正体そのニ
「わぁ……!」
駅から出て、感嘆の声をあげたのは月音さんだ。
多くの人が待ち合わせ場所として利用している駅の広場。
そこは赤や白のレンガが地面を彩りつつも若々しい木々があり、なかなかに目を楽しませてくれる場所だ。その上、ここには彼女の知らない建造物もたくさんあるだろう。
何よりも人の多さが、田舎のそれとは比べ物にならない。
「すごい人ですね」
「こんなものだよ。今日は休日だから、ちょっと人が多いかもしれないけどね」
ふと、歩きながら彼女の様子を窺ってみれば、湧き上がる好奇心に結われた黒髪は忙しく揺れている。
「時間はまだあるし、いろいろ見ていこうか」
「はい!」
上映にはまだ結構時間がある。せっかくここまで来たのだから、いろいろ見て回らないのはもったいない。それに、こんな様子の月音さんをどこにも連れていかないなんて、ちょっとできない。
町にある洋服屋や百円ショップなんかを回ろう。
そう考えた僕は月音さんを引き連れて、まず、洋服屋に向かった。
○○○洋服屋○○○
僕は、服屋に縁がない。
いや、正確にいうと僕は着るものに無頓着であり、自ら服屋に出向こうとはほとんどしてこなかった。
快適に過ごせて、かつ、それほど不恰好でなければいいと考えていたし、今もそう考えている。
だが、それは男子に限った話に違いない。
今しがた生じた感情を噛み締めながら、僕は目の前の月音さんを改めて直視した。
細やかな刺繍が施された純白のワンピースを着た彼女を一言で言い表すなら、清楚という言葉がふさわしい。真黒な髪と白いワンピースが特に上品さを引き立てている。
さながら、年端のいかないお嬢様のようだ。
「どう、ですか?」
「うん、似合ってる」
ワンピースの裾を抑えながら、こちらを上目でちらちらと見る彼女は、とても可愛らしい。
今の月音さんはその表情といい、姿といい、いじらしさが臨界突破している。
わかってもらえるだろうか。いつもと違う髪型。いつもと違う色の髪留め。いつもと違う表情。
一時的ではあるが、いや、一時的であるからこそそれは、人の琴線を大きく揺さ振るんじゃなかろうか。
僕はある種の哲学的心理に行き着いてしまったのかもしれない。
「と、灯さん。その、そんなに見ないでください」
「え、ああ! ご、ごめん! 見惚れちゃって」
「っ!」
カーテンが素早く閉じられる音が心に反省を生んだ。
あんまり見ていたものだから、月音さんには嫌な思いをさせてしまったかもしれない。
じろじろと見られたら誰だって嫌だ。何かあるのかと勘ぐってしまうだろう。
いや、じろじろと見ていたつもりはないのだが。
しかし、他人からどういうふうに自分が見えているのかなんて、存外わからないものだから、気をつけるに越したことはない。
今一度心に留めておこう。
と、心の中で誓ったところで早々にカーテンが開かれる。
月音さんは着替えるのが速いな、と思いつつ音のした方へ目を向けると、黒髪を撫で付ける彼女が僕に問いかけた。
「灯さん、黒はあまり馴染みがないのですが、どうでしょうか?」
「ほう、これは……」
これはまた、すばらしい……。漆黒のドレスがまた通常見られない彼女の魅力を最大限に、先ほどとはまた変わった趣のある方向へ引き伸ばし、さらに…………。
◯◯◯
「はぁ、はぁ、ぐっ……」
酸欠状態に陥った体が、必死に空気を求めて、喘ぐ。
それは月音さんも例外ではない。彼女も絶え絶えに息をしている。
腕時計を持つ僕が時間を管理するべきだったのに。
僕は辛そうな彼女に「ごめん」と心内で謝った。
映画の上映が間近に迫っていることに気づいたのはついさっきのことだ。
僕たちは服屋を思う存分に堪能していたのだが、存分が存分過ぎたらしい。
腕時計の針は知らない内に五分前。
慌てに慌てて僕らは走りだした、というわけだ。
ヘトヘトになりながらも階段を一段飛ばしで駆け上がり、ギリギリの入場を僕たちは果たした。
