った。


目の前の食卓には、もう料理が並んでいる。

一般的な日本食だ。

ひととおり、料理に目を通していると。

キッチンからもう1人の家族が歩いてきて、硬志の横に座った。

さきほど、この人物が硬志を起こしにきていたのだ。

死導ではない。

死導はそんな優しい起こし方をしないし、彼女の声は低い。

もし死導なら、部屋に入ってきて、無理やり布団を剥がしていただろう。

そんなの、硬志にとって最悪な朝の目覚めだ。

まったく、乱暴な姉だ。


もう1人の家族は座るとき、


「おはよっ。お兄ちゃんっ」


と言うのを忘れなかった。

硬志はそれに素直に返した。


彼女は、菊地サクラ。死導と硬志の妹だった。

サクラは死導と硬志の血の繋がった妹ではない。

とあることをキッカケに、菊地家にやってきた。

いわゆる、義妹というやつだった。


彼女がキッチンから出てきたことで、察しているかもしれない。

サクラは菊地家の家事を担当していた。

死導も硬志も仕事で忙しく、家事に手が回せないのだ。

自然とそうなった。

それに、サクラが一番料理上手だった。

というか、料理が好きなのだ。

自分で店も開いている。

ファミリーレストランのように気軽に行けるものではない。

会員制で予約必須のお店だ。

なかなかに有名で、テレビでもとり上げられている。

そんなサクラの料理は絶品だった。

自慢の妹だ、と硬志は思っている。

しかし、そんなサクラの料理を死導は食べない。

サクラの料理が嫌いなわけではなく、そもそも食事が必要ない。

かわりに、5粒ほどの錠剤を口に運んで、噛み砕いている。

毎朝だ。

毎朝、同じ数、同じ種類の錠剤を食べている。

死導にとって、これが朝食であるのだ。

だから、なにも言わない。

硬志もサクラも、その錠剤がなんなのかを知っているけれど。

ふつうであれば、好き好んで食べたりしないものだということもわかっているけれど。。

自分たちが朝食を食べるのは必要なことで。

死導にとっては錠剤がそれなのだから、なにも言わない。


死導はすべての錠剤を飲みこんで、手元にあったコーヒーに口をつけ始めた。

食べ物なんていらないくせに、コーヒーと紅茶は飲む。


おかしくないか、と常々思っている。


思っているだけでなく、実際に口にしたこともあった。


べつにいいじゃねぇか、だそうだ。


さて、また言うかたちになるが。

死導がそうやって食べない一方で、硬志もサクラも毎食を食べている。

証拠ならある。

硬志の隣で、いただきますと言って、朝食に手をつけている義妹がいるからな。

サクラが食べているのを見て、硬志も食べようとした。

いただきますと言って、箸に指をかける。

すぐにピタリと箸を持った手をとめる。

目の前にいる死導が、弟の異変に気づいた。


「どうした? 具合がよくねぇのか?」

「…いや、ちょっとなんか食欲が…」

「え? もしかして私、お兄ちゃんの嫌いなものを出しちゃった?」

「うーん…そうじゃなくて…」


硬志が要領をえずに口籠っていると、死導が身を乗り出してきた。

硬志は自然と上半身を逸らせる。


「ん~~? おまえ、目がおかしいぞ?」

「え? 喧嘩売ってんの? 朝っぱらから?」


「おまえが売ってんだろ、アホが。そうじゃねぇよ。瞳孔が細くなってるんだっつぅの。鏡で見てこい」


硬志はいやいやながらも、死導の言うとおりに席を立って、鏡を求めた。

いざむかい合って、鏡の表面に顔を近づける。

たしかに、綺麗に円を作っていた黒目は獣の目をしている。

縦に細長くなっている。

そういえば——けっして視力が低いわけではないのだが——、普段と違って目の見えがいい気がする。

靴下をとり出したとき、ふつうなら色を判別できないはずなのに、できた。

いままで以上に遠くのものの輪郭がくっきりと見える。


目を気にし始めたら、つぎに爪が気になった。

自分の両手に視線を落とす。

整えていた爪の先は、肌という境界線を越えていた。

つけ爪ほどの長さになっている。

続けて、口を開けて自分の歯を見る。

……犬歯が伸びていた。

明らかな体の異変に、硬志は深い溜息を吐いた。

さきほど、朝食を見たときになにも感じなかったのは、そういうことか。

たまたま空腹ではなかったとか、そういうことではなかったのか。

硬志は鏡から身を離して、姉妹のもとに戻る。

食べかけの食事をそのままに、サクラは心配そうに硬志を見上げている。

死導は、硬志がどう思ったかを聞こうと待っていた。


認めたくはなかったが、しかたない。

なってしまったものは、しかたがない。

鏡で見たあの症状は、本当のことだ。

否定できない。ここで見て見ぬふりをしたら、あとが辛いのだ。

これがなんであるか、硬志にはわかっていた。わかっていたが、認めたくなかった。


いままでなっていなかったのに。


でも目を背けてはいられない。

硬志はぐちゃぐちゃの感情を抱えたまま、口を開いた。

変に心臓が高ぶっていた。



「———発作がきてた」


硬志はそれだけを言った。


何年も、それこそいやになるほど一緒にいるのだ。

発作の意味なんていわなくてもわかるだろう。


そう思った。正しくそのとおり、2人は話の内容を理解してくれた。


「…最後の発作はいつだったっけか?」

「うー、覚えてないなぁ…」

「たしか、10数年前だったと思う……」

「いま、どのくらい進行してんだ?」


硬志は死導に訊かれて、鏡を見て知ったことを話した。


「最初はそんなもんだよな」

「うん、このあとどんどん酷くなるから」


女性2人が症状について確認しているなか、硬志はポツリと呟いた。


「……なんで姉貴にはないんかなぁ」


硬志は発作が嫌いだ。

当然、だれも病気を好まないだろう。

唯一の例外なら、明日以降に試験があって、それを受けたくない子供たちだ。

そんな状況でなければ、病気にたいしていい印象を持たない。


死導と硬志は同じ生物——人外——からその遺伝子を受け継いでいる。

この発作の原因は、その遺伝子であり血液にあった。

だから、

「同じ血を引く死導も発作が起こるはずだ。むしろ、起こらないのはおかしい」

というのが硬志の主張だ。

発作がくるたびにそうやって愚痴を言っている。


「そんなん、適度に発散してるからな」

「……」


硬志は嫉妬してかるく舌を打った。

舌打ちすんな、と死導に諫められる。

嫉妬してもなにも変わらない、しかたがない、とわかっている。

でも、やはり羨ましくなるものだ。

……わかっている。

どうして自分だけなのか。

どうして、姉である死導は発作を経験しないのか。

すべては血の濃さにある。

死導をつくり出している人外の血が薄いのだ。

たいして硬志はその血を濃く受け継いでしまっている。

ただ一般人はここでひっかかりを覚える。

薄い、濃い、とはなんのことなのか。

秘密にしておくほどのものでもない。


死導と硬志は人外と人の間に産まれた子供だった。


ようするに、両親の血——父の血の割合と母の血の割合——というものを人間よりも具体的に判断できないのだ。


人間であれば、母親似か、もしくは父親似かでいい。

この2人の場合、それがすこしばかり変わる。


私は人間よりなのだろうか、それとも人外よりなのだろうか?


……人外である母親に近いのか、それとも人である父親に近いのか?


ここまでくると、どちらがどちらなのか。


———————死導が人間よりで、硬志が人外よりであるのだ。


発作は、「どちらの生物に近いのか」を表す指標であったというわけだ。

2人は、人外の血を本能、人間の血を理性として定義づけている。

発作の話題では、外見や能力の優劣はさほど重要ではない、全く関係がないのだ。

二卵性にしては似すぎた外見であるし、能力面では五分五分だ。

あと、頭脳や身体能力で議論するのは愚か者のすることだと思ってもいる。

する必要のない説明なのだ。


硬志は本能という名の土台に支えられているのだ。

その土台の上では、死導のほうが硬志よりも潜在的に劣っているわけだ。

死導もそれを認めている。

……いやいやながらも。

しかし、弟に軍配が上がっているからといって、なにもしないような性格の持ち主ではない。

だから、この姉弟の間に格差は生まれない。

違っているようで同じ土台に立つこの姉弟は、サクラに出会う前、2人で行動していた。

姉弟だから当然だと思うだろうが、それに加えて相棒に等しいものでもあった。

しかし、いま2人の間にその付随関係はない。時の流れが一役買っていたりもするが、死導の現相棒が最大の理由である。

その原因となった、ベリアルという悪魔が死導のもとに現れたことで、2人の関係は終わったのだ。

ただの姉弟にもとどおり。

件のベリアルという男。彼はいまこの場にいない。

硬志がこのベリアルという男について知っていることは少ない。

会話もしないし、顔も見せない。

ときどき、リビングにいたりそこら辺にいるのを見かけるが、ベリアルを見かけるのは本当に稀なことだった。

悪魔だからなのか、自分の空間とかいうものを持っていて、そこにいるらしい。

死導がそう言っていた。

それならば、相棒の死導はベリアルの生活を知っているのだろう。


と、思っていたのだが。


死導は束縛をしたくないらしく、ベリアルの生活について口煩く追究することはしないのだ。

死導は、ベリアルがどうしてるのかなど知らないのだ。

束縛が嫌いなのかどうかは知らないが、適当な女だと硬志は密かに思っている。

頭でその言葉を繰り返すだけだ、してきただけだ、いままでだって、多分、きっと。

……いやいや、そんな、まさか口にしたりなんか………したのだろうか。

実の姉に冷たい?

常にこんな感じだ。

あっちだって、俺の扱いは雑だ。

これが俺達のあり方だ。

ほっといてくれ。


時は進んで、死導の出勤時間になった。

死導は靴を履いて、「なるべくはやく帰るようにする」と硬志を見ながら言った。

こういうときだけ、いい姉を演じてくるのだ。


……勘弁してほしい。

なにか言ったかって? 

いやいや、なにも言ってませんとも、えぇ。

言ってません、言ってませんよ。

だから睨むな。

発作はまだ進行していない。なにかあったら連絡する。ほら、さっさと出た出た。


まだ言いたそうにしている死導を無理やり追い出した。

しばらくしてから車の走る音が聞こえたので、ちょっとした疲労からくる溜息を吐き出す。

今日は、製作のデザインとか試作とか、いろいろと予定を決めていたのに水の泡だ。発作となってしまってはやる気がでない。ひとまず、本能が出てこないうちに離れに籠ろうと思った。

いまの症状は軽いものだが、これから酷くなるのだ。

体感で、夕方には問題の段階になっているだろうと推測する。

まだ仕事場に行っていないサクラにそのことを言っておこうと思い、2階に上がった。

この時間帯はどこにいるのか、見当はついている。

廊下にあるベランダで洗濯物を干しているのだ。

案の定、サクラは物干し竿の前に立っていた。

硬志に気がついたサクラは手を止めて、ベランダと廊下を隔てていた窓ガラスをカラカラと開けた。


「どうしたの? お兄ちゃん」

「俺、そろそろ篭るね。だいたい……4時ぐらいには酷くなってるから。姉貴にそう言っといて」

「え、もぅ? そっか…あ、でも、私今日休みにするから、なにかあったら言って」

「……今日、店の定休日じゃないよね?」

「うん。発作のきたお兄ちゃんをひとりにしておけないから。休むの」

「……」


病人あつかいされていると思った。

発作というのは病気に聞こえるかもしれないが、硬志の場合はそうではない。

飼い犬が野原で野生を思い出す、そんな発作だった。その発作の規模が大きいだけだ。

サクラの気持ちもわかる。

発作が重くなれば、細かいことができなくなるのだ。

だから、サクラに死導への連絡を頼んだ。

それに、離れに電話がないということもある。

まぁ、離れに電話があってもなくても、硬志にとっては同じこと。

夕方になれば、電話をしようなんて考えは頭から消え去ってしまう。

それがわかっているからサクラに頼んでいるのだ。

いまだって、自分でしたほうがいいのはわかっているけれど、行動を起こす気になれない。

それすらもめんどうくさいと思っている。


「…サクラにできることはなにもないよ。むしろ、危ないから店に行ってて。どうせ姉貴がはやく帰ってくるんでしょ。姉貴に任せときなよ」


サクラは悲しそうに眉を動かした。

いまの、硬志の言葉は。

つっけんどんだとも解釈できるが、義妹を危険に晒したくないという気持ちからのものだ。

それをサクラはわかっている。

わかっているけれども。


サクラは義姉弟と違って、力が強いとか頭がいいとか、そういったなにかを持っていない。

せいぜい、2人と同じく、人でない、長寿であるということだけだ。

義姉弟と異なったタイプであって、家庭的な面もその美しい姿も『ふつう』に属するものだ。

サクラは人間のなかに紛れて、生活を送るほうが性に合っているのだ。

そういう意味での『ふつう』だ。

枠の中にピタリとあてはまるのである。

サクラには義姉弟とすごす間、何遍も2人との違いを痛感するときがあった。

違いを覚えて、毎度、胸がつきんと痛む。


どうして、私は2人と違うの?

