正体。その一
「灯さん。前々から思っていたのですが、電車って、本当に乗れるんですか?」
「うん? 乗れるよ?」
「そ、そうですか……!」
ある日、いつものように山から僕に衝突してきた月音さんと散歩していた時。
駅周辺で彼女はそんなことを言った。
そうですか、としか言わなかった彼女だが、何度も振り返り、駅へとやって来た電車を見ていたから、おそらく乗りたいのだと思う。
月音さんの生き生きとした表情に僕はいつも元気をもらっている。僕は彼女の願いを叶えてあげたいと思ったが、おそらくストレートに言っても彼女は遠慮してしまうだろう。
そこで、僕はある作戦を思いついた。
と、言ってもなんてことはない。間違えて二枚買っちゃったから一枚あげるよ作戦だ。
が、しかしこの作戦は……。
「よく考えてみると、不審すぎる作戦だな……」
切符を間違えて二枚買う人なんて、いるだろうか。
往復切符でない限り、それは頭のおかしい人の行動だ。
訝しがられるのがオチだろう。
怪しまれるぐらいなら、もういっそのこと、君を電車に乗せてあげたいんだ! って言ってしまった方がいいのではないか。
……しかし、それもなんだかおかしいような……。
「ふうむ……」
思わず口からうなり声が零れ落ちる。
「うおっ!」
突如、ポケットに入っていた携帯電話に震撼させられた僕。
思わず声をあげて驚いてしまった自分がちょっと情けない。
携帯を取り出して見ると、そこには母さん名前が表示されていた。
「もしもし母さん? どうかした?」
『あっ灯、元気?』
「元気元気。で、どうしたのさ」
『もう、そんなに結論を急ぐことないじゃないの。あのね、映画の券が抽選で当たったんだけど、お母さんとお父さん、上映日には仕事が入ってていけないのよ。で、灯……」
「お母さんとお父さんと、って言ったよね!? ってことは二枚あるんだね!?」
『えっ? そ、そうだけど』
これだ!
喰い気味だったせいで多少で引かれたが、構わない。
二人で電車に乗る大義名分! これこそ僕が求めていたものだ!
お母さん、ありがとう!
僕は母に感謝の祈りを捧げた。
翌週の土曜日、彼女と遭遇した僕は、映画を観に行こうと誘う。
〇〇〇佐江視点〇〇〇
―――今日もまた、月音様が御殿から抜け出した。
これで一体何回目だろう。月音様が勝手に外へ出た回数は三十を下らない。
御殿にいる掃除係や、他山からやってくる使者の目を掻い潜っていく月音。そんな彼女と同じように、誰にも気づかれないようにして佐江は月音の後をつける。
今日も月音様はあの男と接触するのだろう。
灯だとか呼ばれていた男の、いったい何が良いのだか佐江にはよくわからない。
わからないが、そんなことは佐江にとって重要ではなかった。
大切なのは、月音が退屈せず、生き生きとしていることなのだ。
「灯さーん!」
月音の後をつけていくと、そこにいたのはやはり灯と呼ばれる男だった。
一応彼のことはそれなりに安全な人だと佐江は考えている。
何せ、今まで何十回も月音と行動してきたのにもかかわらず、彼には襲おうという挙動のかけらもない。
無条件に信じるわけではないが、それなりの安心感を佐江は彼に抱いていた。
と、同時に男なら、可愛い可愛い月音様にやましい気持ちをちょっとは抱け、とも佐江は思った。
もちろんそんなことを実際に思われると困るのだが。
しかし、不謹慎にもそんなことを思ってしまうくらい、これまで微塵も危うい気配を佐江は感じたことがない。
こうして佐江が後をつけているのは、他の脅威、すなわち不審者や変質者に襲われた時に助けるためである。
「私、『えいが』っていうのが楽しみです!」
佐江の顔が笑みに崩れる。
もう一つ付け加えておくと、月音の笑顔を見ることも、佐江が後をつける理由の一つに入っている。
彼女の不憫な幼少期を見てきた佐江からすると、月音がこうして生き生きとしている様子を見られるのはとても喜ばしいことなのである。
仲睦まじく歩く灯と月音。
そんな彼らを数十メートル後ろからつける佐江。
彼女は電柱と電柱の間を高速に、かつ音を立てずに移動し、右折路から様子を窺い、時には空のゴミ箱に潜んで彼らの後をつける。