反発力の高いシートに僕らは解けた緊張とともに身を雪崩込ませる。走っていたことで脈打つ心臓が、空調の効いた映画館の抱擁で急速に落ち着きを取り戻していくのがわかる。
僕たちは暗闇の中で、静かに映画を見始めた。
中程まで見て、思った。
この映画、つまらない。
このシーンは特にダメだ。
敵役が主人公を重要そうな施設内にお招きしてしまっている。これで、主人公が縛られていようものなら納得できないこともないが、主人公は拘束されていない。
正義感の強そうな主人公を自由な状態で自陣に迎えてしまうとは、迂闊にもほどがある。
敵役が自爆するのも時間の問題だろう。
もしお金を払って見ていたら金返せと言いたくなる映画だ。
まさかこんなにつまらない映画だとは。走った分の体力と焦ったことで摩耗した精神を返して欲しい。
彼女はがっかりしていないだろうか。自然と思い至った僕は、横目を使って左隣を盗み見る。
ーーー目の端に映った色は黄色だった。
はて、彼女は今日、黄色い衣服を身に纏っていたか。
最初に思ったことはそんなことだが、彼女の今日の服装を思い出したところで僕は、そんなはずはないと左を直視して気づいた。
彼女がいないことに。
代わりに僕の隣に座っていたのは、狐。輝くような毛並みを身に纏った、狐だった。
ふかふかに違いない長く太い尾っぽに自らの顔を埋め、スヤスヤ寝息を立てている狐。
直視して脳が、これは一体なんだと、叫び声をあげる。
見間違いだと思った。幻覚でも見ているんじゃないかと自分を疑った。
でもそれは、何度見返しても、これが現実だと言わんばかりに隣で眠っている毛玉が否定してくれる。
彼女の席は左隣ではなく右隣だったかーーーありえない事象を前に、そんな間違えるはずがないことを間違えたのではないかと考え、右隣を見る。
が、そもそも右隣には席がなかった。
そこまでやって、信じられないような事柄だけれども、自ずと導き出される結論は一つ。
月音さんが狐になった、ということ。
いやいやいや! 信じられない!
ファンタジーじゃないんだ。こんなことがあるはずがない。やっぱり自分は幻覚を見ているに違いない。
そう結論づけて、僕は現実味のない映画を、無意味な熱心さで見続けた。
もちろん、心の中では早口に、自己暗示を続けつつ。
上映が終わった時、恐る恐る左の隣席を見ると、大口を開けてあくびをする月音さんの姿に僕は戦慄を覚えずにはいられなかった。
目の前で伸びをするのは狐ではない。月音さんだ。なんて事のない、いつも通りの(眠そうだけど)横顔が僕の目にしっかり映っている。
「月音さんは、月音さんだよね……?」
「はい? そうですが、どうかしましたか?」
映画館の外へ出たとき思わず本人確認をしてしまったが、返事は普通のもの。「私、実は狐でした!」なんて言葉は返ってこなかった。
とすると、僕が見ていたのは幻だった、ということでいいのだろうか。
でもなぁ……。
「灯さん? どうしたのですか? 先ほどから思いつめた顔をしているようですが……」
「いや、なんでもないよ。ごめんね」
小首を傾げて僕のことを慮ってくれる月音さん。
彼女の心の暖かさに、僕は本当のことを言おうか言うまいか、迷った。
深く考えていたわけじゃない。
ただ、もし、本当に彼女が狐だった場合、どんな反応が返ってくるのか、またそれに、どんな反応を返していいのかわからなくて、不安だった。
そうして揺れる心内が顔に出ていたのか、彼女は眉尻を若干下げて僕の顔を窺う。
その優しい姿勢に僕の心はさらに揺れに揺れ。
結局、聞くことを決めた。
真相を突き止めることなく、今まで通りに過ごすこともできたけど、なんだかそれは、嫌だった。
「月音さん」
「なんでしょうか、灯さん」
言い出しやすいように相槌を入れてくれる彼女に感謝しつつも、体が緊張に引き締められる。
そうして生まれたわずかな沈黙に、街の雑踏から自分たちが切り取られたかのような錯覚を感じながら、やがて、僕は口を開いた。
「君は、馬鹿なことを言うかもしれないけど月音さん。君は、狐なの?」