どうして、2人は私と違うの?

どれだけ2人といたかなんてわからないよ。

でも、2人とすごして、それこそ、家族同然な雰囲気なのに。

それなのに、似てる所なんてひとつもない。

目も鼻も口も、髪も……血も。

同じところなんてひとつもない。

なんで、本当の家族じゃないの。

家族に、どうやってなれるの、なにをしたらいいの?


独りになると、特に気分がおちこんでいるときなんて、ネガティヴになって泣きたくなる。

隠れてこっそり泣いていることもある。

……でも、そういうときに、2人に名前を呼ばれると気分が持ち上がる。

死導も硬志も意図してはいないだろうけど、

個人を証明するそのたった3つの言葉のなかに、

「愛おしい」

「おまえも家族だ」

「心配することなんてない」

おちこんだときのサクラが感じとれる2人からの気持ちが含まれているのだ。

強い光に当たった闇のように、太陽が軌道を描くときの影みたいに、それまで抱いていた暗い感情はサクラからその手を離していく。


「本当に、大丈夫?」

「平気、平気。むしろいないで。頼むから。もし、俺がサクラを傷つけたなんて知れたら、姉貴がめんどうくさいんだから」


硬志は心底いやそうにげぇっと吐く真似をする。

サクラはそれを見て微笑んだ。


「———わかった。じゃぁ、これ終わらせてから行くね。お兄ちゃん、気をつけてね」

「おー」


手をひらひらと振って、硬志はサクラの傍を離れる。

硬志の姿をその視界でとらえられなくなったあと、サクラは中途半端な状態で放置されている洗濯物にむきなおった。




   2


1階に続く階段を下りて、居間を通り抜ける。

そのまま姉を見送った玄関にむかって、段差に腰かけ、てごろな靴を履いた。

足を靴の中にすべて納めて立ち上がり、玄関の扉に手をかける。

ガチャッと歯の組み合わせが外れて、扉が外向きに動いた。

そして、地面に作られた扉を固定する溝を踏み越え、家を出てすぐの足元にある五段階段を軽快に下る。

硬志の目の前には3方向に伸びる坂があった。

左側の坂は下りで、残り2つはどちらも上り坂だ。

左側の坂と正面の坂に目もくれず、右側の上り坂を選ぶ。

この上り坂の先に、離れがある。

離れには3つの役割があった。

家に置けなくなったものを保管するための倉庫。

硬志の発作がでたときの避難所。

そして、硬志の仕事場だ。

鍛冶場がそこにある。

鍛冶をするのに必要なものがすべて揃っている。

前に説明した、硬志が造った未発表の作品もここに眠っている。

鍛冶場とべつの場所をこの離れのなかにもうけていた。

ときどき、昔の作品を持ち出して、そこから新たな発想をえるためだ。

発想というのは書きとめておかなければ、長く保たないものだ。

存在しなかったかのような顔をして消えていってしまう。

そのための紙、鉛筆、定規また専門書は硬志の自室に用意されていた。


硬志が鍛冶にしか興味がないのかと尋ねられれば、はっきり、否、と返せる。

部屋の本棚やら机やらものを置くための家具から、ひとつでもとり出せば雪崩が起こるのは間違いない。

それほどの量の鍛冶道具が入っている。

そのほかに、ゲーム機とそのカセット、大きくてごついブラックカラーのノートパソコンなどが鍛冶専用の本棚と衣装ダンスとはべつに置かれた棚にしまわれていた。

どんなタイプのゲームを好んでいるか。

それを語るのは、無駄な徒労というやつだ。

さらにいうなら、硬志が仕事にとりかかっている時間と、娯楽に没頭している時間の、どちらが上回っているかも不明瞭だ。

これにかんして、サクラも、ましてや死導もなにか文句を言うことはない。

どちらも硬志の趣味であるし、また人間でいう〝未成年〟でないということも関係しているからだ。

〝大人〟であるなら、自分のことは自分でするべし。

そういう暗黙の了解がだれの意識の底でも息を潜めて、自身の正体を隠し、存在している。


硬志の行動から視線を外してる間に、目的地に到着していた。

目的地である離れは、鍛冶場として使われていると思えないほどに手入れをされた場所だった。

離れにその体を伸ばす舗装された道の周りにも、離れの周りにも、雑草が生えているが、生い茂っているわけではなく、適切な長さになるように手を加えられている。

どれだけ足を進めても、ジーンズの裾からのぞく足首がするりと撫でられることはなかった。

離れは小さな西洋風の屋敷だった。

塀はなく、正門では大きい二枚扉が肩を並べて鎮座している。

その二枚扉はそれぞれの縁に、ひとつの花が首を伸ばしてべつの花と体を絡ませあい、そのべつの花もまたべつの花に…といった具合にくりかえされた豪華絢爛な模様が描き出されていた。

また、この立派な正門を囲うようにずしりと頑丈な柱のアーチがとりつけられていた。

このアーチも屋敷の壁も古びているが、建設当時に設定された白の色合いを壊してはいない。

硬志は鍵のかかってないこの正門の取手をガシリと掴んで、自分のほうに引いた。自宅の扉よりも重い音を立てて動く。

扉の先にはなにもなかった。

がらんとした空間は体育館が入りそうなほどで。

この離れでは靴を脱ぐ必要がないので、土足で上がる。

広大な1階の床は一面が石でできており、足を進めるたびに靴と石のあたりあう音が響き渡った。

この階には視界を妨げるものが存在していないので、入口で立ったまま、奥にある階段が窺える。

階段の両脇に備えられた手摺を掴んで体を支え、上階を目指した。

2階に着くと、左側に窓があり、右側には3つの部屋が並んでいた。

窓は縦1本、横2本の格子で区切られていて、その色彩は壁によく馴染んでいる。

手前の2つの部屋といえば、廊下と部屋をしきるはずの扉が存在せず、ぽっかりとその口を開けたまま、扉のない枠からそのなかに蓄えているものを惜しげもなく見せびらかしている。

部屋の前を通りすぎるとき、ぼやけた視界の隅で数多くのがらくたがこちらを見ていた。

いまの硬志にとって、扉のある一番奥の部屋だけが必要なのだ。

手前から3番目の部屋の前に立って取手を掴む。

手首を右に捻り、扉が部屋のなかに入るように押し開けた。



この離れで生活することはほとんどない。

おもに、倉庫として使われていることはすでに説明した。

もしなにかあるときには、それこそいまのように、硬志に発作が起こっている期間をすごすための宿泊施設となり代わる。

ただし、野生動物のように本能がでている身では、生活用品——ベッドやソファ、テーブルなど——を使えない状況に追いこまれている。

菊地家にある硬志の自室には、生活感の溢れる、いや、溢れすぎるものばかりだったというのに、この部屋は殺風景すぎた。

硬志の部屋を見たあとなら、なおさらそう感じることだろう。

部屋に入ってすぐに目がいくのは、壁に面した窓とそこからさしこむ光だ。

部屋の中央まで足を進め、ごろりと横になった。

ふと足がぎゅうぎゅうと締めつけられる感覚がして、まだ靴を履いたままだったなと思い出した。

左足を覆う靴の踵を右足で踏み、押し出す。

左足でも同じようにして、右足を靴から解放した。

おかげで靴を脱ぎやすくなったので、左から右の順で足を引き、つま先に9割脱げた靴をぶら下げ、足を振るって靴を部屋の隅に放った。

1秒もたたぬうちに、靴が壁に当たる音を聞く。

特にその音に反応を示すこともなく、寝転びながら膝を曲げて手を伸ばし、靴下を脱いで部屋の隅に追いやった。

下手するとなにもなかったのではないかと思える音を気にとめず、寝る体勢をとる。

天井を見上げたり、頭上の壁に目をやったり、左右をみたり、とにかく忙しない。

どこをむいて寝ればいいのか、決まらないのだ。

朝食はろくに食べれていないし、起きたばかりで寝つけやしない。

でも、寝ないとあと最低8時間は暇な時間をこうしてすごすことになる。

そんなのはいやだ、地獄だ。

部屋に置いてあって、退屈を紛らわせることができるものはひとつもないのだから。

結局、自然と寝るまでぼうとするしかなかった。

つまんねぇつまんねぇ、と心の中で呟きながら、何度も寝返りを打つ。


(どぅせ、時間がたって、昼になって、歯があたりやすくなってんのに気づくんだ。床に爪が引っかかる違和感で、また伸びてるって気づくんだ……暗くなって、太陽が見えなくなってんのに、全部わかるから、いやに……なんだろぅなぁ……)


そこまで考えてから、ぎゅっと目を閉じた。右をむいた体勢で、背中を丸めて膝を折り曲げる。


(……姉貴、はやく帰ってこいよ。はやく終わらしてくれ。終わってくれ。はやく、はやく…)


死導がはやく帰ってくることはない。

さきほど出て行ったばかりだ。

そう頭で理解していても、急かさないわけにはいかなかった。

いくら願ったところで、時間が進むことはない。

そんなことは百も承知。

でもいまはこれしか考えられない。

とにかく、はやく発作が治まってほしかった。

硬志が発作を嫌う理由は、人間が病気を嫌う理由と同じ。

かとおもいきや、まったく違う。

たとえば、風邪なら、人によって苦しむものが違う。

咳・鼻水が止まらない、体が重く感じる、熱がでるなどの症状がある。

人間はこの症状が嫌いだ。

辛いから病気に罹りたくないのだ。

しかし、硬志の発作は避けられるものではない。

かわりに、人間が病気で苦しむ症状がでない。

1日ですむ。

なら、いいじゃないかと思うか?

それは、なぜ嫌うのかを見ていただければわかるだろう。

すぐにすむ、治るのなら嫌う理由はないじゃないか?

そう反論が起こるだろうが、やはり、その理由を知っていただきたい。

硬志にとって、べつに絶対に発作を好めない理由があるのだから。


———————『本当の自分が出てしまう』———————


これが、硬志が発作を嫌う理由で、そのすべてだった。

風邪を引いてしまったとき、人恋しくなっていつもなら言わないことやしない甘えた態度をとってしまう。

と、思うだろう。

それならかわいいものだ。

しかし、それよりなお悪い。

普段、他人に見せている自分より素直になった自分がでてくる。

それが、甘えた行為よりも悪いのだ。


甘えるぐらいですむんだったら、どれだけいいんかな。

と、硬志は思う。


いや、断然、それのほうがいい。

俺の発作のほうが風邪よりいい?

