【コミカライズ】初恋は二度目に叶うみたいです
広間で泥酔した弟が友人と殴りあっている。
確か女を取ったとか取られたとかそんな話だ。
弟は酒に弱いのに酒好きで、こんな騒ぎを起こすのは一度や二度じゃない。
そして、私がこの光景を見るのは二度目だ。
一度目は何も考えず止めに入った。
そして、厄介な事態に巻き込まれて私の人生は変わってしまった。
いや、変わってしまったどころか、終わってしまった。
やはりこれはやり直しなのだと実感して、私は覗き見ていた扉を今度はそっと閉めた。
これでいい。
これで私のせいではなくなるのだから。
閉めた扉の向こうから、ガシャンという派手な音が聞こえた。
それを背中で聞きながら、私は振り返ることなくその場を離れたのだった。
□□
私、マーゴット・ランデンは、ランデン子爵家に生まれて今年19歳になる。
幼い頃、父の浮気が原因で両親は離婚。母は私を置いて出ていってしまい、その後父は浮気相手だった女性と再婚。
継母には私の一つ下の息子がいて、私には弟が出来た。
私は母によく似ていて、継母はそのことが気に入らなかったようで、ずっと冷たい扱いを受けてきた。
その代わり弟は溺愛で、我が儘放題に育てたため、大きくなった今では継母でも手がつけられない放蕩息子になってしまった。
父もまた、前妻に似た私を見ると、罪悪感が生まれるのか、避けているように見える。
継母が冷たく接しても見て見ぬふりを貫き通していた。
一見すると過酷な状況であるが、私は持ち前の明るさと、我慢強くたくましい心を持って育った。
頼りない父や、冷遇する継母には思うところもあるが、子爵家の令嬢として、衣食住に困らずここまで暮らしてこれたことには感謝もあった。
弟マシューに関しては、姉として積極的に関わることを避けてきた。違う世界の住人だと思うことでやってきたが、今考えればもう少し会話をするなりして、マシューの考えも聞くべきだったかもしれない。
あの日、怒鳴り合う声に驚き、私は広間の扉から中を覗いた。
昼間から友人達を呼んで酒を酌み交わしていることは知っていたが、いくら酒の席でも怪我を負うような事態は困るので、慌てて部屋に入った。
弟は友人の一人と取っ組み合いの喧嘩をしていた。やめなさいとか冷静になってとか言った気がするが、酒が入って頭に血が上っているので全く聞いてくれなかった。
やがて、友人に投げられた弟は広間に飾ってあった花瓶に向かって突っ込んだ。
花瓶は飛ばされて、私の横で盛大に割れた。
あんなに怒鳴り合う声で満たされていた部屋は、一瞬で静まり返った。
誰もが言葉を失って、現実ではないと思い込もうとしていた。
何をしているんだ!?という声で、みんな我にかえった。
酔いが冷めた弟の友人達は、あっという間にその場から消えて、私と弟が残された。
これはどういうことだ、という声に弟は姉がやりましたと答えたのだ。
周囲には飛び散った花瓶の破片、水を被って濡れている私。状況は最悪だった。
ランデン子爵家には、昔、王家から賜った家宝の花瓶があった。
貴重な製法で作られたもので、金も使われていて側面には高価な宝石が散りばめられていた。
この花瓶一つで屋敷が何軒建つかなどと言われるほどで、毎年子爵家で開かれるパーティーでは、この花瓶が人々の真ん中に鎮座して招待客の目を楽しませていた。
その花瓶が割れた。しかも不運なことに、父を訪ねて来ていた、王家に縁のある方が現場を発見してしまった。
そこからは継母が大活躍だった。
状況を察知した継母は息子可愛さに、私が泥酔して花瓶を割ってしまったというストーリーを作り出した。弟の友人達は騒動に関わりたくないと口を閉ざした。
花瓶は本来飛んできたのだが、割れた花瓶の直ぐ側にいて、いくら違うと言っても誰も聞いてくれなかった。
継母はこの機を逃さないように畳み掛けてきた。普段から酒浸りで暴れて手がつけれないと悪評を流して周りの同情を得て、私の婚約破棄まで成功した。
私には、生まれた時から決められた結婚相手がいた。それは、祖父の代に戦争で助けられたという恩からきた話で、もし女の子が生まれたら、自分の家に欲しいという取り決めだったらしい。
ずいぶんと昔にその話をされたが、相手の方とは会ったことがなかった。ずっと隣国の寄宿学校に入っていて、今年卒業して戻られたらお会いする予定だった。
それが、花瓶事件で悪評が広まり相手の家から、婚約を破棄したいと申し出が来たのだ。
それは仕方ないと私は思った。
悲しいかと言われれば、いい気分ではないが、そもそも会ったことがない相手で、手紙を交わしたこともない。全く気持ちはないし、正直なところ、家柄が違いすぎて肩の荷が下りたという気持ちもあった。
代わりに嬉々として継母が持ってきたお相手は、40も年上の伯爵。そして五番目の結婚という話だった。
いくらなんでもひどいと思ったが、私は腹を決めた。とりあえず、おじいちゃん伯爵のお世話はしっかりして、順番でいけば先に逝かれると思うので、そのあとは未亡人としてのんびり生きようと決めたのだ。
楽しく考えて精一杯生きようが私のモットーなので、意気揚々と迎えに来た馬車に乗り込んだ。
婚約が決まると、さっさと屋敷を出ていけと追い出された。継母はずっとそうしたかったのだろう。満足した顔で見送られた。
継母自身は略奪婚だった。
