01
無数とも思える人の流れは、混凝土の大木林の隙間を埋める様に進んでいく。
きっと、この中で一人、舌打ちをしたところで誰も気に留めないだろう。そんなひねくれたことを考えながら、一人の男子高校生が、歩き慣れた通学路を歩いている。
頭上を仰ぎ見ると、青い空に一筋、歪みが見える。
その歪みの中央を、黒い長い影が通り過ぎた。
電磁式高速鉄道――チューブリニア。
歪みの正体は透明なチューブ、チューブリニアの通り道である。
通学路を足早に歩く生徒の群れは、次第に仲の良い者同士で固まっていく。笑顔で軽い調子の挨拶を交わして、時折白い歯を見せながら、馬鹿なことを言い合ってそれぞれの今日の機嫌を確認する。混凝土とアスファルトで覆われた空間で、彼等は群れることで生き延びようとしていた。
しかし、春先のまだ冷たい風に顔を顰めた一人の男子生徒は、結局校門をくぐり、下駄箱で靴を履き替え、教室の自らに割り当てられた席に座っても、一人だった。安物の学生鞄からオールドタイプと呼ばれるタブレット型端末を取り出し、机に備えられた校内ネットワークサーバに接続させると、彼は一つ大きなあくびをした。
次第に、教室内の人口密度は増加していくが、彼の周囲だけ、穴が開いた様に誰も近づかない。
尤も、彼が嫌われているわけではない。彼も、僅かながらコミュニケーション能力は持っているため、友人とは言えずとも知人は教室内でもそれなりにいる。それも、挨拶を交わすほどの仲でもないが。
そして、今の彼からは、近寄れば吸い寄せられるような眠気が渦巻いている。
欠伸を噛み殺すこともせず、大口を開けて脳に酸素を供給しようとするが、ジクジクと蝕む様に忍耐精神を眠気が削っていく。よく耐えてあと十五分ほどか。
「おはよう、曳田くん」
突然、眠気との闘いの最中に横から飛んで入った挨拶に、僅かに身を硬直させる男子生徒。このクラスで、唯一、彼に挨拶をする女子生徒は、その長い亜麻色の髪に爽やかな香りを漂わせながらニコリと微笑む。天使の笑み。
「ああ、おはよう、結代さん」
男子生徒も、切って貼ったような薄っぺらい笑みを浮かべて挨拶を返した。彼の精一杯の返礼である。
「……なに見てるの?」
彼女は、そう言って彼の端末を覗き込んだ。残念ながら、彼は見られて困るようなものを眺めているわけではなかった。
「ニュースサイト。今朝のニュースを見逃したからね」
「見逃した?」
「はは、寝坊しちゃってね」
彼は嘘をついた。寝坊などしていない。テレビモニタで垂れ流される公共放送のニュースも、視覚的には見ている。ただ、あまりの徒労感に頭に入らなかったというだけだ。しかし、それを説明するのも面倒であることは明白だ。だったら、手短にすむように嘘でもついたほうがマシだ。
「ははーん、どうせ夜更かししてたんでしょ? ダメだよ、いくら受験勉強が始まっているって言っても、寝るときは寝なきゃ」
「ははは、気をつけるよ」
「絶対嘘ね。ま、いいけどね」
そう言った彼女は会話を切り上げ、また別の生徒と同じような簡単な会話を繰り広げる。その可愛らしい笑顔と明るい性格で、多くの生徒が嬉しそうに会話に応じている。それを見た彼は、小さく呟かずにはいられなかった。
「……転校生って大変だな」
そう。彼女は今月、三年生に進級すると同時にこの私立櫛花学園高校へと転入してきた。あの見た目と性格で、未だひと月経っていないというのにクラスに溶け込んでいる。しかし、彼女なりに気を遣っているようで、こうして毎日クラスメイト達に声をかけて回っている。
彼は、その視線を端末に再度落とした。そこには、大きなゴシック体で『大手印刷企業A社大敗! ブラックハットはたった一人!?』という見出しの元につらつらと明朝体の文字が見えた。
最近騒がれているニュースで、次々と《スヴァルトへイム》の企業要塞が陥落しているというものだ。企業要塞とは、電脳世界上に存在する、企業のインフォメーションクラウドのことである。有らゆる情報がそこに保存、蓄積され、マーケティングなどに利用されている。ただし、当然無防備というわけにもいかない。セキュリティソフトウェアなどで要塞化するのである。幾重にも複雑に絡み合わせられたセキュリティだが、それに対する攻撃を専門に行う人間、ブラックハット達にかかれば造作もなく破られてしまう。当然、それを良しとしていては企業はやっていられない。