そう思うなら、いますぐ俺の立場とおまえの立場を換えてくれ。

そしたら、俺は「これ」から解放される。

おまえは俺になるから、「これ」に苦しんで、風邪よりましだ、なんて言えなくなるんだ。

ははっ、ざまぁみろ、ばーか。

………発作がきて、本能がでてくるってことは、俺の本性が暴かれるってことだ。

俺の本性が他人に知られるのはどうでもいい、気にすることじゃない。

怖いのは、俺が〝本当の俺〟を知ることだ。

本能が表にいるとき、理性は消えてるわけじゃない。

だから、本能のままに行動してる〝本当の俺〟がなにしてるのかわかるんだ。

『本当の俺』って表現が悪いのかどうかなんか知らないけど、『本当の俺』のせいでいまの俺が偽物みたいに考えられるのが我慢ならないんだ。

いまの俺は、まったくべつのやつの仮面を被って、そいつの性格で話すふりをしてるんだって。

その、まったくべつのやつの性格を持ってるのは俺なんだって。

まるで自分自身を騙してるみたいだ。

そんなはずない。

俺は俺だ。

『いまの俺』は紛れもなく俺だし、不本意だけど『本当の俺』も……俺だ。

でも俺は『本当の俺』が嫌いだ。

認めない。

認められない。

『本当の俺』に現実をつきつけられるのが大嫌いなんだ。

……図星って喧嘩の発端だし。

だれだって、図星を指されたら怒るだろ。

俺もそうだ。

あぁあ、だから嫌いなんだ、争いなんて。

なんにかんしても、平和が一番だ。




   3


3限目と4限目の休み時間。

龍矢の携帯に連絡がきた。

連絡アプリにメッセージがくると、自動で表示されるように設定してあるので、わざわざそのアプリを開かなくても確認できる。

このメッセージが届いたのは、龍矢がべつのクラスにいる友人と廊下で談笑しているときだった。

学校ではマナーモードにしてあるから、音が出ることはない。

かわりに、バイブレーション機能になっていて、肌身につけていればその震動で連絡がきたかどうかがわかる。

授業中は指定カバンのなかに入れてチャックを閉じてしまえば、その連絡音で授業を妨害しなくてすむ。

友人と会話していたとき、携帯は制服である上着の右ポケットに入っていた。

龍矢はいったん会話を切り上げて、ポケットから携帯をとり出し、連絡してきた相手とそのメッセージを確認する。

死導からだった。

「今日、俺ははやく帰ってるけど家に来るな」というある程度の長さの文ひとつだけが表示されている。

この日の午後、龍矢の所属する部活は休みになっていた。

今朝、学校に着いてからそれを知り、まっさきに部活動が休みである旨と死導の家に訪れる許可を求める吹き出しを送った。

いま、龍矢の携帯に表示されているのは、龍矢のメッセージにたいする返答なのだ。

携帯に表示された死導からのメッセージを見ていると、友人に、「そろそろ授業が始まるからおたがいの教室に戻ろう」と声をかけられた。

顔を上げて友人の目を見ながら賛同し、「じゃぁ昼休みに」と挨拶して教室に入る。


何名かはもう着席しているが、まだ立ったまま友達と騒いでいる同級生の間を通り抜けて着席した。

始まるまで10分もない授業の準備をしてから、手に持った携帯を開いて求められるままにパスワードを入力し、死導からのメッセージがあるアプリを指でついた。

連絡アプリに着色された色が画面いっぱいに広がって、そのままで静止する。

アプリは自分が持つ情報をすべて読みこんでから、パッと連絡先の並ぶ画面に移動した。

最初に映ったものとはべつの色で、白い背景に数々の名前とその下の空白それぞれに起動して最後に送った、もしくは送られた文字が浮かび上がっている。

死導からのメッセージはさきほどのものであるので、見つけるのは簡単だった。

枠で囲まれた死導の名とさきほどのメッセージを指で触ったことにより、いままでのやりとりがその顔を見せる。

なにげなしに教室の前方に目をむけると、飾られた時計が授業まで残り3分だと告げていた。

まだ席に着いていなかった生徒が慌てて椅子を引いたり戻したりする、椅子の足と床が擦れる音が重なって教室内に響き渡る。

龍矢は携帯に目線を戻して、「なにかあるの?」と打ち込み、送信ボタンを押したあと、携帯の画面を暗くして鞄の奥深くに押しこんだ。


すぐに死導からの返信がくるとは思っていなかった。

相手は女優だし、ベリアルと組んで曲を売り出してもいるのだから、スケジュール帳のどこを見ても仕事の文字があるだろう。

いや、ひょっとするとその文字がないことのほうが珍しいかもしれない。

龍矢に連絡してこれたのは、たまたま休憩時間であったか、もしくは移動中であったのだろう。

そこまではいい。

わからないのは、今日、仕事をはやめに切り上げる理由だ。

龍矢の知っている死導は仕事好きで、ワーカホリックといっても過言じゃない、暇が嫌いな女だった。

朝は早起きして長距離のランニングをしてるらしいし、夜遅く帰ってきてからもベリアルと曲の相談をしているという。

しかし、どうしても予定をつくれないことがあり、そんなときは、大量に本を購入して読みふけっている。

前者は昔、テレビで司会に話しているのを見たことがあった。

後者は過去に遊びに行った際、いるはずなのに返事がなく、あちこちを探し回ってようやっと書庫で発見した、経験談から言えることだった。

しかも、ここ数週間は午前0時を回ってからの帰宅が続いているようで、今日も忙しいのが推測できる。

はやめに切り上げることなどできるのだろうか。

マネージャーを通してスケジュールは調整するといえど、もう決定ずみになっている予定に手を加えるのは簡単じゃない。

一般企業に就職したキャリアウーマンではないのだから、目の前に積み上がった仕事を効率よくさばけばいい問題でもない。

撮影が始まる時間、インタビューの時間、収録の時間……もう決定事項だ。

稀におしたりはやまったりすることはあるだろうが、基本、予定調和だ。

多忙で、休みも多くとれない死導が、はやく自宅に帰る理由は、「務めている会社の社長に頼んで、無理を言った。その分、埋め合わせもした。そうしなければいけないなにかが起きた」と考えられる。

そう考えた龍矢は納得した。


深く考える前にあんな文送っちゃったけど…たしかに〝なにかあった〟んだな。

俺が家に行っちゃいけないなにかが。

ってことは、訊いても教えてくれないかもしれない。

「家に来んな」って、たぶん、行っても邪魔で、全然俺にはわかんないことなんだろうな。

まぁ、俺ってべつに? 頭がいいわけでもないから、頼られないんだろうけど。

……んー、でも〝なにか〟ってなんだろ?

えー、死導が苦労することでしょ?

となると、ベリアルがまた怒ったの?

でもそれではやく帰るかなぁ。

あの人たち、周りに人がいるなかで痴話喧嘩するしぃ。

違うな。

なら、なんだろ?

………………やべー、全然わかんねぇ。

んあー、ふつうに死導から返信を待とうかなぁ。

って、あれ?

なんか………騒がしくね?

いったい、なに


自分のなかだけで悶々と考え続けていたせいで自然と俯いていた頭を持ち上げて、教卓があるほうを見た。

自分以外が椅子から腰を上げて、黒板のほうに身体をむけているのがまず目に入ってきた。

そのなかで、半分以下がまだ座っている龍矢を訝しげに見下ろしている。

彼らの奥で、教卓のうしろに立つ教師は、にっこりと笑って龍矢を見つめている。

途端、龍矢の体は熱をおび、両頬が真っ赤に染まった。

体はじわりと汗を発し、心臓がバクバクと脈立つ。

騒がしいと思ったのは、生徒が椅子を足で押す音とまったく立ち上がる気配のない龍矢に呼びかける教師の声だったのだ。

教卓に立っているこの教師はつねにおちついていて、ふざけた生徒の悪戯を受け流せるぐらい芯のある人柄を持っていると評判だ。

彼女は普段から真面目に職務に励んでいる人であるからゆえに、龍矢の愚行を見逃せなかった。

なぜなら、この教師は龍矢と目があうと、


「ずいぶんと深く考えこんでいたみたいね?さぞかし、私の授業よりも実りのあるものなんでしょう。この授業が終わったら、ぜひ、私のところに来てレクチャーしてくれない? 気になるわ」


そう提案してきたのだから。

ちゃんと授業を受けようっていう態度を示しなさいな、と言外から先生の怒りを感じる。

授業が始まったことにも気がつかず、べつのことにうつつを抜かしていた自分が悪いとわかっているので、反論することなく、はい…と震える声で答えた。

クスクスと数名の同級生が笑い、龍矢のことを噂する声が耳に入った。

いまさらながらではあるものの、席を立ってほかの生徒と同じようにその教師を見つめる。

今日の日直が号令をかけて、全員で揃って礼をし、再び席についた。


「それでは、先週の続きから話をしますね」


教師はそう言って、黒板に身体をむけた。



「————それは自業自得だな。時間くらいちゃんと確認しろよ」


龍矢の友人は冷めた目つきのまま、龍矢から聞いたさきほどの行いを諫める。

成城学園にある食堂で、龍矢は自宅の家政婦がつくってくれた弁当を、友人は食堂にある券売機の食券で購入した焼き魚の定食をつまんでいた。

龍矢があの教師のもとへ行き、ちょっとした説教を受けてしまったから、この食堂に来たのはほとんどのテーブルが生徒で埋まってしまった遅い時間帯だった。

あちらこちらからがやがやとほかの生徒の話し声、騒ぎ声が聞こえてくる。


「うぅ~。それ、先生にも言われたぁ。でも、しょうがねぇじゃん。だって、死導が俺に家に来んなって言うんだよ? なにかあるって思うじゃん」


友人に正論を言われてしまい、なにも言い返せなかった龍矢はそのときの自分がどう思っていたかを話した。

だが、それで納得してなにも言わないような人はない。

実際、この友人もそうだった。


「たしかに珍しいけど。もうすこしメリハリをもてって言ってんだよ。俺も、先生も。ま、もしくはなにもないかもしれないけどな」

「……どういうこと?」

「おまえが死導の家に来すぎてるもんだから、死導は自分ひとりの時間をほっしてるんじゃねってこと」


友人は焼き魚をほぐし、少量を摘まんで口に入れた。まったく顔色を変えることがないこの友人は、魚を口にするときと日当たりのよい場所で寝そべるときに顔をほころばせるのだ。


「えっ。なにそれ。死導が俺のこと嫌がってるって?」


思いつかなかった理由に思考は活動を止める。

そうであったりしたら。

そうではないだろ。

いや、ありえない。

そうではないでいてくれ。

龍矢はこの友人が言うかもしれない言葉をびくびくしながら待った。


「…可能性はなきにしもあらずってとこか。あいつのことだから、おまえに嘘を吐くなんてことはないだろうし、今日行って、おまえに怒るってことはあっても、鬱陶しがるなんてことはないと思うぜ。ま、今日はやめとけよ。すこしは遊びに行く頻度を減らしてもいいだろ、なぁ」

龍矢は友人の言葉にほっと息を吐いた。

そもそも死導とは龍矢が赤ん坊であった頃からの付き合いだ。

龍矢の父親が忙しく、頻繁に家を空けていたときに、代理として龍矢の世話をしてくれていたのだ。

母は龍矢の物心がつく前に亡くなっていたから、一時期、自分は父親と死導の間に産まれたのだと勘違いもしていた。

現在、龍矢は高校1年生。

出会ってから少なくとも15年は一緒にいる。

そんな年月がたっているのに、死導のあの美貌は変わることがない。

人外であるからなのだろうが、それを抜きにしても綺麗だと思う。

でも、その気持ちが恋愛に発展することはなかった。

抱くのはあくまでも親愛で、親代わりではなくなったいまでも自分に目をかけてくれる母のような存在であるから、どっちにしろ家族にかわりはない。


さて、友人に相談して気が楽になった。

まだ死導からの返信はないから甲乙つけがたいが、〝なにかある〟ということに囚われていてもしかたがない。その言葉どおりに理解するしかないと思いなおした。

この話はここで終わりということにして、つぎはなにを話そうか。


「ねぇ、マサキ。今日、放課後空いてる?」

「……空いてるが、どうした」


目の前の友人——東雲マサキ——はまっすぐ龍矢を見てきた。

相手はとっくに昼食を食べ終え、配膳をかたづけ終わっていた。

龍矢も話しかけながら食べ続けていたので、弁当に残っている食材はない。

袋の中にもとどおりに入れなおして、マサキにむきなおる。


「カラオケ行こうよ」

「なんだ、そろそろ期末だから危機感を覚えたとかじゃないのか、特に英語」

「ちょっと、なんでそうやって俺のことおいつめるの? 英語じゃないって、カラオケだって」


マサキの口から出てきた英語という言葉に冷や汗が出る。

慌てて話題を戻そうとするが、その態度が相手の不信感を煽ってしまった。


「おまえ…本当に大丈夫なのか。赤点をとると部活に出れないんだろ。しかも、死導と遊べなくなるぞ。なんか、死導に教えてもらってるんだって? 進歩はしてないらしいけど」