子爵夫人の座を手に入れて順風満帆な人生といえる。
しかし父と継母の仲はどうも上手くいっていなかった。
父が母の姿絵をこっそり持っていることを知っている。たまに母が使っていたものを物言わず眺めていることも……。
継母にしたら私は憎しみの対象で、そして母の亡霊のような女をやっと家から追い出したのだ。
馬車に乗りながら、継母のことを考えていたら、空に暗雲が垂れ込めてきた。
あっという間に辺りは暗くなり、大粒の雨が吹き込んできて、急いで窓を閉めた。
ちょうど崖沿いの道を通っていた時、激しい光と雷鳴が辺りに響き渡った。
その刹那、轟音と共に落雷が馬車を襲った。操縦不能となった馬車はそのまま真っ逆さまに崖から落下した。
胃が縮むような浮遊感を覚えている。恐ろしくてずっと目を閉じていた。
痛みは感じなかった。真っ暗な闇に落ちて、このまま終わってしまったのだと思った。
しかし何故か、私は目を覚ましたのだ。
数時間前、もう戻らないと思って眺めていたベッドの上で。
まさかあの事故で助かったのかと思って体を見渡したが、傷一つ付いていなかった。
おはようございますと入ってきたのは、メイドのリジーだった。
彼女は確か、花瓶の騒動で私を庇って継母に辞めさせられたはずだ。
「マーゴット様、聞いてください。またお酒が大量に集められていました。今日、マシュー様がお友達を呼ぶみたいなので、広間で賭事をやるつもりですよ」
いつか聞いたような台詞だ。とても崖から落ちて助かった相手にいきなりかける言葉とは思えない。
「リジー……?ええと、これはどういうこと?私は何故ここに寝ているの?あの馬車はどうなったの?」
「寝惚けていらっしゃるんですか?あっ!分かりました。また遅くまで本を読んでいたんですね。昨日好きだと仰っていましたよね、ミステリー小説の落雷の女でしたっけ」
ミステリー小説は趣味で読んでいた。リジーに勧めたこともある。それは確か、あの花瓶の事件が起きる前日。庭園を散歩しながら、好きな作家の最新作を熱く語ったのだ。
今となっては笑えないタイトルであるが。
「これは……夢?」
「マーゴット様!早く鏡の前に座ってください。髪をとかしますよ!」
私の放心状態を寝惚けと受け取ったのか、リジーはいつも通り私の支度を始めた。
私は鏡の中の自分を改めてよく見てみた。
母譲りのシルバーブロンドの髪に、ヘーゼルナッツのような榛色の瞳。
赤みがかった唇はふっくらとして艶がある。
継母からは気の強そうな顔と言われるが、確かに意思の強そうな瞳をしている。
よく眺めてみたが、やはりどこにも傷一つない。自分が覚えているままの自分の姿だった、
「マーゴット様の髪は、絹の糸のようですね。柔らかくてさらさらとしていて、いつまでも触っていたいです」
まただ、また聞いたことがある台詞だ。
ここまで来たらさすがに気がついてきた。リジーの態度、会話の内容から、これはあの花瓶事件の当日のような気がしてきた。
「リジー、あの、うちの家宝の花瓶はどうなったの?」
「花瓶ですか?いつも通り、広間に飾ってありましたけど……」
リジーの言葉で全身が痺れた。これはまさか信じられないことが起きているのではと、手の震えを隠すように強く握ったのだった。
□□
「マーゴット様、落ち着いて聞いてください。先ほど広間でマシュー様が……」
「花瓶を壊したのね」
「ええ!そうです。こちらまで聞こえましたか!?」
マーゴットがいないので、さすがに誰のせいにも出来なかったのか、その通りなのだがマシューが花瓶を割ったことになっていた。
「それで……、旦那様がマシュー様を殴って、奥様も出て来て大騒ぎに……」
「ええ!?お父様が!?」
父は義理の息子のマシューに関しては、全く口出しすることなく、何をするにも目をつぶってきた。
さすがに今回は我慢が出来なかったのだろう。
どうやら二回目は、自分のせいにされることはなかったが、家庭崩壊の危機の可能性が出てきた。
とにかく、巻き込まれないように、そのまま部屋から出ずに静かに事態が収まるのを待った。
ようやく、屋敷が静かになったのは、夕方を過ぎて夜になってからだった。
リジーから聞いた話だと、父に会いに来ていた王家に縁のある方とは、王妃殿下の弟にあたる人で、私の婚約者グレイ・ギブソンの父親、ギブソン公爵だった。どうやら婚約についての話を進めるため来ていたようで、その方が事態の収拾に動いてくれて、なんとか混乱は収まったようだ。
花瓶は修復に出されて、マシューは頭を冷やすようにと命ぜられた。
結局、田舎にある別荘にしばらく行くことになった。継母も付いていくらしく、すでに準備をして出発した後だった。
こんなに大騒ぎしたのだから、二度目の今回も婚約破棄になるのだろうと思っていたが、意外とすぐにそんな話は出ずに、父からは、公爵から話があるから準備をしておいてくれと言われただけだった。
まさか、こんなお騒がせな家の娘と本当に会うつもりなのかと思っていたら、週末、本当に先方がこちらに来てしまった。
「お父様、ギブソン公爵様は私にどんな話があるのですか?」
準備の進み具合を見に来た父に、疑問をぶつけてみた。
「それは、先代からの約束のこととか、マシューの件は複雑なお顔をされていたが、お前に非があるわけでもないし……多分その辺りのことを……」
