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愛のひとひら(『想いの価値は』番外編)  作者: スミス・ヴァルター
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第3話

 僕のアルファードのフロントガラスに張り付いた雨粒を、ワイパーがかき分けていく。音楽もラジオもかけず、雨粒と通り過ぎる車の音だけが聞こえていた。

「ねえ、覚えてる?あの時も、こんな雨の日だったの」

 手毬花さんがぽつりと言った。あの時。去年の6月のことを言っているはずだ。

「ああ、覚えている。あの時も、君を隣に載せていた」

 雨粒が車体を打った。後部シートから低い声が聞こえた気がした。

 去年の六月の光景が脳裏に浮かんでいく。



『つまり、にのまえ。こういうことか。お前の学校の生徒の女の子が風俗店で働いているから保護したい。しかし、事を公にもしたくないし、警察にも知られたくない。自分が言ってる事を分かってるのか?』

『ええ、かくいう影山さんが生活安全課の刑事である事を存じた上で申しております』

『俺は別に構わねえよ。お前の親父さんには恩もある。だが、分かってるのか?世間一般では、これはヤバい橋って言うんだぜ』

 アルファードの後部座席でくたびれたスーツを着た影山さんが言った。影山さんは、父の友人で昔から僕を気にかけてくれている人だ。

『だからこそ、影山さんのお力をお借りしたいのです。そして、先ほどご説明した通り、万一の時は私に脅されてやったと切り捨てて下さって結構です』

『そんな事しねえよ。一年半後には定年で妻子もいるわけじゃないからな』

『恐れ入ります。それではお借りしていきます』

 僕は警察手帳を胸ポケットに入れた。


 店員に案内され、ソファー席に腰掛ける。店内は良く分からないビート系の曲が大音量でかかっていた。悪趣味だな。しかしかといって、クラシックはこんな卑俗な場所には似つかわしくない。周囲にまとわりつく煙草の臭いに、僕は自分の眉間に皺が寄るのが分かった。

『お待たせしましたー。ご指名ありがとうございます』そう笑顔で僕の前に現れたのは、いつも僕の授業を聞かずにずっと眠っている女子生徒、手毬花てまりばな 栄華えいかだった。

『え?一先生何で……』

 相手が僕であることが分かり同様する彼女の口元を手で押さえて、ソファーに座らせた。人差し指を自分の唇に当て、静かにするよう合図を送る。彼女が頷くのを確認して、僕は手を離した。

『話は後で聞くよ。とりあえず確認したいことが事ある』

 僕は彼女の手首をとった。そして、メイド服のカフスを外す。リストカットの跡があった。胸に怒りが込み上げる。

『あの、痛いです』

 無意識に手に力が入っていたせいで、手毬花さんから抗議の声が上がる。僕は謝ると彼女の手を解放した。

 彼女はすっかり消沈したようで、下を向いていた。長い髪が表情を隠しているが、教室で見た色白の顔はショックで余計に白くなっているのだろうかと、僕は思った。

 そのまま、三十分が過ぎた。しかし僕も彼女も動かない。店内で様子を伺っていたスーツの男が近寄ってくる。さあ、三文芝居を始めよう。ネイティヴと話すように心に余裕を持とう。

『お客さん。どうかしましたか』

 怪訝そうな顔で男が僕に尋ねる。

『いえ、問題ありません。むしろいらっしゃるのを待っていました』

 僕は胸元の警察手帳をちらつかせる。男の顔色が明らかに変わる。急いで戻ろうとする男のスーツの袖を僕は引っ張って阻止する。

『すぐに店長を呼んできますので』

 せがむような口調で男が言う。相手の強気姿勢が崩れた今が、口調を変えるには良いタイミングだ。

『せっかちだな。その前に世間話でもしようじゃないか』

『いや、しかし……』

 あまり長い事話し込んでいては、自分が店長からあらぬ疑いをかけられると思ったのだろうか。はたまたすぐに報告に戻りたいのか。男が乗り気でないのは明らかだ。それを分かった上でどうでも良い話を続ける。全て創作の身の上話だ。

 十分が経ち、痺れを切らしたのか奥から別の男が僕の前に来た。『店長』と、最初に来た男がが言う。当たりだ。

『おたくの従業員はお話し上手ですね。そこの彼と会話が弾んで、お仕事のことを忘れそうになりましたよ』

『サツです』

 最初の男が顔に脂汗を滲ませながら店長に言う。店長にも警察手帳を見せる。写真を含め全て偽装済みだ。

 店長と呼ばれた男の眉が上がる。最初の男が役目は終わったとばかりに足早に去っていった。解放に安堵していることだろう。

『あまり、うちの若い者をいじめないで貰いたいのですが。とりあえず、場所を変えましょう』


 奥の控え室に案内される。僕はさりげなく手毬花さんの背中に手を当てて、同席を促した。

『とりあえず。これで』

 封筒が差し出される。中には、現金二十万円が入っていた。

『足りませんね。未成年者を働かせているのに目こぼししろと言うには、もっと説得力がなければ。せめて七十万はもらいたい』

『そ、そいつはいくらなんでも』

『ガサ入れするのは簡単ですよ。電話のボタン一つで警察は繋がっていますからね』

 店長の表情に怯えとも怒りともつかぬ感情が浮かぶ。考えているのだろう。仕草がいちいち分かりやすい交渉相手としては理想的だ。

『それは困ります。うちだってようやく凌ぎを削って……』

『あまり時間はありませんよ。私が長時間戻らなければ、私の同僚が怪訝に思う。あと三十分といったところでしょうか』

 僕は店長の言葉を遮って言った。相手から正常な判断を奪うためには、焦り、怒り。全てを利用しなければならない。交渉の基本だ。

 相手は僕という席に着いてから何も注文しない客に少なからず苛立っている。次にその客は警察であるというストレスを与える。そして、焦った彼は見逃してもらおうと試みるが、額を釣り上げられる。そして、決断までの時間は無いというおまけも付けてやる。

『分かりました。それでは………』

 店長が声を絞り出した。食いついた!