抑揚のない声が龍矢の耳を痛めつける。

疑問形で問われていれば、語尾が下がるはずであるが、マサキはそれがない。

淡々と言葉を紡いでいるから、親しくない人であると冷めた印象を受ける。

そんな彼の、言葉に隠れた心配もからかいも、幼馴染である龍矢にとっては読みとることなど造作もない。


「え、なんで知ってんの?」

「死導が言ってた」


携帯で、と手にとってちらつかせる。


「おまえ、死導の連絡先持ってんの? まじで? 知らんかったわ」

「もうひとりのおまえの保護者だからって。学校でのおまえを任された」

「俺の友人は俺の親だった…? なんか、複雑…」

「同年代の子供っていやだ」

「俺だっていやだよ。もぅ、みんなしてぇ、俺のことなんだと思ってんの?」

「目を離すとすぐにどっか行く子供」

「そんなん、小学生じゃん」

「遊んでばっかいる子供」

「変わってねぇよ、ねぇ」

「……じゃぁ、いまだに主語と動詞の位置がわからない高校生」

「はいっ、ストップゥウ! そうやって俺の危機感煽るのやめて!」

「英語の発音で読まないでローマ字読みしちゃう、ばか」

「やめろ、言うな。あれ、めっちゃ恥ずかしかったんだからっ。…ってか、いま、ばかって言った? ねぇ? おい、こらっ。こっち見ろっ」


龍矢の顔を見ることなくあらぬ方向に目線をやって、龍矢からの追及を避けたマサキは話を戻した。


「…カラオケ行かないで、図書館に行かないか。おまえの場合、はやめに手をつけといたほうがいいだろ」


それを聞いて、龍矢は顔を膨らまし、じとりとマサキを睨みつけた。


「…あとでいいじゃんか」

「カラオケだってあとでいいだろ。おまえ、テストの点数のことで死導をここに呼びたいのか?」


龍矢の頭のなかには、先生とむかいあって座る自分と死導がいた。

先生は龍矢の期末試験の結果をテーブルの上に置いて、このままだと進学は厳しいと想像上の死導に告げる。

死導は、やっぱりと一言呟いて、すっと龍矢を睨みつける。


『おまえ、やる気あんの? そんな調子じゃ、俺の手におえねぇんだけど。ってか、いいわ。好きにやってくれ。俺は知らん』


期待を含まない声が頭に響いた。

ぶわりと冷や汗が龍矢の体を覆う。

すべて想像上でしかないとしても、龍矢は心の底から死導に見捨てられることを恐れている。

龍矢にとって死刑宣告であるその台詞が、死導の声で見えない実体となって再現され、龍矢の耳に入ってくるほどに。


「それはいやだっ」


バンッと力強くテーブルを叩いて立ち上がる。

それに驚いた生徒の視線が龍矢に集まった。

当の本人は注目されていることに肩を跳ねさせ、おちつかないのか視線を彷徨わせる。

あげく、テーブルを見るように顔を伏せて、すみませんと呟き静かに席についた。

一方、マサキは龍矢のその行為を茶化すことなく、涼しい顔をしたまま話を続けた。


「……だろ。なら、決まりだ。今日は図書館にしよう。で、べつの日にカラオケに行こうぜ、な」


マサキはそう言いながら、食堂の時計を確認している。

龍矢は、うんと返事をして、同じように時計を見上げた。

昼休みはあと15分で終わる。

最後の授業が始まる五分前に動けばいいかと雑談を再開した。


「おまえは? なにがやばいの?」


今度は俺がおまえの苦手を知る番だと言わんばかりに腕を組み、両肘をテーブルの上について、身を乗り出した。


「……科学。でも、おまえほどじゃぁない。いちおう、赤点は回避できると思う」

「俺らって、苦手な教科が違うっていうか、アレだよな。俺の好きな教科をおまえが嫌いで、反対におまえの好きな教科を俺が…みたいな?」

「まぁ、やりやすいだろ。言っとくが、俺は英語が好きなわけじゃない。好きなのは国語だ」

「あー、そっか。でも、点数はいいよな。ちっくしょぅ、羨ましいぞ、文学少年っ」


龍矢の言葉に、マサキの口元でクスクスと空気の擦れる音がした。


「小説は面白いぞ。登場人物と一緒に、その出来事に遭遇している感覚になるからな」

「うーん、俺、ちょっとそれわかんないなぁ…」

「あと、表情…いや、感情が豊かで羨ましくなる」

「あ、それはおまえありそうだな。全然顔動かねぇもんな」

「おまえは俺のこと知ってるからいいんだが、まわりはそうもいかないだろ。だから、どうも孤立してる気がして…」


「大丈夫でしょ。俺、おまえのことかっこいいって、女子が話してるのしか聞いたことないよ。それにクラスメイトに話しかけられたりするんだろ? 孤立と、独りでいるのが好き、は違うじゃん」

「それも、そうだな」

「そうそう。親友の俺がいるから、おまえが孤独になることはないよ。ネガティヴになんなよ。おまえらしくないよぉ?」

「親友って…俺が言うんじゃなくて、おまえが言うのか」

「んぇ? なんで? なにかおかしいかな? 俺とおまえは親友でしょ?」

「は」


マサキはきょとんとして、龍矢の言っている意味がわかっていないかのように首を傾げた。


「………ん? え、ちょ、ちょっと待って? 親友って思ってたの俺だけ?」

「あ、そろそろ行ったほうがいいな」


マサキは龍矢の質問に答えず、席を立ち食堂の外に向かう。

龍矢は呼び止めるように何度も相手の名前を叫ぶが、マサキがふりむくことはない。

マサキは呼ばれているなかで、それは独り言なのかと思えるほど大きな声でたわいのないことを口にし続けている。

マサキに追いついた龍矢は答えようとする気配のない隣にいる人物に不満を漏らした。


「そうやって俺で遊んでさぁ。性格悪いぞっ」


マサキは龍矢の様子にクスクスと笑った。


「死導ほどじゃぁないだろ…そういえば、ふと気になったんだが」

「ん? なに?」

「おまえ、死導のことは俺の耳にタコができるぐらい話してるが、あいつの弟妹のことはまにも話さないな。硬志さんと…サクラさん」


龍矢はそれに、あぁ、と溜息まじりに呟いた。


「サクちゃんはまだしも、硬志くんと話さなくてさぁ、俺。せいぜい、ゲームを語りあうレベルかな。だから話すことないんだよね。遊びに行っても、硬志くん、離れで仕事してたりするから」

「あぁ、なるほど。会う機会がないのか」

「そぉだね。ま、たまに会ったりするけど……あぁ、そうだ。そうやって会ったときに思うんだけど。やっぱあの2人って似てないよね」

「そうか。似てるじゃないか」

「外見じゃなくて中身の話」

「そりゃ似るわけないだろ。姉弟とはいえ、べつの体にべつの人格なんだから。それで似てたら怖いぞ」

「まぁ、そうなんだけど……え、待って。それって顔が同じで中身も同じってこと? うわ、死導が2人いるようなもんじゃん。怖っ」

「だから、言っただろ。なにを聞いてたんだ、おまえ。……で、あの2人のなにが似てないんだって」

「あぁ、そうだそうだ。まず、一番に違うのはね、死導のほうが硬志くんよりも好戦的なんだよね。まぁ、ゲームだと逆なんだけど。死導、ゲーム下手だし」

「おまえ、それ本人に言うなよ。怒られるぞ」

「そう、それ! 死導っていつもおちついているわりにはすぐ怒んじゃん。でも、硬志くんは怒らないの。俺が硬志くんの好きそうなお菓子を食べちゃったときとかに、ちょっと機嫌悪くなるぐらいで」

「おまえ、そんなことしたのか」

「した。あとで謝ったけど。んで、なにが言いたいのかって話なんだけど、俺、思うのね。死導って自分の気に入らないことがあったとき、すぐ怒ったりしてストレス発散してるけど、硬志くんはどうなんだろって。たぶん、いちばん溜まってるんじゃないかなって」

「…でも硬志さんって好きなこと仕事にしてんだろ。ほら、よく言うじゃないか。ストレスを発散するのには好きなことするのがいちばん、って。俺もそれほど硬志さんと親しいわけじゃないからわからないが、大丈夫なんじゃないか」

「まぁ、俺らがそれ心配しても、なにさま? って感じだしね」

「あぁ。そもそもおまえが心配すべきなのは、今回のテストの点だし」

「……俺、いまなら『俺の幼馴染が母親のように接してくる』っていう話書けるわ」

「…そうか。なら、書いたら見せてくれ。辛口で、ダメだししてやるから」

「とめないの? しかもそれ、絶対ボロクソ言われるやつじゃんっ」

「楽しみにしてるな」


マサキはそう言い残して、自分の教室に入っていった。

龍矢は廊下に1人残り、ぐるぐるとついさっきの自分とマサキのやりとりを思い返していた。

『俺の幼馴染が母親のように接してくる』

マサキが龍矢のテストの結果について煩わしいほどに口を出してくるので、やめてほしいということを遠回しに表現した皮肉だ。

しかし、マサキはあえてその嫌味によせた冗談を返すことで意趣返しを行ってきた。

龍矢はそんなマサキに敗北感を覚えた。

が、それと同時に、マサキをすこし苛つかせてしまったのだと気づいた。

そう考えたのも、めったに微笑まないマサキの笑顔を見てしまったからである。

いや、あれは笑顔というよりも、苛々を隠すように被った笑顔の仮面といったほうが正しいのかもしれない。


(———やりすぎたかもしれない。あとで、謝って、お詫びにあいつの好きなもの奢ろう……)


今日はちょっと散々だ。

死導には家に来るなと言われて、先生には呼び出され、さらには、親友を苛つかせてしまった。

それほど気にしなくてもいいことではあるのだろうけれども、こうもよくないことが続いてしまうと暗鬱になってくる。

さきほど、マサキに、ネガティヴになるなと言ったのに、自分がなってしまいそうだ。

龍矢ははぁあと深い溜息を吐いて、トボトボと教室に入った。





  4


——————護送車に乗せられてから、どれだけの時間がたったんだ?