「そうですか。ですが、お相手のグレイ様とは一度もお会いしたこともないので、気に入られているとは思えません。良い結果にはならないと思います。期待はしないでくださいね」
「え……?だって二人は……、それに今日は……」
父が後ろで何か言っていたが、ごちゃごちゃ考えても仕方ないので、さっさと貴賓室の扉を開けた。断られるにしても、わざわざ本人に会いに来てくれたのだから、弟の件で手配してくれたことも含めて、感謝を伝えないといけない。
貴賓室には若い男性が一人で座っていた。マーゴットの姿を見て、驚いたような顔をして立ち上がった。かなり背が高く整った顔をしていた。ダークブラウンの髪は品良く後ろへ撫でられていて、アイスブルーの瞳は冷たそうな印象を受けるが、薄い唇は口角が上がっていて、微笑んだ顔は男性ながら美しいと思ってしまった。
しかし、肌艶も良いし雰囲気からも、とても父と同じ年代の男性には見えない。
「マーゴット!やっと会えたね。やっぱり私の想像していた通り綺麗になった」
男性は少し冷たい印象の整った顔から、一転して子供のように無邪気な顔になり、とても嬉しそうに笑った。
「あ……あの、グレイ・ギブソン様ですか?」
「うん!分かる?大きくなったでしょう!」
今日はギブソン公爵が来ているものとすっかり思い込んでいた。グレイは確か今年隣国の学校を卒業して18歳になられたはずだが、まだ帰国していないと聞いていた。さっきから、ずっと満面の笑みでこちらを見ていて、失礼ながら尻尾を振っている犬を想像してしまった。
「すみません、今日はギブソン公爵様が来ていただいていると思い込んでいて……、グレイ様ご本人がいらっしゃるとは……」
「グレイと呼んでマーゴット!実は昨日帰国したばかりなんだ!君に会うのに父がいると色々と邪魔だから置いてきたんだよ」
「え……置いてって……」
いつの間にか、こちらに近づいてきたグレイは、自然に私の手を握って目元を潤ませている。
「あの……」
「会いたかったよ、マーゴット。本当はまだ学校にいる予定だったのだけど、弟さんの件を聞いて、予定を早めて来ちゃった。父はこの婚約について乗り気じゃなくて、なにかあれば勝手に物事を決めちゃう人だから焦ったよ」
「はぁ……そうですか」
会いたかったと目の端を光らせて、潤んだ瞳で見つめられている。手を握ってくる力も強くて、なぜこんな状況になっているのか頭が追い付かない。
「マーゴット……、私は君の言いつけを守ったよ」
「へ?」
気がつくとグレイとの距離はほぼなくて、体は密着して真上から覗きこまれていた。
「マーゴット……、もしかして忘れちゃった?」
アイスブルーの瞳が悲しげに細められた。その瞳を間近に見た時、記憶の海からある夏の日の思い出が飛び出してきた。
あれは確か8歳くらいの頃、一度だけ屋敷に子供を連れたお客様が来たことがあった。
当時まだ、父は母と暮らしていて、私もまともな子爵令嬢だった。いや、とんでもなくお転婆でわんぱくな子供だった。
いつも通り庭を探検して遊んでいると、草むらに隠れるように小さくなっている子供を発見した。
「おい!お前!こんなところで何をしているんだ?もしかしてお前はジャンジャ一家の手下か!?」
当時冒険小説に夢中だった私の世界は、探検家エドワルドと宿敵ジャンジャ一家の話で出来ていた。格好までエドワルドを真似て、くたびれたシャツと革のパンツを愛用していて、家ではドレスなんて着ていなかった。
「……えっ?ぼっ……僕のこと?」
その子供はマーゴットよりも、ずっと小さくてモジャモジャの長い髪をしていた。顔を上げると、髪の間からアイスブルーの瞳が見えた。
「ジャンジャ一家の手下でないなら、よし!お前はこのエドワルド様の子分にしよう。名前はエレンだ!」
「ええ!?そっ……そんな、僕にはちゃんと名前が………」
「おい!エレン、そんなところになぜ隠れているんだ?」
私はぶつぶつ言っている男の子をエレンと名付けて、勝手にそう呼んで遊びだした。
「あっ……あの、僕……、ここのお嬢様と将来結婚させられちゃうんだ。でも、僕は……女の子が怖くて……、会わせるって言われたけど嫌で……ここに隠れていたんだ」
「ふーん。どうでもいいや。遊ぼうぜ!」
「え?ちょっ……」
私はエレンを強引に立たせて連れ出した。
「こっちに秘密基地があるんだ!たくさんお宝が隠してある。一緒にジャンジャ一家から守るぞ!」
エレンを引っ張って、庭の奥に木や葉っぱで作った秘密基地に連れてきた。
木で作った人形や、屋敷から持ってきた物をお宝と呼んでエレンに見せた。それから、二人で武器を作ったり、罠を作ったりした。
最初はおどおどして、怖がっていたエレンも、そのうち一緒に泥だらけになって遊び出した。
そうなってしまえば、子供同士、急速に打ち解けて私はエレンを子分にして庭を走り回って遊んだ。
日暮れ近くなってやっと私は自分の名前をエレンに教えた。
「ええ!?君がマーゴットなの!?そんな格好だから、僕、屋敷の使用人の子とばかり……」
「別にいいよ。今日はエドワルドごっこだし。それより、私、女だからさ、怖がらせちゃ悪いと思って。黙っていてごめんね」
「ううん。そうか、君がマーゴットなんだ……。僕、嬉しいよ」
そう言うと、エレンは急に抱きついてきた。
「ちょっと、何だよ。暑いんだけど」