そこで当初、企業はブラックハット達に対抗するために内部でそれを専門に行う部署を立ち上げた。しかし、ブラックハット達に対抗するのは並大抵ではない。当然、育成にも多額の費用がかかる。設備も高価になっていく。しかしながら、どれほどの予算を投入しようとも、ブラックハット達には敵わなかった。
そこで、企業はそれを売りにしている外部業者に委託することにした。これならば、それなりの報酬を用意するだけで済む。金額は、自己投資するときと大きくは変わらないが、責任を転嫁することができる。このシステムは瞬く間に広がり、インターネットと呼ばれた旧世代ネットワークから、《スヴァルトへイム》へとネットワーク空間が移管しても変わらなかった。むしろ、企業間で情報戦が繰り広げられるまでになった。それは、《スヴァルトへイム》の成り立ちに起因しているのだが、それはまた別の話だ。
最近の騒動は、その《スヴァルトへイム》の企業の機密情報を護る、通称企業要塞と、それを守護する《スヴァルトへイム》上の戦士――フェアリが、次々と謎の襲撃によって敗北を喫しているというものであった。既に十社ほどの大企業が機密情報を流出させている。それだけならまだニュースになってもこれほど騒がれないだろうが、なんとこれを成し遂げているのがたった一人のブラックハットだというのだ。これが真実ならば、情報安全保証上看過できない脅威である。だが、そんなことが可能なのだろうか…………。
そこまで考えたところで、ショートホームルームの開始を告げる鐘が響く。ツカツカと高いヒールを鳴らして教壇に立ったのは、櫛花学園一の美女と呼び声高い高橋女史であった。黒いレディススーツに身を包み、すらりとした体躯にキリッと凛々しい空気を纏った高橋女史は、その細い目で着席した一同を眺めたのち、いつも通り連絡事項を話していく。事務的に恐ろしく早くそれをすませた高橋女史は、若干柔らかい雰囲気になって転校してきたばかりの結代に声をかけた。曰く、困ったことがあれば何でも言え。結代はそれに笑顔で答えると、高橋女史は満足したように教室を後にした。
と、彼――曳田 都古が憶えているのはそこまでだ。そこからは夢現どころか、完全に夢の中へ旅立った。幸い、この日に体育はない。心置きなく、昼休みまで熟睡することになった。
次に目が覚めたのは、丁度昼休みになった時間であった。既に一年近く続く生活サイクルであり、体内時計もそれに合わせられている。
購買で安い惣菜パンを買ってモソモソと食べ終えると、今日は珍しくクラスメイトから声をかけられた。
「なあ曳田、お前さ、《ヴァルナオンライン》ってゲームやってない?」
《ヴァルナオンライン》という単語に、都古は思わず僅かな間固まった。それは、《スヴァルトへイム》誕生のきっかけとなった、所謂仮想現実大規模オンラインゲーム、VRMMOのパイオニアである。一般に「ダイブゲーム」と呼ばれるこの形式のゲームは、それまで一般的だった据え置き型コンポーネントを必要とせず、首に専用のチョーカーを身につけ専用サーバーを介して、ヴァルナシステムという《ヴァルナオンライン》を稼働させる専用ネットワークに意識を接続させることで遊べるゲームだ。
「ごめん、今はやってないんだ。でもどうして?」
都古は正直に答えた。
「今はってことは、経験者?アカウントは?ちょっとさ、今俺たち詰まってるんだよ、手伝ってくんない?」
その男子生徒三人は、頼む、と手を合わせた。聞くところによると、彼らは始めたばかりで、序盤鍵になるアイテムがどうしても取れないらしい。
《ヴァルナオンライン》は一応ストーリーがあるが、世界観を理解するための序章をクリアしてしまえば、ストーリーを進行させる必要はなくなる。非常に自由度が高く、夢は叶う、というキャッチコピーは本当で、やろうと思えばゲーム内で店を構えたり、農場を経営することもできる。どうやら、彼らはその序章で詰まってしまっているようだ。別段拒む理由もない。
「良いけど、ブランクあるし、あんまり役に立たないと思うよ?」
「本当に!?いやぁ、助かるよ!マジで!」
「ああ……でも、今日はできないから、明日でも良い?」
「おう、良い、全然オッケー!頼むな!」
その元気な様子に健全な男子高校生らしさを感じた男子高校生。頼むな、という念押しに苦笑交じりで答えた。
こうして彼は、些細な約束をして、再び眠りの世界へと落ちていく。