目隠しをされているから、どこにいるのかなんて見えないし、そもそも見当がつかない。

俺の目の前に広がるのは暗闇だけだ。

ただ、俺と同じ状況になってるやつが2人いることはわかる。

呼吸音とときどき、体を動かす衣擦れが聞こえるからだ。

おそらく、俺が気づいているということは、相手も俺ともうひとりいるのをわかっているんだろう。

……この道中、声をかけてはこなかったが。

まぁ、それもそうか。

俺だってわざわざ仲よくもないやつを気にするようなばかはしたくない。

……いや、そもそも、自分以外の犯罪者と仲よく、というか、好意的な関係を築こうという気がないからか。

そうだ。

俺は、ムショにいた。

檻のなかで、退屈で無機質な時間のなかでなにをすることもなく、過去にした行為を思い出して愉悦に浸っていたんだ。

数時間前だってそうだ。

そのなかでいつもと違ったのは、警察のやつだか看守だかが俺を呼びに来たことだ。

そいつは、黙ってついてこいとしか言わなかった。

あげく、檻から出されてすぐのこれ。

目隠しだ。

しかも、ムショから外にむかう途中、いくら尋ねたって返ってくるのは無言だった。

教える気なんてさらさらないってことか。

融通の利かないやつだったな。

知りたがってることぐらい教えてくれたっていいだろうかよ。まったく。

そうやって悪態をつきながら、言われたとおりにそいつについていった。

そのとき、ぎゃぁぎゃぁとヒステリックに喚いている男とブツブツ呟いている気味の悪い男の声を耳にした。

……うるせぇなぁ。

殺したくなってくんだろうが。

手錠なんかされてなきゃ、ぐちゃぐちゃにしてやりたいところだ。

身動きのとれない俺自身が恨めしかった。

導かれるままに外に連れ出され、なにかのなかに入るように言われた。

そのまま右足を上げて、そのなにかにかけるとぎしりと揺れた。

それでこれが車、護送車のたぐいだと気づいた。

奥に入って適当な場所に腰を下ろすと、俺を連れてきたそいつが扉を閉めて離れる気配がした。

しばらくして何人かが同じようにして乗りこんできた。

そいつらが席につくと車は走りだし———。


ってことでいまにいたる。


突然、車内がガクンッと大きく揺れて、それからずっと震動し続けている。

車輪が砂利を踏み、雑草が車体に当たる音も響き始めた。

明らかに舗装の悪い道を進んでいる。


(本当に、どこにむかってるんだ?)


そうして5分もせずに護送車が停まった。

車の頭部から人の降りる物音がし、そいつらは荷台のほうに来ることなく、車から離れていった。

すこしして車のところに戻ってきた。

どうやら人を呼びにいっていたようで、砂利を踏む足音がひとつ増えている。

今度こそ荷台の鍵が外され、扉が開いた。


「出ろ」


不愛想に告げられて、おとなしく荷台から出る。

その途端、体を引かれて、どこかに案内されるが、20歩も歩かないうちにそいつの足が止まった。

つづいて、俺の後頭部に手を回される感触がした。

目隠しをとろうとしているらしい。


「…あ、まだとらないでくれ」


聞いたことのない男の声でそう言われ、そいつの手が離れる。

いま声を上げたやつを呼びにいっていたのか。


「こいつらの拘束と目隠しをとるのはなかに入ってからだ」


なか?

……ってことは、俺はなにか建物の外にいるのか。

で、見えやしないが、俺はその建物の前にいると。

男がそう告げると、再び進むように催促された。

そのとおりに足を進めていくと、足で感じる地面が固さを帯びた。

コツコツと軽やかに鳴ることから材質は石かなにかであるとわかる。

いざ、その建物の前についても扉らしきものにあたることがなかったから、あらかじめ開けておいてあるらしい。

建物のなかはなんの匂いもしない。

ふつう、使われている建物だったら、生活感のある匂いがするのだが、ここはそうではないのか。


「ごくろうさん。あとは俺がするから、帰って報告を頼むよ」

「しかし、大丈夫ですか? こいつらは…」

「わかっている。それを承知の上で言ってるんだよ。あ、手錠の鍵だけくれ」

「……では、我々はこれで」


バタンと扉が閉められた。

それにともない、人の気配が消える。

扉越しに車の動く音が聞こえて、本当にあいつらが去ったのだとわかった。


「えーっと、左から縄本正則、坂本浩二、明谷孝彦…であってる?」

「な、なんで俺の名前…」


ムショで聞いた、ブツブツと鬱陶しいほどまでに独り言を呟いていた男の声が俺の左隣から聞こえてくる。

最悪だ。

こいつと同じ車に乗ってたのかよ。

それに気づいて、げんなりした。


「おまえたちを連れてくるように頼んだの俺だからな。当然、資料ももらってる。縄本正則、32歳。自分の気に入った人間を男女関係なくさらって殺害し、その遺体にサブカルチャー…アニメとか漫画の登場人物が着ている衣装を着せて楽しんでいた、いわゆる異常性癖の持ち主。で、あってるだろ?」


なるほど。

声も態度も気持ち悪いと思っていたが、やっぱりやっていることも気持ち悪いのか。

縄本と呼ばれた男はずっと言葉にならない声を発している。


「んで、そのとなり、坂本浩二、27歳。あぁ、サイコパスって診断されてるのか。まず、実の母親を殺害。これが中学生の頃。のちに九人の彼女を殺害し、逮捕された。調査から、殺害した母親に躾と称した虐待を受けていたことが発覚し、それがサイコパスとなる原因だとされている…おまえのその、暴力=愛って考えかた、歪んでるな」

「歪んでる? おまえらはそう言うが、そもそも正常、常識ってのは大人に教わるものなんだろ。それを基準にして非常識を決めんだろ。俺にとってあの人のそれがそうだったんだ。俺の常識があれだった。だから、愛を〝愛〟で返してなにが悪い。だいたい、全員が全員、まったく同じ常識を持ってるって言えるのか? 俺には、おまえらが言ってる正常も常識も押しつけてるようにしか聞こえないんだよ」


この男、俺に説教しやがって。

イカレてるって?

おまえがイカレてるんだろ。

サイコパス?

偉そうに、正論だって言って偽善をふりまいてるおまえらのほうがサイコパスだ。


「……べつに、俺はおまえの考えを否定する気はないぞ。さて、つぎは明谷孝彦、おまえだな? 年齢は38歳。アパート暮らしだったが、自室はゴミ部屋と化しており、ある日、隣室に暮らしていた中山氏がその匂いに苦情を言いにきたが、逆上して中山氏をその家族もろとも殺害」

「お、おまえ…俺のしたことを全部声に出して読んでどうする気だっ。なにが目的だっ?……あぁ、わかったっ。懺悔させたいんだろ、俺にっ。みっともなく叫んで涙を流してるのを見て、悦に浸りたいんだろっ。ざ、残念だったなぁっ。あれは、悪いのは俺じゃないっ。そうだ、あの爺が悪いんだっ。たかが隣人のくせして俺に偉そうに指図してくるから、罰があたったんだっ。あの爺の自業自得なんだっ。あはは、ひ、ひひひ」


俺の左隣にいる明谷とかいった発狂やろうは意味不明なことを喚きたてている。


「懺悔? なんでそんなことのために俺みたいな一般人がおまえら犯罪者を集めんだよ」

「な、ならなんで…?」


男はオタクやろうの弱々しい問いにフッと笑った。


「明谷孝彦、おまえはなんで俺がおまえらの罪状を声に出して読んだのかを訊いたな? それは本人確認のためだよ。これで集まったのがべつの人間じゃ意味ねぇからな」


思ったよりも深い意味がなくあっけに取られた。

なんだそりゃ?

俺に罪悪感とかなんとかを~とかじゃないのか。


「とりあえず、おまえらが訊きたそうなことを説明しようか。まず、現在位置だな。悪いが特定とかされると迷惑なんで詳しくは言えない。ここはちょっとした屋敷だ。ヨーロッパで想像できる、あの豪華な外見を思い浮かべてくれ。で、つぎに俺がおまえらをここに呼んだ理由だな…ほかでもない。おまえら、殺人に慣れたやつらを呼んだのは、この屋敷で殺してほしいやつがいるからだ」


……突拍子もないな。ここが建物のなかなのは想像がついたが、まさか俺に、殺人犯に復讐することが目的じゃなかったとは…しかも、殺しを正当化するかのように依頼してきやがった。

待てよ。

もしかして俺をあの車に乗せたあいつらはこれを知ってたのか?

……はっ、人にいくら正論をぶつけて、世のために動けだの人を殺すなだの共感しろだの言ってきたところでてめえがそれなのかよ。

やっぱり常識なんてあってないようなもんじゃないか。


「まぁ、とは言ってもすぐに、はいそうですかって承諾されるとは思ってねぇからな。見事殺せたやつには、褒美っつぅのかどうかは知らないが、似たようなモンを用意してやる」

「……褒美?」

「———自由をくれてやる」

「はぁ?」

「自由? い、意味がわからないよ」

「成功者は、過去に犯したその殺人罪を帳消しにして、ムショから出してやるって言ってんだ」

「……は、おいおい冗談はよせよ。おまえにそんなことできるわけないだろ」

「できるから言ってんだよ。俺はそういう施設の人間と知り合いでな。むこうには恩を売ってあるから、俺の言うことはなんだって聞いてくれる」

「バッカじゃねぇの? そんな妄言、誰が信じるってんだ? あん?」


明谷はゲラゲラと耳障りな声で嗤っている。


「……べつに信じなくてもいいぜ。そもそも、おまえらに拒否権はないしな。断るようなら、いますぐ迎えに来てもらってそのまま死刑にでもしてもらおうか」

「……また、質の悪い冗談か」

「さぁ、どうだろうな。試してみるか?」


目の前の男からは焦りも苛立ちも読みとれない。

あくまでも飄々とした態度を続けているのが、声色から分かる。

……ほかのやつらがこの男を胡散臭い目で見ている一方で、俺は(こいつの言っていることは本当だ)と思っていた。

気づけよ、アホども。

おかしいと思え。

どうしてあの看守たちが俺たちをここまで連れてきた?

こいつは自分のことをただの一般人だと評したが、本当にただの一般人なら、犯罪者をこうしてシャバに呼び戻せるわけがない。

サツだって看守だって、犯罪者——特に俺みたいに何人も殺してきた凶悪犯を、たとえ、かたときでも手元から離したいとは思わないだろ。

ふつう、そんなやつがいたら、共犯だと思われて捕まるはずだ。

でも、この男はそうなっていない………違うか?

…なら、考えられるだろ。

この男はサツ側、政府側の人間だ。

しかも、上層部のやつだ。

だから、あの看守たちに命令することができた。

だから、あいつらが反抗することなく、俺たちをこの男のもとに預けた。

……やっぱり、これしか考えられない。

とすると、「そういう施設」とかもみ消しとかの信憑性も上がる。

つまり、こいつは政府の、正義をかざす側の人間でありながら、俺たちみたいなことも平気でする、汚職議員っていう存在に近い。

それに、こいつの言うとおり、「そういう施設」があるんだとして、俺の、そのサツが決めた殺人罪っていう罪を消してくれる、なかったことにできるっていうなら、それはこの提案に乗っておくほうが賢明なんだ。


「おまえら、ばかすぎ。あきれてものも言えないな」

「は? なんだと、てめぇ」

「考えてもみろ。なんでこいつは俺たちを呼び出すことができた? 俺たちがちょっと前までいたところをどこだと思ってんだ?」

「そんなの、ムショに決まってんだろ」

「い、いや、彼が言ってるのはそういうことじゃない。たとえば、一般人が犯罪者と面会したいって言っても、もしそれが可能だったとしても、せいぜいガラス越しだよ。だから、こうやって刑務所の外に連れ出すなんて、ふつうできっこ……そうか、ということは、この人は本当に……?」


どうやら、明谷よりも縄本のほうが話のわかるやつであるようだ。

まだ、自分の置かれている状況を察しきれていない明谷は、俺のとなりで地団駄を踏んだ。


「そんなこいつの妄言よりさぁ、俺の拘束とってくれなぁい? いつまで、つけっぱなしなんですぅ?」

「全部話し終わったら、と言いたいところだが。参加する気のないやつの拘束をどうしてとおらなきゃいけない?」

「……っ」


まぁ、それはそうだろうな。

この男にとってメリットのないやつの拘束をとる理由なんてない。

いくらこの男に盾突いたって、手錠の鍵はこいつが持ってるし、こっちは手を満足に動かせないうえ、目隠しまでされている。

殴り合いになったら、分が悪いのはこっちだ。

俺たち犯罪者3人とこの空間にいるこの男は、俺たちにやられない自信があるからこそ、こうやっていられるんだろう。

もし、ここから逃げられたとしてもこの拘束だ。

すぐに捕まっちまうのは目に見えてる。

結局、おれたちには反対する権利なんてなかったんだ。


「……わかったよ。お前の言うとおりにしてやるよ」


ようやく、明谷も自分の立場を理解したようで渋々と男の案に乗った。


「よし。制限時間は明朝。太陽が昇るまでとさせてもらうぞ。武器はこの館に腐るほどある。好きに使え」


……?