「ごめん。僕、嬉しくて……、そうか君がマーゴットなら大丈夫だ。ねぇ、僕ずっとマーゴットと一緒にいたいよ」
暑苦しかったが、潤んだ瞳でこちらを見上げてしがみついてくるエレンをどうにも振り払えなかった。
「なんだよ、泣きそうな顔して……、また遊べばいいじゃん」
「……だめなんだ、僕、もうすぐ外国の寄宿学校に入れられちゃうんだ。そしたらいつ帰れるか分からない」
このまま、マーゴットとお別れなんて嫌だと、エレンはついに泣き出してしまった。
「ちょっと、泣かないでよ。家の事情なら仕方ないでしょう。学校なら卒業すれば自由になれるんだし、そしたらまた会いに来てよ」
「それまでマーゴットは待っていてくれる?」
「うん、いいよ。その代わり、ちゃんと勉強は頑張って一番を取って、カッコ良くなって帰って来てよ!私の子分は優秀じゃなきゃ雇わないからねー!」
「分かった!僕言うとおりにする!」
エレンというのは、その前の年まで飼っていた愛犬の名前だった。真っ直ぐな目をしていて、いつも私の周りを付いて離れなかった。しかし、吠える声がうるさいと母が嫌がって、もらわれていってしまったのだ。
男の子は真っ直ぐな瞳が犬のエレンに似ていた。初めて見たとき、そう思って名前をつけたのだ。
エレンが犬のエレンと重なって、愛しくなって頭を撫でた。ふわふわの手触りもよく似ていた。
「エレン、可愛いな」
にこにこ笑っていたら、抱きしめられたまま、頬にキスをされた。
犬のエレンが甘えてきたみたいで、嬉しかった。
ちょうどそこに、エレンの父親らしき人が迎えに来て、エレンの様子を見てビックリしていた。
なかなか離れなかったエレンは、結局その後マーゴットにしばらくしがみついたまま移動して、最後は父親に無理やり剥がされて、泣きながら背中に担がれて連れていかれてしまった。
あの奇妙で強烈だった、夏の日の思い出………
「って!あなた!もしかして、エレンなの!?」
「思い出してくれたの!あぁ、マーゴットにそう呼ばれるのをどんなに心から待っていたことか」
待ちかねていたように、グレイは私を抱きしめてきた。その力強さとすっぽりとうまってしまう体の違いに年月を感じた。
小型犬みたいだったのに、すっかり大型犬になって尻尾を振りながら懐かれている感じだ。
「マーゴットの言いつけ通り、学校は首席で卒業してきたよ。カッコ良くなったかは分からないけど、女の子は何も言わなくても群がってきたから、そこそこにはなったでしょう。あっ、でも、私はマーゴット一筋だから浮気はしていないよ!」
子供の気まぐれな約束で、本当に一番になったというのも驚きだった。間近で見るグレイは、確かに令嬢が群がるのも分かるくらい、色気のあるカッコ良い男性に成長していた。
それを意識すると、心臓はトクトクと音を立てて鳴り出した。
「マーゴット……、頑張ったのに……、あの時みたいに撫でてくれないの?」
大人の色気漂わせるイケメンなのに、目を潤ませて甘えてくる姿はちょっとどう対応していいのか分からない。なんだか、ちょっとズレた、残念なイケメンになってしまった気もする。
泣かれても困るので仕方なく頭を撫でると、本当に尻尾を振りそうな勢いで喜んで甘えてきた。
「ちょっ……、グレイ、いい加減に……!」
そのとき扉が開いて、父が申し訳なさそうに顔を出した。
「あぁ、ランデン子爵。お久しぶりです。話はまとまってますのでご心配なく。あ、何かご用でしたか?」
変わらず、私を抱きしめたまま離さないで、グレイは父に向かって一方的に話し出した。
勢いに圧倒された父は、消え入りそうな声で一応ご挨拶をと思って、と言いながら扉の向こうに消えていった。
「ちょっと、グレイ、いつまでこうしているの?もう、子供じゃないんだから……」
「そうだよ。もう、大人になってしまったよ。それだけ、ずっと待っていたんだ。ごめん、もう少しこうさせて……、ずっとこうしたかったから……」
私の肩口に顔をうずめて、グレイが抱きしめてくる力は強くなった。背中にまわされた手が少し震えているのを感じて、私は強ばっていた体の力を抜いたのだった。
□□□
それは、たった一日のこと。
子供の頃のたった一日の思い出。
けれどそれは強烈で、私の人生を変える運命の出会いだった。
私は伝統と長い歴史のある、ギブソン公爵家に生まれた。
父は今の王妃殿下の弟にあたり、王家とも深い繋がりがあった。
祖父の時代、他国との争いが絶えなかった。
戦場で祖父は仲間とはぐれて、敵に囲まれて死を覚悟した。それを助けたのが、前のランデン子爵だった。自らも怪我を負いながら一人で助けに戻ってくれたことを祖父は命の恩人として、二人の間には深い繋がりが出来た。
お互いの家に同じ年代の男女が生まれたら、結婚させようと約束を交わしたそうだ。
そして、その条件に当てはまったのが、私とマーゴットだった。
私には上に三人姉がいて、幼い頃から散々おもちゃのように扱われた。成長が遅く小さかったので、嫌だというのにドレスを着せられたり、化粧をされたり、毎日追いかけまわされた。
おまけに、どうも女の子に好かれる容姿をしているらしく、どこへ行っても女の子に囲まれて、ベタベタと触られたりした。しまいには、私を取り合って女の子達は罵り合って、叩き合いの喧嘩になることもあり、もう女の子は恐怖の対象でしかなかった。
