第4話
何だかアホみたいに会話が多くなってしまいました。一人称で書くのは難しいですね。
それから二週間程が経った。僕が夕方に仕事をしていると八重樫君が訪ねて来た。
「例のサイトですけど、落ち着き始めました」
頰がこけ、もともと細身だった体が余計に細くなったようだった。そうまでして、僕に報告をしに来るとは本当に真面目だ。
「それは、君にとってどうなんだい?」
「最初に炎上した時には、少しだけすっとしました。でも、だんだんと酷い言葉ばかりが書き込まれていって、話にまとまりがつかなくなった時に思ったんです」
「怖くなったのかな?」
「いえ。虚しくなりました。そして、自分でもよく分からなくなりました」
色々な感情が混ざり合って、最後に虚無が残ったのだろう。彼は、そこに自分が求めることが無いことを悟ったということか。
「ならば手を引いて元の生活に戻ると良い。体調が優れないんだろう?」
八重樫君が頷く。
「今の君に必要なのは平穏を取り戻す事だ。ゆっくり食事でも取ると良い。日常を噛みしめるという行為は、心を徐々に回復させるのに有用だ。君が見たのは、人間の負の側面の一場面にすぎない。それを見て、君が違和感を感じたというのなら、それは君が健全な証拠だよ」
それっきり、八重樫君は幽霊のように図書準備室を何も言わずに出ていった。
さて、そろそろ終焉か。決行は土曜日の明日と決めている。鞄を手に取る。中には退職願いが入っている。
明日の事を考えたら、現職教師が犯行を起こすのではなく、元教師の方が良いだろうと思ったからだ。
今日の帰りに、校長室の机の上に置いておこう。あとは、どうするか。ここを片付けていきたいが、手毬花さんの行動が不確定だ。彼女はなかなか察しがいい。僕が片付けているのを見られでもしたら、気取られる可能性は十分にある。悪いがこのままにしておこう。
僕は図書室の電気を消した。
僕が校長室に退職願いを置き、職員玄関を出て車の前に立つと後ろから声をかけられた。
「一先生。今帰り?」
「ああ、手毬花さん。どうしたんだい?こんな時間に」
時計は十九時を回っている。部活はとうに終わっているはずだ。
「先生を待ってた」
つまり、一時間程外で待っていた事になる。
「そうか。乗っていくかい?」
「もちろん。ついでに、夕飯でも食べてこうよ」
積極的な彼女の態度が、今日は少しだけ嬉しく感じた。
車に乗って、手毬花さんが少し不安げな顔になる。
「いつもの喫茶店じゃないの?このままだと、吉祥寺まで行っちゃうよ」
「良いんだ。悪いが、今日は僕の我儘に付き合ってくれ。あと、ご両親が心配するといけないから連絡を」
「うん。えへへ。何か楽しみ」
嬉しそうな声で手毬花さんは、スカートのポケットからスマートフォンを出した。
駐車場に車を停めて、着いたのは石造りの建物のステーキレストランだった。
「先生。ここ大丈夫なの?高そうだよ?」
「大丈夫。六月下旬はボーナス日だよ」
冗談めかした口調で手毬花さんに話しかける。とは言っても、そのボーナスは僕はもらえないのだが。
店内に入ると蝶ネクタイをした初老の男性が近づいて来る。まるで執事のような品格だ。
「ご予約は?」
「いえ、していません」
「ではこちらへ」
案内されて着いたのはテーブル席だった。オレンジ色の温かい光が、店内を照らしている。
メニューを見てコースを注文すると、手毬花さんと向かい合った。
「わぁ。男の人とこういう場所に来るの初めて。先生こういうところでワインとか飲んでそう」
「今日は車を運転しているから飲まないけどね」
緊張しているのだろうか。手毬花さんはいつもよりもおどおどしている。
飲み物が運ばれてくるオレンジジュースと炭酸水。炭酸水が僕だ。同時にサラダが出てくる。
「今日は突然どうしたの?こんなの初めてじゃない?」
「たまには、こんな日があっても良いだろう。いつも同じ店では、君に失礼だと思ってね」
「……最後の晩餐ってわけじゃないよね?」
「ははは、まさか。ちょっと聞きたいことがあったんだ」
感が良い子だと。サラダを一口食べながら思った。
「聞きたい事?」
「どうして、振り向いてもらえないと分かっていながら、僕に告白したんだい?」
一瞬の沈黙。フォークを置いて、手毬花さんが僕を見る。
「私は先生の一番だから」
透き通るような声だった。
「ずっと言わないでいたら、そのうち他の誰かが先生に告白するかもしれない。そうなったら、私は何をしても二番目になっちゃう。私は他のことはどうだって良い。だけど、先生の事は全部一番じゃないと駄目。それが、たとえ私が傷つくことであっても」
僕は目を見開いた。恐らくいつもの微笑みは消えているだろう。
「だから、私は学校のテストでも先生が教えてくれる英語だけは一番を取り続けた。だって、テストは先生からの問いかけなんだもん。先生の事を好きな私が一番先生の問いに正しく答えられないなんて、私は認めない。そして、今は先生の心に誰かががいるのだとしても、その場所を私が絶対手に入れてみせるんだから」
まっすぐな目で見つめられる。メインのステーキを乗せた皿が運ばれてくる。
驚きだった。まさか、そこまで想われていたとは予想外だった。
「先生と会うまで、私はぼろぼろだった。贅沢な悩みなのかもしれないけど、親の過保護さとか、とにかく色んなことが嫌で逃げ回ってた。逃げて逃げて、何も追いつけない場所まで逃げようって思ったんだけど、心の底では助けてもらいたかった」
そこまで言うと、ジュースを一口飲んで僕を見つめる。仕草は落ち着いていて、大人っぽい雰囲気だった。
「だけど、結局落ちるところまで落ちても、誰も来てくれなかった。もう駄目なんじゃないかって思った時、先生が来てくれた。先生が私を外に連れ出してくれた。救ってくれた。覚えてる?」
そう言うと、手毬花さんは鞄から一冊の本を取り出した。
「ポール・ギャリコ。『雪のひとひら』」
僕は呟いた。少しでも心の慰めになればと、渡した品だった。あの日、店舗から受け取ったお金の後に、彼女にその本を渡したのを思い出した。
「あの雨の日、車の中で先生が私にくれた本。先生、覚えてる?私、一晩で読んだんだよ。凄く良かった。本を閉じた頃には、先生に会いたくてたまらなかった。そこからは、夢中だった」
「ありがとう。そんなにも想ってもらいながら……答えられなくてすまない」
「いいよ。待つって決めたから。先生約束してくれたし」
「さあ、冷めないうちに食べよう。ここのステーキは絶品だ」