第1話
今作は一人称で書き進めて参りたく存じます。
パスカルは言った。「人間は自分の悲惨を知っている点で、偉大である」
例えば植物は自分の悲惨を知らない。だから人は意識しなければ悲惨ではない。
故に「自分の悲惨を知ることは、悲惨な事だがそれを知る事は、偉大なのだ」と。
そして人間は、邪欲の中にあってすら偉大であり、そこから一つの愛の絵を作り出す。
砂時計の砂が落ちるのを眺めながら、僕はそんなことを考えていた。砂時計の隣にはティーポットがある。今日の茶葉はFortnum&Masonのアールグレイ。最後の砂粒が落ちるのと、僕がいる図書準備室の扉が開くのは同時だった。
「一先生!また自分だけ美味しいものを飲もうとしてるでしょ!」
「いらっしゃい、手毬花さん。いいや、来るだろうと思っていたよ。その証拠に、ほら」
僕はテーブルの上を指差す。色違いのノリタケのティーカップが二つ並んでいる。
「良かった。先生たまに薄情なんだもん」
そう言って、カップに紅茶を注いでくれている彼女は僕の教え子の一人だ。
手毬花 栄華。高校三年生。
ショートカットで、小麦色に日焼けした彼女は陸上部に所属している。マイペースで、さばさばとした性格で、本人は気がついていないが一部の男子生徒からは人気がある。
英語の科目は昨年の夏からずっと学年一位。都内の模試でも、常時五位以内を維持している。英語を担当する僕としては嬉しいが、問題はそれ以外の科目だ。幸いにして国語の成績は良い。学年で十位以内だ。しかし、それ以外の教科はすべて赤点ギリギリ。極端な成績だ。だから、学年順位は下から数えた方が早い。
「ありがとう。しかしまた、何だって君はこうも毎日教室から遠い図書室まで足を運ぶんだい?僕が生徒だったら、昼休みが勿体無いと思うけどね」
「図書室に準備室があるのを良いことに、先生が一人でサボったりしてないか見にきているんです」
思わず苦笑する。確かにこの部屋は僕の領域と言っても過言ではない。司書の資格があるということで、昨年の春から図書室を任されるようになった。そして、教員の誰も興味がないのを良いことに、今では図書準備室は僕の私室のような状態だ。
まず、絨毯を敷いた。汚れたタイルなんて見ているだけで不快だ。次に小さな冷蔵庫を置いた。ポットを置いた。使われていない本棚を改造して、茶器棚にした。好みのものだけを固めた、まさに箱庭だった。
「先生。良かったら食べて。コンビニのやつだから、あまり美味しくはないかもしれないけど」
手毬花さんがマドレーヌを差し出す。
「ありがとう。紅茶にマドレーヌとは、出来すぎた組み合わせだね」
「まるで、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』みたいって思ったんでしょ?」
「正解だ。『今日も悲しい一日だったけれど……』」
「『明日もきっと同じなんだろうと、ぼくはふさいだ気持ちで、マドレーヌを紅茶に浸し、口に運んだ』」
僕が言おうとした続きを、手毬花さんが諳んじる。そして紅茶を一口飲み、誇らしげに微笑んでいた。驚いたな。一言一句正確だ。
「後世ではその有名な場面になぞらえて、ある香りである記憶が呼び覚まされることを『プルースト効果』と言う。手毬花さんは、何かそういった経験は?」
「ん〜あると思うけど、直ぐに言えるようなのはないかなぁ」
首を傾げ、人差し指を頰に当てながら手毬花さんは考えるそぶりをする。
「そうかい、僕はね。あるよ」
ここと同じ古い本の匂い。目を閉じれば、蝉の声が聞こえた。脳裏に家が立て壊されていく光景が広がっていく。僕が小学生の頃だ。
一九九九年。ノストラダムスの大予言は外れ、夏に恐怖の大王がやって来て世界を滅ぼすことはなかった。しかし、僕の小さな世界は無くなった。
母の死後、父の行方が知れなくなってから一年。僕は親戚宅を転々とし、荒んだ日々を送っていた。そしてある日、土地を売りに出すということで、家が建て壊されることになった。
かつて、一つの家族が暮らしていた場所が壊されていくのを、実感が無いまま見つめていた。
そして、全てが壊された時、僕ははっとなって走り出した。瓦礫の山をかき分けて、何かを夢中で探した。残骸となっていても、そこに自分たちがいた証を見つけたかったのかもしれない。そして、僕は見つけた。ボロボロになった本だった。父も母も本が好きだった。昔から収集していた本が大量にあったのを僕は知っていた。それが今や無残な姿になって埋もれていた。それは僕自身と重なって見えた。
だから、僕は可能な限りそれを全て回収した。
その中の一冊を手にとって、僕は抱きしめるととめどなく涙が溢れて来た。喜びとも悲しみともつかない、何とも言えない気持ちだったがこれだけは確かだった。ようやく心の時間が、現実に追いついたんだと。その時、肺いっぱいに僕はその古びた本の匂いを吸った。
本当は僕は取り壊しに立合わない予定だったが、母方の兄が気を遣ってくれたのだと、後になって知った。そして、僕はそこに引き取られた。
蝉の声が空に吸い込まれていくにつれ、僕の意識は再び図書準備室に戻った。
「先生また一人で物思いにふけってたでしょ?」
手毬花さんが僕の顔を覗き込んでいた。
「ごめんよ。つい、昔の頃を思い出していた。君の持って来たマドレーヌのおかげだね」
「ただのコンビニのお菓子だよそれ。先生の昔ってどんな感じだったの?」
後半の質問は無視して答えることにしよう。いつもの微笑みが崩れないように、気を入れ直そう。過去を聞かれるのは嫌いだ。
「そんな事はないさ。行為はね、誰がするかも重要なんだ。手毬花さんがプルーストの話ができるからこそ、僕は過去の記憶を思い出したのさ。行為はね、欲求をより強く表現する力があるんだよ」
そう言うと手毬花さんは声を出して笑った。
「いつも思うんだけど、私、先生と話してると、何だか大したことしてないのに自分が何か意味があることをした気持ちになるなぁ」
「意味なんてものはね、初めからあるものじゃない。見出すものなんだよ。君には君が思っている以上の力がある。前にも言っただろう?」
「何だかちょっと損した気分。そんなに言ってもらえるなら、良いのを買ってくるんだった」
手毬花さんは口を尖らせて言う。一見マイペースな雰囲気がある彼女だが、実はとても気を遣う子だ。マイペースなのが彼女の仮面で、時折見せる繊細さこそが本当の顔なのだろう。
「良質な甘味を所望なら、冷蔵庫に虎屋の羊羹が入っているよ。それに、気を遣うんじゃなく……」
「心を遣え。でしょ?分かってるってそんなの。これは私の気持ちの話。それに、女の子にたくさん甘味を勧めるのは感心しないな」
「また、先に言われてしまったね。そろそろ帰った方が良い。あと十五分でチャイムが鳴る。後片付けは僕の方でやっておこう」
僕は立ち上がってドアを開けた。
「良いよ。まだ大丈夫だから、洗うの手伝う。二人でやった方が早いでしょ?」
「そうかい?ならお言葉に甘えよう。だけど、一教員の立場から言わせてもらうなら、もう少しスカートの丈を下ろしなさい。男子への視線誘導かい?」
意気揚々と立ち上がった彼女に僕は、真剣な表情を作ってそう言う。一秒も持たずにお互いに吹き出した。どうでも良いことを意味ありげに言う。これも、僕たちのありふれた光景だった。