触られたら悪寒がして、気持ち悪くて吐きそうになった。
意図的に髪をボサボサに伸ばして顔を隠して、いつも人目を隠れるように生きていた。
それは、苦しくて辛くて、寂しかった。
あの夏の日、父に連れられてランデン子爵家に連れていかれた。
ギブソン公爵家の男子は、代々寄宿学校に入ることになっていた。
まもなく家を出ることになっていたので、その前に一度顔合わせにと連れてこられたのだ。
何しろ、生まれた時から決められた婚約だ。一度も会うことがないというのは、まずいだろうとお互いの両親も気をきかせたのだ。
突然の訪問だったので、子爵の家では色々と準備が出来ていなかったようで、バタバタとしていた。件のマーゴットが見つからないからと、使用人達が走り回って探していた。
隠れんぼでもしているのだろうと、父は笑っていた。
しかし、私には恐怖と絶望の時間でしかなかった。汗と震えが止まらず、待たされていた部屋から飛び出して庭の草むらに隠れた。
こんなことをしても、逃れられるとは思えないが、とにかく怖くて仕方がなかった。
時が経つのを待っていると、突然声を掛けられた。
「おい!お前!こんなところで何をしているんだ?もしかしてお前はジャンジャ一家の手下か!?」
恐る恐る見上げるとそこには、同じ年頃くらいの子供がいた。光に透けるようなシルバーブロンドの髪は後ろで結ばれて、小さな口は可愛らしく、同じく小さな鼻はつんと尖っていた。意思の強そうな瞳は珍しい榛色をしていた。薄汚れたシャツと、革のパンツを履いて、男の子とも女の子とも言えない中性的な子供だった。
服装からして使用人の子供かと思われたが、それにしては洗練された雰囲気があった。
目か合うと、その子はニヤリと口の端を上げて笑った。
それが、私の運命の出会いだった。
その子は自分をエドワルドと名乗り、私をエレンと呼んだ。よく分からなかったが、楽しそうにしていたのでそのままにした。
そして、私の恐れていたことを聞き出したくせに、どうでもいいから遊ぼうと強引に連れ出した。
その勢いに圧倒されて、怖い気持ちは飛んで行ってしまった。
「なぁ、エレン。あの水平線の向こうに黄金の遺跡がある。我らも行こう!必ず道は開かれる!」
「行こう!エドワルド!」
二人して池を飛び越えて、叫びながら走り出した。
屋敷の中から、こちらを見ている父親達の姿が見えたが、そんなことはどうでも良かった。
いつも追いかけられて泣いている自分が、今は夢中で背中を追いかけている。それがおかしくて、すごく嬉しかった。
「恐れるな、エレン!」
急に立ち止まったその子が、そう言って振り返った。その言葉に心臓はドキリと鳴った。
その子は僕の手を掴んでこう言った。
「君の手はまだ小さいが、大きくなったら必ずとびきりのお宝を手に入れることが出来る!だから今は恐れずに前を向くんだ。確かに道はある、恐れず進みなさい」
今思えば、何かの小説にでも使われたような、棒読みの台詞だったが、その時の私には体が痺れるほど衝撃的だった。
その子は、私の暗闇を明るい光で照らしてくれた。この手を離してはいけない、離したくないと、そう思ったのだ。
そしてもっと衝撃を受けたのは、その子は女の子で、あの、マーゴットだったのだ。
それは嬉しい衝撃だった。嬉しさのあまりしがみついて頬に吸い付いた。
自分でも急すぎる気持ちに戸惑いがあったが、離れ離れになってしまうから、少しでもマーゴットを自分のものにしたかった。
マーゴットは待っていてくれると約束してくれた。だから私はマーゴットに言われたことを守るために、ひたすら努力をして結果を残してきた。
ただ私の見せた唯一の執着に、父は危機感を覚えたようだった。
それは、大きすぎる思いがゆえ、親として失ったときの反動を恐れたのだろう。
寄宿学校からマーゴット宛に出した手紙は、全て父に握り潰された。ことあるごとに、婚約は昔の約束だから別の選択肢もあると縁談の話を持ち込み、ランデン家の状況を探って、マーゴットに何か問題がないか確かめていたようだった。
お転婆でわんぱくだったマーゴットは、美しい令嬢に成長したようだった。とても品行方正で、大人しすぎるくらい大人しい。パーティーのような華やかな席にもほとんど顔を出すことなく地味に過ごしているようだった。
もしかしたら、ずっと自分の帰りを待っていてくれるのではと期待して、いっそう勉学に身が入ったものだった。
そしてやっと卒業要件を満たして、残りの学生生活を少し残すところであった時、マーゴットの弟が起こした騒動について連絡があった。
ランデン子爵の再婚相手の連れ子であったマシューは、素行不良で嫌な噂ばかり入ってきた。
正直なところ、目障りな存在であったが、彼がついに王家からの賜り物を壊してしまった。
たまたま居合わせた父の手配で、単なる事故として処理したが、マーゴットに非はなくともこのことを使って、父が勝手に婚約を破棄することも考えられた。
慌てて帰国を早めて自国に戻ってきた。父を説得して納得させた後、急ぎでランデン家に使いを出して、翌日に対面する約束を取った。
たった一日の出会いから、長い年月を経てついに再会を果たした。
悲しいことにマーゴットの反応は薄かったが、でも自分のことを覚えていてくれて、エレンと呼んでくれた。
