第2話
その日の夕方、梶 和美が学校を訪問し、僕の事を探っていたと手毬花さんからLineが送られて来た。そうか。良かった。梶 和美は食いついているみたいだ。彼女の義理の弟、梶 創平は、僕の従兄妹の三笠 蒼空と付き合っている。そして、僕は蒼空にずっと片想いをしている。それは、和美も同様だった。彼女も自分の義理の弟を愛していた。
だから、以前話を持ちかけた。共闘しよう。お互いの愛する人を取り戻そうと。しかし、決裂した。理性的な彼女は、僕の提案を拒否した。当然だ。
仮に僕らの共闘が成功したとして、その後に得られるのは勝利ではない。ただの現状復帰であり、ある種の留保だ。元に戻ったからと、今度は自分が愛を囁くか?無理だ。結果は実るはずがない。
終わりが見えてしまったものをいつまでも続けるのは惰性だ。惰性はいつか腐敗をもたらす。回避するには、行動を起こさなければならない。そのための第一歩は踏み出した。
その時、部屋がノックされた。「どうぞ」と答える。
「すみません。良いですか?」
ドアから申し訳なさそうに入って来たのは、八重樫 勇。二年生の男子生徒だ。この様子では相談に来たのだろう。やれやれ、手毬花さんから聞いた話だが、僕のこの部屋は「一相談室」と生徒の間では呼ばれているらしい。僕はまた意識して微笑みを作る。
「どうぞ、そこの椅子にかけると良い」
目の前に出された紅茶を一口飲み、八重樫君はつらつらと心情を吐露し始めた。曰く、同級生の蒼空が好きだが、最近同級生の創平君と付き合ってしまったという。何度も諦めようと思ったが、心の中の靄は晴れず、物事に集中できないと言う。
自分で言うのも何だけれど、蒼空は本当にいい子だ。隣の席の誰かが消しゴムやシャープペンシルを落としたならば、笑顔の特典付きで拾ってくれる。面倒見もよく、病欠した生徒にノートを写真にとってLineで送る。そういう女の子だ。
八重樫君もクラス替えで一緒になって、一度席が隣だったと言う。
「で、君は気に食わないと?」
目の前の少年は頷く。どうやら、僕が蒼空の従兄妹だとは知らないようだ。無知の知という言葉が頭をよぎり、おかしくてつい笑ってしまった。
「何かおかしいことでも?」
「いや、失礼。そうじゃない。まっすぐだと思ってね。それで、君はどうしたいんだい?」
目の前の少年は俯く。さあ、君はどうする。絶対的に不利な状況下。自分が告白しても、それは成就する見通しが無い。
「分かりません。最近では好きだったのかすら分からないんです。こんな事を言ったら悪いのかもしれませんが、憎いというか、ゆるせないというか」
「それは、交際相手の梶君に関してかい?」
「違います。三笠さんにです。逆恨みだって分かってます。でも、何だか裏切られたようで……」
八重樫君はそれっきり俯く。優しい性格なのだろう。それでいて人付き合いが苦手。教室の中では貧乏くじを引くタイプだ。
「なら、そう思っているのは君だけかな?」
僕は八重樫君になるべく優しい声音を作り語りかける。先程から終始肩を落としたままの八重樫君の顔が僕を見つめる。
「そう思ってる人は君だけだと僕は思わない。だから、これは君だけの問題ではない。君たちの問題なんだ。君たちは今選択を迫られている。目の前で成立した一つの男女の関係を認めるか否か。ならば、聞いてみればいい」
僕の言葉に八重樫君の目が開かれる。
「で、でも、そんな事できっこありませんよ」
「『学校裏サイト』という言葉を聞いたことはあるだろう?」
八重樫君の喉仏がごくりと鳴った。もしかしたら、サイトを覗いたことがあるのかもしれない。
「そんな。書き込めとでも言うんですか?僕一人しか否定的な意見が無かったら吊し上げられます」
「君が否定的な意見を書き込むんじゃない。君はあくまで問題提起をするだけだ。『どう思いますか?』と」
「それで、誰も話に乗ってこなかったら?」
「ペンギンの話を知っているかい?」
「え?」
突然の話に八重樫君の目が丸くなる。
「ペンギンは一見仲が良さそうだ。だけど、氷上から海に飛び込む際に面白いものを見ることができる。みんなが固まって待っているんだ」
「一体何を?」
八重樫君の瞳が揺れる。必死に考えを巡らせているのだろう。
「最初の一羽が飛び込むのを。海は危険がたくさん潜んでいる。例えば水中ではシャチが、今か今かと飛び込んでくるのを待っているのかもしれない」
意味を理解したのだろう。八重樫君が口を開いた。
「つまり、僕が最初の犠牲になれとおっしゃるんですか?」
「いいや、そうじゃない。言っただろう。君がするのは問題提起だ。あとは、否定的な意見を誰かが言えばいい。そうすれば、本当にそう思っている人たちが動き出す」
「そんな都合良くいきませんよ。第一、今の話だとその一人が現れなければ……」
「一人で複数の役を演じて書き込めばいい」
「そんな、自作自演じゃないですか!?それこそ特定されたら終わりですよ」
「一人で複数の端末からアクセスしているように見せる方法がある」
「そ、そんなのを僕は知りません」
「僕がこれから教えよう」
八重樫君の目が僕を見つめる。酸素が足りないのか、言葉が出ないのか口をパクパクと開けている。
「良いかい。君は問題提起をする。そして君は別の君となってそれに、書き込みを加える。それ以降何もしなければ良い。何も無ければ全て世はことも無し。だけどもし、君以外で反応する者がいたとすれば……。それは君のせいじゃない。そう思う人が他にいたというだけの事だ。いたらいたで、判断はそこで皆で議論すれば良い。」
「………分かりました。お願いします」
間を置いてから、八重樫君は声を絞り出した。それで良い。蒼空に思い知らせてやると良い。自身の無意識が人を傷つけていることもあるんだと、その痛みを訴えるんだ。君は自由なんだ。
八重樫君を見送ってから、僕は四十分だけパソコンで仕事をした。指導案の作成だ。三年生は受験を控えているから、一時間一時間の授業に本当に気を遣う。英語は難しいと生徒の皆が言う。そうだろう。日本語だってこんなにも難しくて、自分の思いすら相手に思うように伝えられないのだから。
何だろう。少しだけ後ろ向きな気持ちになっているな。人の悩みを聞くと、多かれ少なかれ影響がある。カウンセラーの自殺なんて珍しくもない。帰って、部屋でショパンの曲でも聞いて癒されようと思った時、また部屋がノックされた。客人が多い日だ。
「先生。雨が降ってきたから、ママが迎えに来るって言うから断った。だから、私を車で送って頂戴」
少し苛立った様子の手毬花さんがいた。ジト目でこちらを見ている。僕はため息をつく。
「分かった。車を生徒玄関まで回してこよう。それと、いつもの喫茶店で良いかい?」
「紅茶とチーズケーキ。お代は自分で払うから」
「僕は子どもにお金を払わせないよ」
「別に奢ってもらうのが目的じゃないもん」
「話は後で聞こう」
僕は上着を着ると、鞄からGUCCIのキーケースを取り出してポケットに入れる。生憎折りたたみ傘は持ってきていない。HUGOBOSSのスーツが少しでも雨に濡れるのは残念な思いがした。