『いや、五十万円で良い。その代わりに、彼女を今後ここで働かせない。過去のことも全てを忘れる。どうです?』

 相手は豆鉄砲を食らったような顔になった。

『その五十万円で、私が警察とあなたの仲介になり、彼女の家ともナシをつけましょう。そうすれば、店長。貴方は今夜も家で美味いビールが飲める。五十万円という支出は少し痛かったと、BSでも見ながら思うかもしれませんが、貴方の手腕ならそんなのすぐに取り返せる額だ』

 店長の顔がわずかに明るくなる。交渉の基本。こちらの条件を砂糖をたっぷりまぶしたケーキのように思わせる。

『もしも、ガサ入れされたとしましょう。そして捜査の結果、仮に何も無かったとしましょう。しかし、これだけは確かだ。当分客は入らない。当然その間の収益が減る。貴方は同意書を始め、面倒な書類にいちいちサインをしなければならない。営業差し止めどころか逮捕されてしまう。貴方は電卓を叩きながら考えるはずだ「この間どれだけ稼げただろう」と。浪費された時間は帰ってこない。結果、あなたは五十万円を取り戻すどころか、毎晩の楽しみのビールにすらありつけなくなる』

 もう一つの交渉の基本。相手を限られた選択肢しか無いように思わせる。そして、態度は優しく協力的なものでなければならない。

『さて、どうしますか?』

 僕は微笑みを作って問いかけた。


 そして、僕は彼女を車に乗せて家に送った。

『二十二時までに帰れば大丈夫だと、そう思われたんですか?』

 開口一番、僕は手毬花さんの両親にそう言った。そして、その後にこう言った……。




「『無条件に全てを信頼するというのは、愛情ではない。無関心と同じです。娘さんは、夜のゲームセンターで不良たちと遊んでいるところを私が保護しました。いつからだと思います?三ヶ月前からですよ?無関心は、無責任と同義だ』」

 隣の手毬花さんの言葉で僕は思考を中断する。驚いたな。覚えていたとは。

「あの時、先生が私の親に言ってくれた言葉嬉しかったなぁ。覚えてる?あの時、先生すっごく声を荒げてたんだよ?私、思ってても言えなかった。本人たちがいつも目の前にいたのに」

 手毬花さんが少し俯く。

「近いからといって、何でも言えるわけじゃない。それに、手毬花さんはご両親に言いたかったんじゃない。気づいてもらいたかったんだ」

 信号が赤になる。ブレーキを早めに踏んで、緩やかに減速して停車する。雨の日は路面が滑りやすい。チェンジレバーをニュートラルにする。

「私ね。先生の事が好きだよ」

 心臓が鳴った。横を向くと、手毬花さんが僕の目を見ていた。彼女の気持ちに、僕はずっと前から気づいていた。

「ありがとう。でもね、今は多感な時期だ。手毬花さんは、人より少し君の人生に踏み込んだ僕に感情移入しているんだ。長い人生で見ると、もう少し周りに目を向けた方が……」

「私の今はこの瞬間に流れてる!後になってから、ああするのがベストだったって言うのは、ただの知ったかぶりでしょ!今を必死に悩んで決断したのを、そんな言葉で誤魔化さないで」

 真剣な瞳だ。ここまで熱を持った真剣な目で見つめられた事があっただろうか。

「分かってる。本当は。先生は私なんか見ていないって。別の誰かを見ているんだって」

 絵本を読んでほしいと、僕のところに走ってくる小さい頃の蒼空の顔が頭をよぎった。

「だけど、今はそれでも良い。だから……これからもそばにいて良いでしょ?」

 ぽろぽろと手毬花さんが泣いた。去年と合わせて二回目の、彼女の涙だった。申し訳ないことをしたと思った。相当な勇気を振り絞っただろうに。

「ああ。明日も昼休みに一緒に紅茶を飲もう」

 手毬花さんの声に嗚咽が混じる。僕は左手を伸ばして彼女を抱き寄せ、頭を撫でた。残酷な行為かもしれないが、彼女は抵抗しなかった。

 目の前の信号が青になる。手毬花さんから手を離して、チェンジレバーをドライブにする。彼女の手が僕の左手に添えられる。

「約束して?私が卒業するまで、一緒にいてくれるって。先生に恋人ができても良いから、これからも同じように過ごさせて」

 約束……最後にしたのはいつだろうか。それに、一歩を踏み出してしまった僕は夏にはこの学校にはいない。さいは投げられたのだ。

 だが、目の前の手毬花さんの目は切実だ。

「そうだね。約束だ。これからも、楽しく過ごしていこう。君とは最後の日まで一緒だ」

 そうして、僕は叶えられない約束をした。


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