それだけで、あの時の気持ちが甦ってきて泣きそうになった。
そして彼女の前では、あの頃の幼い自分が顔を出してつい甘えてしまった。
ついにこの手に抱きしめた喜びと興奮で、歓喜に震えた私を、彼女は優しく受け止めてくれたようだった。
□□□
グレイが帰国後、すぐに会いに来てくれてから一週間がたった。
その間、一日とおかずに毎日せっせと会いに来るという状態だ。どうやら幼い頃の思い出からそのまま気に入ってくれているらしく、ここまで熱烈に人から思われたことなどないので、どう答えていいのか正直なところ戸惑っていた。
それに異性との関係については、さっぱりよく分からない。
この歳まで、ほとんど異性との交流の経験がないのだ。継母が家に来てからは、社交の場に出られるようなドレスは一枚も買ってもらえなかった。パーティーの招待状は、必要ないと燃やされたし、社交界デビューも金がかかるからと流された。
せめて同性の友人くらいは作りたかったが、継母はそれも許さなかった。徹底的に孤独に追い込まれたのだ。
家にいることは苦ではなかったので、それなりに好きなことをして過ごしていたが、楽しそうに友人と遊び歩くマシューを見ると、羨ましい気持ちは隠せなかった。
そう、グレイのことを思い出したのも、同じ年頃の子どもとまともに交流したことが、後にも先にもないからだ。
だからこそ色褪せないまま、心に残っていたのだ。
「グレイは毎日うちに来てくれるけど、もうお仕事は始められたのでしょう。領地をまわっていると聞いたわ。大丈夫なの?」
「うん、それは大丈夫。まだ本格的ではないし、資料に目を通すくらいだから」
涼しい顔で大した事ではないように言っているが、その資料も膨大な量であると思われる。
どうしてそこまでという気持ちが浮かんできた。
グレイの話は楽しかった。寄宿学校の話や、外国の文化などについて、実際に体験したことを、ユーモアを交えて話してくれるので、いつまででも聞いていられるくらいだった。
だからこそ、疑問に思うのだ。
「グレイとお話するのは楽しいわ。でも、私はずっとこの家から出たこともないし友人もいない。自分でいうのもなんだけど、つまらない女よ。私と話していても楽しいの?」
ここに来るとグレイはずっと笑っている気がする。無理に気を使っているものなのか、それが気になってしかたがなかった。
「……楽しいよ」
グレイは真面目な顔になった。マーゴットを見つめる瞳は熱く真剣であった。
「マーゴットが好きなものや嫌いなもの、どんな時に何を感じて何を欲するのか。長い夜には、何を考えて目を瞑るのか。ぜんぶ知りたいよ。だけどね、君がいてくれればいいんだ。何も語らなくても、君がいてくれれば、それだけで楽しくて幸せなんだ」
グレイの熱烈な告白に、顔から火が出そうになった。心臓のドキドキは止まらず、手にはじんわりと汗が出てきた。
「グレイは……、私のことが好きなの?」
「好きだよ。初めて会ったあの日、マーゴットに恋をしたんだ。決められた婚約者だからじゃない。マーゴットだから好きになったんだ」
ぬるいお湯にずっと浸かっているみたいな、ふわふわとした夢のような気持ちだった。
グレイの顔が近づいてきて顔をあげたら、そのまま唇が重なった。
柔らかくて温かい夢の続きみたいだと思って目を閉じた。
ずっとこのまま、この温かさを感じていたかった。
この気持ちをなんと言うのだろう。
目を閉じたまま、胸に灯った小さな火をぼんやりと見つめていた。
翌日、支度を終えて部屋を出ると、玄関付近は人が多くガヤガヤとしていて賑やかだった。
どうやら、継母とマシューが戻ってきたようだった。
てっきり父と話し合って解決したのかと思われたが、どうやら、田舎暮らしが退屈で限界を迎えたマシューが勝手に戻ってきてしまったようで、帰宅するとさっそく町へ出掛けてしまった。
当然、ろくな謝罪がないと怒る父と、もう許してあげてという継母で、大喧嘩が始まってしまった。
この件については静観を貫こうと思っていたら、父と言い争って興奮気味の継母が、突然部屋に押し掛けてきた。
「聞いたわよ!マーゴット、上手くあの公爵の息子をタラシこんだみたいだね!」
「………いきなりどうされたのですか?」
つかつかと部屋に入ってきた継母は、机の上に乗った本を怒りに任せて叩き落とした。
「お前のことは初めて見た時から気にいらなかったんだよ!あの女にそっくりで、いつまでもこの家に巣くう害虫のようだと思ってきたのよ!あの女と同じ顔をして、幸せになるなんて許さない!!」
継母は私の腕を掴んで部屋から引っ張り出した。肉付きもよくかなり力もあって、振りはらうことができない。
継母の鬼のような形相を見て気がついた。もしかしたら、一度目の人生で婚約破棄を申し出たのは継母で、悪天候で馬車は崖から落ちたと思われたが、何か細工がしてあって崖から落ちるのは予定通りだったのではないか。
こんなに思ってくれるグレイが一切出てこなかったのは、継母が計画を速やかに実行したからなのではないかと考えた。
五度目再婚の伯爵の話も、私を苦しめるために用意されたもので、婚約したからといって、いくらなんでもいきなり家から追い出すのはおかしいと思ったのだ。
まぁ、ここは二度目の世界なので、全部想像でしかないのだが。