武器がある?


「ちょっと待て。この館に武器がたんまりあるってんなら、自分でやればいいじゃねぇか。なんでそうしねぇんだ?」

「……それで殺せたら、わけがねぇだろ」


明谷の問いかけに小声で答えた男は、手際よく俺たちの手錠の鍵を開けていく。

ガシャンと音を立てて、手首にかかる錘がなくなる。

締めつけられる感覚が残る手首をいくどか擦り、目隠しに手を伸ばした。

男が傍にいたときに鼻をくすぐっていた香水の匂いが遠ざかり、背後で木製のなにかの軋む音がした。

後頭部で固定されていた結び目をなんとか外すと、俺の隣には例のあの2人しかいなかった。


「……ど、どうする?」


縄本がきょどきょどと話しかけてきた。

どうするか、だと?

決まってる。


「いま丸腰だろ。武器をえるのが先だ」


そのまま目線を前にむけた。電気がついておらず、周りの状況をうまく把握できない。


「暗っ。電気ぐらいつけとけよ」


明谷がそう愚痴を吐いて、手さぐりに電源を探し始めた。


「アホが、つけんな」

「は? なんでだよ」

「つけたら、どこにいんのか知らせることになるだろ。あたりまえだ」

「……それもそうか」


明谷は俺に指図されたことが気に喰わないのか、渋面をつくりながらも電源を探ることをやめた。

ったく、すこしは考えやがれ。

なんでお前らなんかの世話を焼かないといけないんだ。

心のなかでそう呟くにとどめて、また1階全体に目をむけた。

さきほどよりも目が暗闇になれたのか、ぼんやりとこの階に存在しているものの輪郭を掴むことができる。

どうやら、1階には左右に伸びる通路、奥には2階にむかう階段があるだけらしい。

観葉植物とか甲冑などといった装飾物のたぐいはなかった。

呼吸をするたびに、埃っぽい空気が気管を通って肺に流れこんできた。


(…本当にこんなとこにいんのかよ……)


耳をたてて細かい音をも聞きとろうとするが、鼓膜が震えることはなかった。

1階に俺ら以外の生き物がいることはなさそうだった。

好都合だ。

身に迫る危機に怯えながら武器を探す必要はないな。少なくとも、1階にいる間だけは、ではあるけれども。


「ど、どうするの? 全員で、か、固まって行動したほうがいいのかな?」

「げぇっ。なんでお前らと行動しなきゃなんねぇんだよ。仲よくする義理もねぇのに」

「それにかんして俺も同意見だな。なんのメリットもないだろ」

「で、でも…相手がなんなのかわかんないし…」

「は? おまえなに言ってんの?」


明谷は縄本の発言があまりにも現実離れしているために笑いがこみ上げてきていた。

それはそうだろ。

誰が、人以外のなにがこんな館に閉じ籠るっていうんだ?

たとえば、熊とかの動物だったとして、そいつがドアノブを回せるのか? 電気をつけられるのか?

俺たちが歩いても埃以外に感じる障害物がないんだぞ。

動物特有の、あのなんともいえない生臭いのか血の匂いなのか判断できない獣臭さもしないんだから。


「あ、RPGとかホラー要素のあるアドヴェンチャーゲームだと、こういった洋館には、ば、化け物が潜んでいるんだ。化け物は突然現れて、ひとりになった僕たちを追いかけて、殺そうとするんだ。だ、だからひとりにならなければ」

「殺されないってか? ははっ、お前アホすぎだろ。ゲームと現実を一緒にすんなよ。いいか? よく聞けよ。あの男は殺してほしいやつがいるって言って俺たちを連れてきたんだぞ? それがどうして化け物になるんだよ。しかも、ここに武器があるんだぞ。武器で殺せるってことは化け物じゃねぇだろうがよ」

「じゃぁ、どうして人だって言いきれるんだよ。『やつ』って言っただけで、人間だとはかぎらないだろ」

「あ? なにおまえ。さっきから偉そうにべらべらしゃべりやがって…。うっせぇんだよ。殺すぞ」


持論の穴を指摘されたことに気分を害した明谷は、痛いところをつかれたという事実を認めようとせず、そのうえ、それを隠そうとしてあけすけな殺意を縄本にむけた。

八つ当たりにも等しいその悪意を浴びたことで、縄本はその無駄に幅のある図体をびくりと揺らした。

俺はその幼稚なやりとりをこれ以上、目にも耳にも入れたくなかった。

明谷と縄本をしり目に足を進めて、左右に伸びる通路のうち、右へ伸びるものを選んだ。

……あの2人の横を通りすぎたとき、なにやら話しかけられた気がした。

気がした、だけかもしれない。

俺が選んだ通路には左手に3つの部屋が、右手には部屋の数と同数の窓があった。

その窓からは仄かな明かりがさしてきていて、うっすらと廊下を照らしている。

俺がさきほどまでいた玄関ホールのように、廊下になにかしらの装飾品があることはなかった。

床に細長いカーペットが敷かれているわけでもないので、石と石が組み合わさったタイプの床面が惜しむことなく俺の眼下に晒されている。


(——なんの面白みもないな。ここを造ったやつはいったいなに考えてんだ?)


ともかく、俺はまず手前の部屋から順に武器を探していくことにした。

意識をせずともたってしまう自分の足音を耳にしながら、一番近い部屋の前に立つ。

そこでふと、「そういえば、この館の部屋に鍵はかかっていないのか」と気になった。

歩いただけでそこらじゅうからは埃が舞い、なにをしてなくてもどこか黴の匂いを含ませた空気に触れてしまうような建物だ。

かかっていないほうがおかしい。

そう思いながら、取手に手をかけて回す。

手をつけた鉄製の棒は抵抗することなく動いた。人間ひとりが余裕で通り抜けることのできるほどの幅を開けて、部屋のなかへと一歩を踏み出した。




   5


ピクッ。

下のほうでくぐもった音を聞いた。

この屋敷の1階の、玄関ホールにある重厚な扉だろうとすぐ気づいた。


どうやら、エモノがはいってきたらしい。



なんで、くちもとがヌれている?

あぁ、いつのまにかヨダレなんてたらしてたのか。

まぁ、このあとにあるオアソビに、おもいをはせればそうなるか。


口の端から零れる唾液を乱暴に拭う。


ピリッ。


いたみがはしる。

ツメできったみたいだ。

それほどきにならない。

むしろ、そのシゲキがここちいい。

 

あぁ。

たのしみで、たのしみで、しかたない。

 

そわそわと体が疼く。


さぁ、さいしょはだれからイこうか。


どんなやつがいるんだろう。


なきわめいて、にげまどうのもたのしいけど。


やっぱり、ムボウにもたちむかってくるほうがいい。


よりいっそう、たのしめる。


そうそう。


オレに、キバをむいてさ。


 

そのキバがオレにひとつのキズもつけられなくて。


それをみて、ゼツボウするかおがみたい。


 

しんじられないものをみるようにオレをみて。


ことばにならないこえをあげて。


ジブンのせいを、しょうらいを、ゼツボウするかおがみたい。


あぁ、すっごいたのしみだ。


 

こんなたのしいことをいままでできなかったのがくやしいぐらい。


 

……させなかったおれがニクいぐらい。


はっ、なんだよ。

 

オマエ、ジブンのことニンゲンだとでもおもってんの?

そんなわけねぇだろ。

 

オマエのアネをみてみろよ。

あんなすましたかおをしてさ、ハラでなにかんがえてんのかしってんだろ?


オマエだってそうじゃんか。

オレだってそうだよ。

わすれるわけねぇじゃん。

あんだけ、ヤラれたってのに。


いままでなにもしなかったのが、エライとでもおもってんの?

ヘヤにとじこもって、あんなモンつくって、それがエライとでもおもってんの?


オレがいうんだ。

まちがいない。


オマエのそれは、まっかなウソ。

ぶっといタテマエ。

そとからはカタいけど、なかからはモロい、ぶっとくてやわいタテマエ。


……いつもいつも。


オマエはオレをひていする。

 

オレをひていしても、オレはいなくならない。


わかってんだろ。ミトめろよ。


オマエとオレは、

 

アイツラを

      さいて

ちぎって

コロして

たべて



————————エツにひたりたいんだ。


こころのそこから。

そうおもってるんだ。

そういう、オレとオマエがいるんだよ。



あははは。

さぁて、どうするかな。

このまま、めのまえにとびでるのはよくない。

オレは、じわじわとおいつめたい。


…アイツラ、まだうえにくるケハイないじゃん。

 

……なんだそれ。

つまんねぇじゃん。

ゾクゾク、しねぇじゃん。



あ、もしかして、あれ?

オレから、こいってこと?


んん、ふふ。

いいねぇ。

おもしろそう。

そういうきなら、オレからイこう。


カツカツ。

 

音を立てながら部屋を出る。

ゆっくり。

ゆっくりと。

下の階に向かっていく。

道中、べろりと指先を舐めた。

急ぎそうになる足に意識をむけて、わざとのそのそと一歩を進める。

これが意外と大変で、気を抜くと走ってしまいそうになる。

すぐに階段にさしかかった。

ふわりふわりと一度に何段も踏み飛ばして、すぐに1階についた。

あたりを見まわしても、だれもいない。

一歩………耳を澄ましてみる。

左右からものを動かす音が聞こえてくる。

音の大小もあるから、バラバラに動いているらしい。


……ヘェ。

ぎゃぁぎゃぁいってたやつがいるわりに、ケッキョク、ひとりでうごいてるんだぁ。

いっしょでもおもしろかったろうに。

そこは、ザンネン。


みぎと、ひだり。

どっちにいこうか。

………。

ど、ち、ら、に、し、よ、ぉ、か、な、ぁ、カ、ミ、サ、マ、の、

……あ、これ、やってもムダだったわぁ。


ちょうど、ゆびでさしてるし。

とおくからにしよ。


みをひそめるなんてしない。

わざとおとをたてて、アイツラがふしぎにおもってでてきたら、それはそれでいい。

ゆっくりとあるきすぎて、それででくわしたら、それはそれでいい。

アイツラがオレをケイカイしてでてこないのなら、それでもいい。


アイツラにあったとき、オレがたのしめればいい。

ぜんいんとか、ひとりでとか、ジュウヨウじゃない。


だって、どっちにしろ。

オレをみたときに、アイツラがあわてふためくのなんてまちがいないんだから。

 

そこからが、おたのしみなんだ。


……あぁ、もうついちゃった。もっとおそくてもいいのに。


ここ、だれかはいってんのかな?

……。

んー、わかんね。

オレ、アイツラのにおいとかしらねぇし。

でも、だれかはいる。


カリカリカリカリ。


爪で扉を引っ掻いてみる。


さぁさぁ、どんなハンノウすんの?


………ガタン。ガタガタッ。


! アハハッ。オレにビビッてヘヤのおくににげたっ。

 

どうしよっか。どうしよっか。

このままへやにはいってもいいけどなぁ。


……あ、そうだ。

 

その隣の部屋に入る。


ここにはだれもいない。うん、しってた。

だってなんのケハイもねぇもんな。


まっすぐに部屋の奥に歩いていき、窓枠を掴む。

乱暴にだけれども、静かに窓を開けた。

その途端、外の風が肌を撫でる。

窓枠に足をかけて、上半身を外に出す。

ぐぐっと体を伸ばして、右隣の窓からなかを覗いた。


アハッ。いたいた。オレにせをむけて、トビラをにらんでやがる。

オレに、きづいてない。

 

……コイツ、ブヨブヨだな。

だいぶアブラがのってやがる。

んんー、ふつうならウマそうなんだけどな。

アブラだらけってマズいんだよなぁ。

……ま、いっか。


このあと起こるであろうことを想像して、顔がにやける。

よしよし、と呟いて、窓枠を飛び越えた。

右隣の窓の前に立って、拳をふりかぶり、その窓を割る。

 

うしろから聞こえた音に驚き、太った男(縄本)がふりかえるのと、オレが部屋のなかに降り立ったのは同時に起きたことだった。


「ひ、ひぃぃ」


んん?