佐江の尾行技術は無駄なレベルまで磨がかれていた。
洗練された尾行を前に、二人は今日も変わらず散歩する。
山沿いの道を抜け、田畑が広がる道に入り。
田畑の広がる道から、踏切を乗り越えた。
そうして到着した場所は、駅だ。
なお、ここにこうしてやってくることは四、五回目となる。
その時の慣習に従えば、もうここで折り返してくるに違いない。
そう考えて、佐江は引き返してくる二人に鉢合わせてしまわないよう、適当な道に曲がって控えた。
……が、しかし。
「来ない……」
彼らが折り返してくるのに、これだけの時間がかかろうはずはない。
何かあったのだ。
あの男が手を出したのかもしれない。
「月音様……! 私が油断したばっかりに!」
佐江は駆け出した。
空気中に残る月音の残り香を頼りに佐江は路上を蹴る。
激しく入れ替わる周りの景色を気にすることなく、歩く人を右に左に避け、佐江は駅の入り口に飛び込んだ。
しかし。
「……!」
急いで駅の外に佐江は身を隠す。
月音に問題は起きていなかった。月音と灯は駅のベンチに座って休んでいただけだ。
「ふぅ……」
勢いで月音様の名前を呼ばなくてよかった。
佐江は安堵に肩の力を抜いた。
取り返しのつかない事態に陥っていなかったのは幸運だった。
そう考えていずれここを通るであろう彼らに見つからないように、佐江は身を隠そうとした。
その時、耳を打った言葉が佐江を固める。
「じゃあ、そろそろ電車が来るし、行こうか」
「はい!」
……『電車が来るし、行こうか?』だと?
不審に感じた彼女は窓から彼らの様子を振り返り、月音と灯が家ではなく、あろうことか改札に向かって歩き出すのを目に収め、目を丸めた。
佐江は思った。
人が限りなく少ない場所に月音様を誘導し、奴は悪事を働くつもりだ!
思考の雷に打たれた佐江は、反射的に駅に突入していた。
今にもホームへ抜けようとする二人を、佐江は大きく飛翔して飛び越える。
改札を踏みつけた音が駅構内に響き、日常生活に似つかわしくないその大きな音は、人々の視線を奪った。
ざわざわしだした駅で、
「ついに本性を現しましたね! この野蛮人め!」
「佐江!?」
「佐江さん!?」
驚き顔の灯に、佐江は言い放った。否、驚いていたのは月音も同じだが。
その時の灯はなぜか赤くなっていたが、そんな彼を存在しないかのように無視した佐江は、
「月音様! 此奴は月音様を狡猾な方法で拉致しようとしています!」
その引き締まった顔から忠告の声を飛ばした。だが、
「佐江! これはそんなんじゃないよ! 一緒に『えいが』を見に行くだけなの!」
返ってきた言葉に佐江は頭を抱えた。
完全に、騙されきっている!
となれば、魔の手から月音様を救うのは私の最低限の使命だ。
母上秘伝のドロップキックで奴の意識を奪い、代々伝わる薬でもう記憶を消してやろう。
佐江が灯に向かって技を放とうとした時。
「あの、すいません。改札、壊れてるんですが」
「なんですか、あなたは! 私の邪魔をするというのなら、まずあなたから蹴散らしますよ!」
「改札、弁償してくださいますよね?」
「!?」
佐江の剣幕をものともせずにスルーした藍色スーツを着たかなり高身長な男性―――駅員は佐江に一枚の請求書を突き付けた。
それを映した黄色の瞳はふるふると揺れ始める。
「こっ、こんな大金は……!」
「え? 払っていただけますよね? どうして目をそらすんですか? えぇ?」
「そ、そんなことよりも! 私は月音様を」
「ちょっとこっちに来てください」
佐江が日ごろお付きとして月音の身を守るために鍛えているとはいえ、相手は男である上、かなりのデカさだ。力でかなうはずがない。
佐江はなすすべもなく、どこかにずるずる引っ張られていった。
二人は、「月音様ーー!」とか、「ついていってはなりませんーー!」だとか、叫んでいる佐江の姿が消えるまで、そのすがたを傍観していた。
突然の出来事を頭の中で整理する時間を数瞬置いたのち、灯は月音に聞いた。
「……月音さん、どうする?」
「………………行きましょう!」
「そうだね!」
割り切るように答えを出した月音と灯は壊れていない改札を渡る。
二人は電車に揺られて行った。