しかし、強引に連れ出そうとするなんて、こっちの継母はずいぶんと感情に任せて動くのだと驚いた。
「どこへ連れていこうというのですか?」
「お前なんて、町へ連れていってマシューの悪友にでも傷物にしてもらう!そうすれば、まともな相手には見向きもされないだろう」
「こんなに大騒ぎして、使用人にも見られてそんなことをされるのですか?無茶苦茶ですよ」
「うるさい!うるさい!」
継母も自分が怒りに任せて、短絡的な行動を取っていることは分かっているのだろう。
使用人から報告を受けたと思われる父が慌ててこちらに走ってくるのが見えた。
私は静観するつもりだったが、ため息をついて姿勢を正した。
「お継母様、もうやめませんか?あの女、あの女って、母と一緒にしないでください」
「なっ……!」
「父と母が離婚してあなたと再婚したことは、私にはどうにも出来ないことで、それに関して何も口を出したことはありません。娘として可愛がられた記憶もないですし、閉じ込められるようにこの家で暮らしてきたことは、楽しいと言えるものではなかったです」
「………………」
「それでも、ここまで育ててくれたことは、お二人に感謝をしていますので、そのことについて、私から言うことはもうないです。私が言いたいのは、お父様!あなたのことです!」
「え!?」
慌てて走ってきた父は急に話を向けられて、驚いた様子だった。
「お父様、母を捨てこの人と結婚したくせに、いつまで母に未練を持っているのですか?そういうどっちつかずの態度が人を不幸にするのです。マシューのこともそう。マシューがあんな風になったのは、お父様にも責任があります。お継母様を責めるだけでなく、ちゃんと向き合わなかった自分も悪かったと反省してください!以上!私の言いたいことは終わり!後は二人でよく話し合ってください」
ぽかんとする父と継母を残して、さっさと廊下を歩いていく。廊下の先に会いたかった人の姿が見えたのだ。
「いつからそこにいたの?」
「二人が部屋から出てきたところから。マーゴットが連れ去られるようなら、カッコ良く登場しようと思っていたんだけど。やっぱりマーゴットは、私のマーゴットだ」
グレイが嬉しそうに微笑んでいた。その顔を見たら、肩の力が抜けていった。言いたいことを言っただけだと思っていたが、少し緊張していたようだった。
「なによそれ……」
「強くて優しい、私だけのエドワルド。君はいつも私に道を示してくれる」
「もっと分からないわよ」
「マーゴット、散歩に行かない?」
背中に視線を感じて、父と継母がこちらを気にしているのが分かった。グレイの提案は気を利かせてくれたのだと分かって、すぐに了承して付いて行くことにした。
「あの二人のことはあれでいいの?」
屋敷の庭園を歩きながら、グレイが口を開いた。その言い方から父と継母のことを指しているのが分かった。
「一応、言いたいことは言ったから。後は二人で解決してくれないとね。父は良いとしても、継母にはずいぶんな嫌われようだから、私との関係が変わるのは期待できないかな」
継母とはこちらも仲良くするつもりはないので、とりあえずこれ以上変な恨みを持たれるのだけは勘弁して欲しかった。
「そう……、マーゴットに冷たくしたのは頭にくるけど、彼女に関しては私も複雑な気持ちがあるんだよね、ちょっとした感謝ありで………」
「え!?なんでグレイがあのお継母様に感謝するのよ」
聞き捨てならない言葉に、ちょっとムッとしながらグレイを見上げた。
「怒らないでよマーゴット、だってこんなに魅力的なマーゴットを閉じ込めておいてくれたから結果的に虫除けになったわけだし、ね!その一点だけだよ。ティースプーン一杯分くらいの気持ちだよ」
もちろん、危害を加えるようなことがあったら黙ってはいなかったとペラペラと話すグレイに、なんだか呆れてしまって怒る気持ちは萎んでいた。
「………私が子供の頃、活動的な子供だったことは知っているでしょう。本当は色々なところに出掛けたかったしたくさん友人も欲しかった。私、自分で自分が物分かりがいいと思っていたけど、やっぱり寂しかった、すごく寂しくて……」
俯いて話していたら、グレイが優しく抱きしめてきた。その温もりが、冷えてきた私の心を包み込んだ。
「マーゴットはもっと我が儘を言っていいんだよ。私にはなんでも言って欲しい。私はマーゴットが好きだから友人にはなれないけど、君を色んな所へ連れていって一緒に色んなものが見たい。君を幸せにしたい」
見上げたグレイの瞳は真剣であった。ころころ表情が変わって、急に子供のようになったり、大人の紳士になったり、グレイは忙しい人だ。そのどれかをもしかしたら、自分だけに見せてくれるのだとしたら、嬉しいと思った。と同時に、誰にも見せたくないという気持ちが生まれた。自分にも独占欲があるのだと気がついた。
「ねぇ、グレイ。私、我が儘を言っていい?」
「え!?何?何?もちろん」
私がどんなことを言うのか、グレイは大人の顔から、キラキラした目の子供の顔に戻った。犬が尻尾を振っているような顔で、私の言葉の続きを待っている。
「私だけは嫌よ。私、グレイと一緒に幸せになりたい」
「マーゴット……」
「この気持ちって……なんて言うのかな。すっ……好きっていうの?」
「えー……、それを私に聞いちゃうんだ、可愛い……可愛過ぎる!マーゴット!」