このへやで、みつけたのか?

そのタントウ。

 

……あーあ、それ、ほうりだしちゃうのかよ。

いちもくさんじゃん。

へやのデグチをめざしてさ。


……………フーン。ツマンネ。


オレは、ドタドタと鈍い足音を立てるコイツの背に飛びついた。


「離せっ。離せよっ、化け物っ」


ほとんどキンニクはない。

ブニブニとした、にくのカンショク。


じたばたとアガいてるけど、ムダ。

そんなんじゃ、オレをひきはなせないんだよね。

ホラホラ。もっとアガいてよ。

たのしませてよ、オレを。

 

……?


自然とオレの鼻が嗅ぎとった。


うっわ。

コイツ、ハナミズだしてる。

キッタネェ。


……コイツ、シッキンすんじゃね?

このカンジだと。

げぇっ。

そんなん、くいたくねぇんだけど。


「だ、だれかぁっ。たすけてくれぇっ」


はぁ?

オレにいえよ。

なきわめくなら、オレにいっぱつあててみろよ。


ムカつくな。

ちょっとなぐってやろ。


「ぎ、ぎぃぁああ」


あ、やりすぎた。

チのにおいがする。

……しょくよくが、そそられるにおいだ。

ぐぅぅ、ってハラがないた。

それもそうか。

きょう、なんにもくってねぇもんな。


? ハラのおとがきこえたんか?

このデブ、もっとアバれるようになったぞ。


「こ、殺されるっ。いやだっ。いやだぁっ。し、死にたくなっ、たすけて、だれかたすけてよぉっ」


………うっぜ。


デブの首に手を添えて、ほんのちょっと力をこめた。

ボキンと音がして、デブが静かになった。

首がぐってりして、変な方向に曲がっている。


よし。

しずかになった。


背中から降りて、デブの体を見下ろした。


………どこにも、オレのすきなとこねぇじゃん。

でも、スキキライはダメだもんな。

アネキもサクラもよくいってる。

いや、アネキとかそもそもくってねぇじゃん。

なんでそれで、オレにいえんの?

ムカつくんだけど。


………ちょっとどっかくえそうなとこ、くってみよう。

どこがいいかな。

あ、コレにしよう。


デブの右肩と右手を掴んで、その腕を伸ばした。


…イタダキマス。


ガブリ。

 

ぐじゅぐじゅ。


脂ののった肉が歯で刻まれていく。

ドロドロする血が喉に入ってくる。


………びっしゃびしゃ。

マズい。

フユカイ。


パッとデブの腕から手を放した。

血に塗れた口元を手の甲で拭い、部屋の外に意識を集中させる。


……へやのそとには、だれもいなさそうだ。

おとがきこえない。

もうこのカイにはいないのか?

 

どうかなぁ。

コイツ、ずっとびいびいうるさかったからなぁ。

イドウするおとがかきけされたかもしれねぇ。

ってことは、またさがさなきゃだ。

コイツがあぁやってさわいでても、だれもこなかったんだ。

アイツラ、こそこそしながらオレをヤるきかいをうかがってる。

こずるいやつらだ。


……コイツはにげたけど、そりゃぁセイカクだろうな。

コイツラがはいってきたときにきこえてきたあのかいわ。


このデブは、しょうしんものだ。

で、のこりはヘンにおたかくまとまったやつと、このデブとはべつのイミでぎゃぁぎゃぁうるさいやつ。

……どっちもコイツみたいににげそうになかった。

はなしかたでわかる。

ジブンにじしんがあるやつのはなしかた。

なにかツゴウのわるいことがあるとマワリのせいにするやつの。

ヤりがいがある。

どっちにあたっても、コイツよりたのしめそうだ。


デブを放って、部屋から出ようと扉にむかう。

扉をはめる枠組みから上半身を出したところで、ふと影がさした。


——————?


すぐに判断ができなかったが、条件反射かそこらで左腕を掲げて頭を守った。


ざくり。


——っ!


大型の斧が左腕の半分まで突き刺さっている。

襲いかかってきたのは、あの煩いやつ(明谷)だ。

ずっと、オレが部屋から出るまで、扉の影で様子をうかがっていたらしい。

そうこうしている間、ぎちぎちと斧に力がこめられていく。

このまま左腕を斬り落とすつもりか。


そうはさせるか。


コイツの斧を握る腕を掴んで、ギリリと力をこめた。


「いっ」


目の前の男は悲鳴を上げて、斧から手を放した。

オレも同時に男の腕から手を放して、左腕に刺さった斧の背を掴む。

ズボ。

案外、あっけなくとることができた。

その斧を後方に放る。

これでコイツが簡単に斧を手にすることができなくなった。


さて、どうでる?


そう思いながら男に視線をむけると、オレが掴んでいた腕を擦りながら後退しているところだった。


「お、おまえだろ。あ、あいつが殺してほしがってたやつ」


……?

なんのことだ?

あぁ、そうか。

アネキはそういったんだな、コイツラに。

だいぶ、はったりだな。

アネキがオレをころしてほしいわけない。

ましてや、オマエラなんかに。


コイツになにも答えないでいると、オレが手出しできない距離をとってから言葉を続けた。


「おまえ、あいつになにしたんだ? そんなに……ここに閉じこめられるようなことしてんのかよ。あ、あのキモオタクにやったみたいなことでもしたのか?」


声を震わせて、いびつな笑みを浮かべているコイツ。


ばかかよ。


オレはなにも言わない。


なんでオレがアネキにそんなことしなきゃいけねぇんだ。


……あぁそうだ。

コイツラ、エサだってジカクないんだったな。

いままできてたやつらもおんなじカンジだったわ。

オレとアネキのカンケイをしらねぇから、すきかっていってるんだった。

わすれてたわ。

ってか、どうでもいい。

しんそこ、どうでもいい。

オレラのカンケイなんて、いまはどうでもいい。


「わかるぜ。あのやろう、気持ち悪い顔でさ、偉そうに話しかけてくんの。もう、うぜぇったらない。だから、いなくなって清々してんだ。おまえだって、あいつのこと鬱陶しいと思ったろ? 同じだな」


…………。

さっきからなにをいってるんだ、コイツ。

 

オレにオノをブッさしといて、なにいってるんだ?

なんでそれで、オレが「うん、そうだな」っていうとおもってるんだ?

そんなにしにたくねぇのか?

そうだったら、ナットクできる。

コイツがさっきのあれをみてるんなら、できるだけジブンのセイゾンカクリツをあげようとしてるんだ。


「あいつは俺に、お雨を殺せたら自由にしてやるとか言ってたけどよ」


へぇ。


「俺はできるだけ安全に生きたいんだよ。どうせ、俺たちを自由にする気ないんだろうし」


そうだろうな。


「だからよ。俺はこの状況を利用する」



どっぷん。


………?


くせぇぞ。なんだこれ。


コイツがもってるの、なんだ?


それ、どこでみつけた?


「おまえを殺さなくても、ここから逃げれば生きてられるんだろ?」


ジュッ。


目の前にいるコイツの手元が明るくなった。


「これはただの足止めだ。まぁ、死んでもそれでいい」


あぁ、それ。


マッチか。


おれがいつも、カジでつかってる。


マッチ。


……ってことは、これ………アブラか?


「じゃぁな、『ツノ』の化け物。燃えてなくなれ」


ヒ、だ。


オレのまわりにヒがある。


ぼうぼう。


ぼうぼう。


もえてる。


みえない。


きこえない。


コイツ、いってることとやってることがチガウぞ。

 

コロすキじゃねぇか。


あぁ、アツい。アツい。


火のすき間から、アイツがどこかに走っていくのが見える。


アツい。アツい。


あのやろう。ふざけやがって。


アツい、アツいアツいアツいアツい、アツいっ。


コロす。

コロしてやる。


でかたをうかがってたオレがばかだった。

アイツ、いままでのやつらとチガウ。

いままでこんなことしてきたやついなかった。


アツい。アツい、アツいアツい。


ヒフがやける。

イキがしづらい。

いくらすぐにナオるっても、ゲンドがあるんだぞ。

なにより。

なにより。

サクラがシンパイする。

アネキもシンパイする。

あぁ、コロす。

コロしてやる。


「———え?」


びしゃ、びしゃ。


床を血が汚した。オレの顔についた。

血のついた肌がヒリヒリする。さっきの火で燃やされたせいだ。


「え、? なに、これ?」


コイツは自分の腹を見て瞠目した。


そうだろうな。

びっくりするよな。

うしろからハラをうででつきやぶられたら。


「あぁあああああ」


意味のない言葉を叫んでる。なにをされているのか理解して、それから遅れて、本来すぐにこなければならない痛覚が働いたのだ。


「ふっざけんなよぉおおっ。なんで俺がやられなきゃいけねぇんだぁっ。おまえのせいだろぅがぁっ」


おまえのせいだろ。

オレのせいにするな。


ぐちっ、ぐちっ。

ぶち、ぶち。

びちゃ、びちゃ。


……………………………


………………………


………………


とちゅうから、コイツのこえがきこえなくなった。


おれはなにをしていたんだ?


あぁ、そうだ。

コイツに、ハラがたって、ハラがたってしかたなかったから。

 

——————ぐちゃぐちゃにしてたんだった。


ずるりと手を引いた。

ぼたぼたべちゃべちゃと手についた汚れが滴りおちる。

床に転がる煩いやつを見下ろしても、オレはなにも言わなかった。


うまそうだと思えなかった。


コイツ、くいたくない。

デブよりもアブラがすくないけど、くいたくない。


そうとだけ思った。

煩いやつを見て、顔を顰める。

そうして煩いやつの体を跨いで、残りの1人を探しに出た。





———————もう、アイツがおきあがることはなかった。





   6


……おかしい。

あちこちさがしたけど、あとひとりがいない。


なんで?

アネキがつれてきたやつらはさんにんだろ?

オレだってさんにんがはなしているのをきいた。

そうだ。

それなのに。

……オレがヤったのは、ふたりだ。


ひとり、いない。

たりない。

おかしい。

ぜんぶみてまわった。

やしきのなか、ぜんぶ。

なのに、なんでいない?


………。


そとか?