顔が熱くなった私を、グレイは強く抱きしめてきた。ぎゅうぎゅうと痛いくらいだ。
「私が教えてあげる!それはね、好きで好きで大好きで、愛しているって事だよ!さぁその口で言ってみて!」
芽生えたばかりのような気持ちが、そこまで大きなものなのかと不思議に思ったが、グレイに言われるとそんなような気がしてきてしまった。
「好き……グレイ……大好き……」
「嬉しい!やっと手に入れた!私の宝物!」
宝物は大げさだと思ったが、グレイは本当に嬉しそうにしていたので、私は恥ずかしさと嬉しさでグレイの胸に顔をうずめた。
そこからの日々は穏やかに流れていった。
父は本格的にマシューの生活改善に乗り出した。マシュー自身もこのままではだめだという気持ちがあったようで、思いのほかすんなりと従ってくれた。
今はギブソン公爵が手掛ける仕事を紹介してもらい、家を出て住み込みで働いている。
父と継母はよく話し合うようになり、二人の関係も少し改善したようだ。
私はグレイとの結婚を間近にして、婚前旅行に出掛けていた。
「あそこに見えるのがハレルモ島ね、女性の寝そべる姿に似ているから、女神の島と呼ばれているんでしょう」
二週間の船旅も終わりにさしかかり、すっかり船の生活にも慣れて、潮風を浴びながら甲板から身を乗り出した。
「マーゴットはよくそんなことを知っているね。私より詳しいんじゃないかな」
「本を読む時間はあったから。でも実際に見るのとじゃ何もかも違うわ。わくわくして、ずっと心臓が鳴りっぱなし。子供の頃に戻ったみたい」
「童心に返るのはいいけど、海に落ちないでよ」
はしゃいで海に落ちないようにか、グレイがそっと大切そうに後ろから抱きしめてきた。
「水平線が美しいわね。こうやって見ていると、向こうに何かありそうでワクワクしない?」
私がそう言うと、グレイは噴き出して笑い出した。
「なっ……なによ!そんなに笑わなくてもいいじゃない!」
「ごめん、マーゴットらしいなと思って」
なんのことかと思いを巡らせていたら、グレイに顎を掴まれて、不意打ちのようなキスをされた。
「とびきりのお宝はもう見つけたから、探しに行かなくてもいいんだよ」
耳元で囁かれてビクリと体が揺れた。グレイはこうやってたまに自分だけで完結するようなことを言ってくるのに、詳しくは教えてくれない。しつこく聞こうとすると忘れた私が悪いとこちらのせいにされる。
今回もまた蠱惑的な目をして微笑んでいるので、その余裕ぶった態度をなんとか崩してやりたくなった。
「大変、目に何か入ったわ!痛い!」
「マーゴット、落ち着いて。ほら、私に見せてこすらないで……」
痛がる素振りをみせた私に、グレイは目線の高さを合わせて顔を近づけてきた。
今だと思って私は動いた。
この船旅で友人になった伯爵夫人に、大人のキスについて教えてもらったのだ。
グレイとはまだ、軽く触れあうようなキスしかしていない。
きっと驚くだろうと思った。
グレイの首にしがみついて、唇を合わせた。わずかに開いた隙間から舌を入れて、グレイの舌先をチロリと舐めてから、ばっと離れた。
自分でやってみて、これが大人のキスなのかと驚きと満足感があった。
唇が離れた後、グレイの目は驚きで見開かれていて、そのまま固まっていた。
いつも振り回されてばかりなので、してやったりと嬉しくなった。
ところがそれは一瞬で、グレイの目の色はぐるりと変わって、燃え上がる火のような色になった。そして口角が上がり、見たこともないゾクリと寒気がするような笑顔になった。
いつも従順な大型犬が、急に獰猛な肉食獣に変わったようで、本能的な恐怖を感じて後ろに下がったが、がっちりと腕を掴まれて引き寄せられてしまった。
「マーゴット……、悪い子だね。そんな遊びどこで覚えたのかな?」
「えっ……、あの、これは………」
「純粋培養な君にはゆっくり教えてあげようと思ったけど、そちらがそのつもりなら、こちらもそうするまで」
逃げようとした抵抗はむなしく、グレイに抱き上げられて甲板から軽々と運ばれていく。
「え?ど……どこへ?」
「こんなところでやるつもりはないから、続きは寝室だよ」
「あ、あの……、やっぱり景色が見たいなぁ。我が儘を言ってもいいんでしょう?」
「却下!」
「ひぃー!嘘でしょー!」
この後、自分のちょっとした悪戯心を、散々泣かされて後悔することとなるのだが、それはまた別の機会に……。
たった一日の出会いが運命を変えた。
きっと私達は結ばれる運命だった。けれど私が選択を間違えて全て終わってしまった。しかし、運命の力が私を引き戻してやり直す機会を与えてくれたのだろう。そう信じている。
そして、グレイは私を深い森から連れ出して、大海原へ解き放ってくれた。
この先の人生にどんな航海が待っているかは分からないが、二人であればどんな波も乗り越えていけると思った。
抱き上げられたグレイの肩越しに、どこまでも続くような水平線が見えた。
あの夏の日に、楽しそうに笑いながら走っていく二人の姿が重なって見えた気がした。
□□完□
まだまだお子様な可愛いマーゴットと、ちょっとクセのあるグレイのお話でした。
マーゴットはこれからたくさん友人が出来て、色んな経験をして欲しいなと思います。
それはそれでグレイは嫉妬しそうだなと思いますが(笑)
お読みいただき、ありがとうございました☆