ありえなくはない。

でも、げんかんにはカギがかかってる。


もしかして。


2階に通じる階段へむかった。

その背後に隠れるようにしてある地下室への扉に触れる。


ここはきょう、いちどもさわってない。

から、しまってる、はず。

そう、しまってなきゃいけない。

……なのにあいてる。


モウテンだった。


手のひらで額を叩くと乾いた音がした。


たしかに、このちかしつ、いやオレのシゴトベヤからだったら、げんかんをとおらずにそとにでられる。


ちくしょう。やられた。

でも、それぐらいアタマがはたらいてたほうがいい。

さっきまでがかんたんすぎたんだ。

ちょっとてまのかかるほうが……。


いや、いまはそんなことどうでもいい。

おいかけないと。


地下室の入り口を覗きこんだ。明かりがともっていないために奥底が見えない。


まぁ、いまのオレにとってはもんだいないんだけど。


目の前でぽっかりと口を開けている穴のなかに身を投じた。

「つ」の字を描く階段を駆け下りて、地下室の日のあたらない冷たい床に降り立った。

明かりをつける暇もない。

目的の前まで、ずんずんと急ぐ。

そこらじゅうに散らかっているものにいっさいの注意を払わなかった。


というか、みえなくてもわかる。

まいにちここにきてるからとかじゃなくて、みえるんだ。

どこになにがあるとか、どのほうこうにそとへとつうじるトビラがあるかとか。

わかる。みえる。

だから、すぐについた。


………ここもあいてる。


扉は開いたままで、上にむかって伸びる梯が見えた。

これは長年使われていない。

なにかあったときに使うための緊急避難口だ。

鍵などかかってはいないけれど、固く閉められたままであったこの避難口はさびついていて、強く押さないと動かない。


それが、あいてる。

このさきだ。まちがってなかった。


オレは梯に手をかけた。そこで梯子のむこうを見上げ、目を凝らし、くんと匂いを嗅いだ。


はしごのさきにはいなさそうだ。


さっきのやつみたいに外に出た瞬間になにかされるかもしれないと危惧してのことだった。


そうだ。

 

それで思い出した。


あのオトコにさされたオレのうで。

まったくイタみがないからわすれてた。


梯にかけた手が、頭を守るために盾にした腕であったので見てみた。

そこには、傷ひとつなかった。

腕の半分までを貫通していたと記憶しているが、なにもなかった。

オレは至極当然であるとでもいいたげな顔をして、その腕から視線を逸らし、そのまま梯子を上った。

そもそも、そこらの人間が造った農具やナイフでオレの体を傷つけることは不可能だった。デブ(縄本)と煩いやつ(明谷)が持っていたナイフと斧は、どちらも「おれ」が造ったものだ。

そう、人外の「おれ」が。

人間の鍛冶屋が造ったものじゃない。

そんなものはここに置いていない、置く意味がない。

「おれ」の造った刃物は、人の造った刃物と違って、切れ味、硬度、耐久度が類を見ないほどだ。人間なぞ豆腐を切るみたいにすっと斬れるし、人外であるオレの体にも傷をつくれる。そうなるように造ったからで、「おれ」以外にアレを造れるやつはいない。

いや、そもそも造ろうとするやつがいない。

人外で鍛冶なんかしてるのは「おれ」ぐらいだ。

……こう言ってもいい。

「人間の文化に自ら好んでかかわっているのは、俺たちぐらいだ」と。


ジジババは、ひとむかしまえのウキヨバナレしたやつみたいにどっかにひっこんでる。

でも、なんかたまにはカオをみせろっていって、そんときにはぜったいサケをショモウしてくるんだよな。

ジブンでかえよ。

おれらのジジババじゃねぇのに。

でも、アネキはかってってやってる。

メイワクかけたからって。

サクラにたのんで、みつくろってもらっちゃってさ。


なにいってんの。

おれら、ジンガイじゃん。

メイワクもなにもないようなソンザイじゃん。

それいぜんのソンザイじゃん。

アンタ、なんで。

なんで、そんなことかんがえるようになったの?

あれか?

あいつのおかげ?

ふうん、かわったね。

そう、めっちゃかわった。

だって、むかしのアンタはそんなこと——————。



外に出た。

穴から体を引き抜いて、あたりを見まわす。

この避難口の傍にアイツの姿はなかった。


………さては、げんかんのほうにまわったな。

そのままにげるキか。

いや、にげきれるかな?

たしかに、オレをたおすっていうメイモクをわすれてにげても、オレがおいかけないかぎり、みのホショウができるだろう。

でも、そうはならない。

まんいちにげることができても、アネキがきづいてオッテをけしかけるから。

そうしたら、アイツがもともといたばしょにつれもどされて、すぐにシケイにされる。

そういうケイヤクだし。

あと、アネキもなにかしらいわれる。

なんでって、にがしたから。

にがさないっていうじょうけんでやってるから。

というか、まぁ、ケイヤクってやぶれないんだけど。

ぜったいに。

やぶっちゃいけないじゃなくて。

やぶることができない。

なんでできないのかっていうことについてくわしくはいえない。

はなしがながくなっちゃうから。

そうだなぁ、やぶれないっていうのは、プライドからっていったほうがいいかもしれない。

だから、アネキはなにかをいわれるまえに、それこそにがすまえに、てをうつ。

いや、アネキがそういうことをするまえに、オレがにがさない。

だって、これはオレのためのものだから。

アネキがわざわざ、オレのためにつくってくれたものだから。


この避難口は離れの後ろにあった。

ここから離れをぐるりと半周すればアイツに追いつくだろう。

空を仰いだ。まだ、坂本、明谷、縄本の3人に告げられた制限時間である「夜明け」にはいたっていない。


でも、もうすこしでなる。

いそがないといけない。


オレはそれを肌で感じた。

「夜明け」までにアイツを捕まえないといけないのだ。

地面を力強く蹴って、離れの玄関口まで急いだ。



——————いた。

アイツだ。


残りの1人が離れのまわりを彷徨っていた。

表情からするに酷く焦っており、怒声を上げて手で空をかいている。

アイツ(坂本)のいる位置からそれ以上進めなくなっているらしい。


「は? な、なんで、進めないんだっ」


アネキがやったな。

サクラはそういうことをできないし、オレははやくからはなれにこもってたからできるはずがない。

コイツラがくるまえにジュンビをおわらせてたんだろ。


足音が聞こえたのか、コイツがうしろをふりむき、オレの姿を見てさらに焦り、また空をかいた。


「なんだ、これ…どうなってる」


オレに言っているのか、それとも独り言なのか。

どちらだとはいえないが、コイツは返答を求めていないようだった。すぐに体勢をたてなおして、オレに拳銃をむける。これも、あの離れからくすねてきたものだろう。


「おい。殺されたくなかったら、俺をここから出せ」


カチリ。

拳銃の安全装置を外す音がした。焦点がオレの額にあてられる。


できない。

あれは、オレがはずせるものじゃない。

アネキがつけたなら、アネキにしかできない。

そもそも、そのジュウじゃオレをコロせないから、おどしにはならない。


一歩。

コイツとの距離をつめる。


「おい、聞いてるのか。俺をここから出せ」


もう一歩、つめる。


「よぅし、わかった。よほど殺されたいみたいだな」


コイツの指が引き金にかかる。

それを見てオレは足に、俺を見てコイツは指に、ぐっと力を入れた。


……刹那のことだった。


「あっ」


コイツが情けない声を上げたのはなぜか。

目の前からオレがいなくなったからか。

それとも、いつのまにか首に噛みつかれているからなのか。

オレはコイツの首元に歯を立てた。

コイツの拳銃を持った腕を上にかかげ、なにも持っていない腕を押さえて身動きできないようにする。

痛みに呻きながらもオレの歯を外そうと藻掻いていた。

とっさに噛む力を強める。歯が深く刺さって柔い皮膚から血が滴る。

コイツはさらに咆哮を上げた。

ごほごほと血が口から吹き出る。

その血がオレの顔にかかった。

たがいに平衡感覚を失って地に伏した。

オレはコイツの両腕を掴んだまま、全身で押さえる。

足をばたつかせてオレをなんとか退かそうとしてるが、息のできない状態でうまくできないようだ。

力が入っていない。


このままくびをかみちぎろう。


そう決心したとき、目の端で光をとらえた。


————たいようが、きぎのあいだからみえてる。


それに気づいたのはオレだけだった。

コイツはもう、ほとんど意識がない。

地面を握りしめてされるがままだ。


そのじょうたいなら、かんたんにウバえる。


コイツの両腕から手を放して、肩を掴み、首を噛んだまま唇のすき間をうっすらと開けて顔を上に引く。

目に太陽の光が入ってくるが、それがどうした。

太陽が昇っているからと意識が逸れることはない。

なぜなら。


たいようがみえたから、でてきたからっていっても、オレになんのダメージもないしな。


ブツン。


その音がした瞬間、コイツの血がオレのいる一面を赤く汚した。





   7


「は?」


完全に「夜明け」を迎えた頃。

オレは…硬志はピタリと動きをとめた。

そうして、いままでおのれがなにをしていたのかと手元を見る。

そこでなにをしていたのかを思い出して、把握してすぐ。

吐いた。

それはもう、酷くげえげえと。

びしゃびしゃに地面に胃のなかのものが転がり出る。

胃のなかのものが出てこなくなってもげえげえと吐いた。

胃液しか出てこなくなっても、吐いた。


「ちっくしょう」


髪の毛をかきまわして、自己嫌悪に陥った。


(口のなかが酸っぱい。気持ち悪い。最悪だ。最悪だ。これ以上ないってくらい、最悪だ。あぁ、なんでまた俺はこうやって…)


「おい、終わったのか」


うしろをふりむくと死導がいて、硬志を見下ろしている。


「……姉貴」

「ひっでぇ顔。やっぱり吐いてやがったな。おら、これいるだろ」


死導は硬志の目の前にスポーツドリンクの入ったペットボトルを差し出した。

無言でそれを受けとり、ぐびぐびと喉を潤す。


「どうだった?」


ペットボトルから口を放したのを見て、死導が訊いてきた。


「さいあく」


とだけ答えた硬志の顔を死導は見つめる。


「なぁ。こうなるたびに言ってるかもしれねぇけど、おまえはよくやってるよ。ずっと我慢してただろ。たまにその箍の外れた状態になることぐらいあるって」

「それがいやなんだよっ。何回も言ってるだろ」


硬志はその鬱憤を地面にあたって晴らした。


「姉貴はわかんねぇんだろっ。やりたくないのにやっちゃう、そのもどかしさをさ。あいつらだって、ほんとはやりたくなかったんだっ。いや、あいつらだけじゃない。いままでのやつらだって、そう、そうなんだよ。俺だってできることなら、誰も口にいれたくないんだよ。マズいとか、口にあわないとか、あいつらが犯罪者だとかじゃない。人は食べるものじゃないってわかってるんだよ。教えてもらったから。でも、俺のなかの『オレ』がそれを嘲笑うんだ。うそつきって。…知ってるでしょ? アイツは俺って」


硬志は泣きつくように死導を見た。

死導はそれを受けてこくりと頷く。


「あぁ。もちろん。俺はおまえの姉だからな。おまえがそれを嫌ってるってことも知ってる」

「そう。いやだけどしかたなく受け入れてるんだ。アイツは俺で、『鬼』だって。人をいたぶって、喰って、それを糧にする、鬼。……母さんがそうだった。俺にはその、母さんの血が、鬼が強く巣くってる。……でも、姉貴はそうじゃない。父さんの血が濃い。だから、俺みたいに母さんの血があっても苦しむことがない。やりたくないことはちゃんと抑えられるし、それで抑えたときの反動もない。……だから、冷たいことが言える。まるで自分は関係ないみたいなことを。あのこと忘れたわけじゃないくせに」


死導はそれを聞いて、ムッとしたように口を開いた。


「忘れるわけねぇ。あれは、おまえより俺のほうがイってただろ」

「俺だって怒ってたんだよ。……知らないかもだけど」


そう言って、地面に視線を落とした。


「俺だって、あいつらのこと許せないんだよ。俺は姉貴ほどじゃないけどさ、手伝ってたんだから。それなのに、それなのに。あぁやって裏切られて……」


死導を睨めつける。


「でも、あたっちゃダメだって思ったから抑えてた。俺は姉貴みたいにそういう仕事してないから」


死導はしゃがんだ硬志の頭を叩いた。

いて、と硬志は声を上げる。


「おまえがするしないじゃない。おまえはもちろん、サクラにだってやらせない、絶対に。これは、俺がしなきゃいけないからしてるんだ。おまえがしようとする必要はない。いいな? そうやって我慢ができるのはいいことだ。ヘンに目立っても生きづらくなるだけ。……俺たちは特に、な。わかってんだろ?」

「あたりまえでしょ。そんなこと」

「なら、それでいいだろ。アイツみたいになることはねぇんだからさ」


そう言って、死導はいやなことを思い出したかのように目を伏せた。

だが、つぎに硬志と目を合わせたときにはいつもどおりの死導だった。


「おら、もういいだろ。帰るぞ。んで、風呂入れ。汚い」


死導はくるりと身を翻し、先に歩き出した。


「……汚いってなんだよ。失礼な」


硬志はそう呟いて、死導のあとを追った。









                              〈「キバ」 了 〉


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