ある日。
山に不届きものがいないかの警備。
それが某の仕事だ。
足に伝わる柔らかな枯葉の絨毯を踏みしめつつ、あたりに注意を向けながら、歩む。
茂みの中を進む某は、しかし、眠気を感じていた。
不謹慎だが、本音を言ってしまえば面白みのないこの務め。いるかも知れない不審者を探しまわるのは、日々を重ねるうちに、実に意味のないことのように思えてくる。
足を止める。
「ふわぁ…………」
気が大きく緩んできた。
当然のように口から自然に出てきたあくびを自覚し、ただちに気を保ち直す。
初冬だというのに、どうして某はこんなにも眠いのだろうか。わからない。
日が暮れて始めているからか、木漏れ日は夕日の赤を足元に注いでみせている。
見回りの仕事は、もうすぐ終わりだ。もう少しだけ、睡眠は我慢しよう。そう考えて、某は止めていた足を再び動かし始めた。
ーーーそのとき、警戒が緩んでしまっていたのだろう。
ガサガサ音を立てながら、茂みを歩いていたのも原因だろう。聞き取るべき警鐘を聞き逃していた某は、肝を冷やすこととなる。
「ねぇ、お願いだから! どうしてあんな町外れにいたの? それも、月音ちゃんと二人で!」
「え、えっと、それは…………」
「どうして隠すの? やっぱり、やましいことが……」
「ないないない! この前も弁明したと思うけど、そんなことはないから!」
問いただす女と、狼狽えつつも否定を重ねる男の話し声。
驚いた某は、今ここにいることがバレてしまったのではないかと思い、逃げ出そうとした。
けれども、それは失敗に終わる。
聞き捨てならない単語。その音が、某の頭で意味にほぐされたからだ。
「月音、様?」
某の仕える姫君の名。聞き間違えではない。否、間違えようもない。
月宮家の未来を担う重要人物の名前を聞いて、人間が怖かったから逃げたなど言い訳しようものなら切腹ものだ。
たとえ真月様に報告しないにせよ、今某が姫様の名前を人間の口から聞いたことを黙っているならば、某の忠誠心は崩れ落ちてしまっているのと変わらない。
今すぐに逃げ出したいくらいに恐怖を感じていたのは事実であったが、某はその場に踏みとどまり、茂みの暗闇から男女の姿をうかがった。
依然として前進しない問答を続けている二人は、若者だ。
男は困り果てたように眉尻を下げているが、そんなことは関係ない。あんな優しそうな顔をしておいて、某ら同胞を毛皮一枚に変えてしまうのだから、まったく、人間は恐ろしい。
ともすれば、あのような人間と月音様の間に何かしらの関係があるとすれば、とんでもない一大事だ。
某は真月様に報告するために、耳をそば立てた。
〇〇〇 灯視点 〇〇〇
これは、まいった。
『灯、今日、どうしてあんな街はずれにいたのか、改めて聞いてもいい? どうしても聞きたくなっちゃって……』
乗り切ったと思っていた事柄を、亜紀はそんなふうに掘り返した。
話すことを渋る僕に、彼女は「何かやましい事でもあるの?」と、問いかけてくるが、それについてはしっかりと否定しておく。
別にやましいことがあるわけではない。僕が事柄を話すのに不都合な点は一切ないのだから。
ただ、それは僕に限っての話だ。月音さんが正体を隠していたことを思い出して欲しい。それが何を意味するのか、察してやれないほど僕は鈍感ではないつもりだ。
断固とした決意で拒み続けよう……。そう考えていた僕がまいったのは、亜紀がなかなか引きさがってくれないからだ。
「どうして話してくれないの?」
「それは、話せない理由があるから……」
もうかれこれ数分以上こんなことを繰り返している。
もしかしたら亜紀は変化の瞬間を見てしまったのかもしれない。そうだとすれば、ここまで聞いてくるのにも説明がついた。
僕が月音さんの正体を知った時もそうだったけど、人は得てして信じられないことは、すぐに信じようとしない。確認が取りたくなるものなのだ。
「逆に、どうしてそんなに知りたいの?」
なかなかにいい推論だとは思うけれど、確信はまだなかった。だから、探りを入れてみよう。反応から、何かわかるかもしれない。
そう考えて、亜紀に問いかける、と。
「へっ!? そ、それは、なんていうか……」
瞳をぱっと見開いたかと思うと、亜紀は視線を明後日の方向に向けて、口ごもった。
亜紀にも僕に隠していることがあるようだった。何を隠しているのかは気になるところだが、今はこの押し問答の収束が優先だ。
互いに言いたくないのなら。
「お互い様ってことにしない?」
必死に頭を回転させていた様子の亜紀にそう言うと、虚を付いてしまったのか、彼女は驚く。
やがて、微妙に納得いかない顔になった亜紀は、不承不承に頷いた。
亜紀は言いたくないことを言わずに済み、僕も月音さんのことを話さなくてよくなる。win-winの関係を取り入れたよい提案だと思ったのだけど、どうやらお気に召さなかったらしい。
「今日は、引き下がることにする。けど……、言えるようになったら、言ってね?」
亜紀はそんな言葉を残して帰っていった。
彼女の姿が塀に隠れるのを見届けて、ホッと息を吐く。ふと空を見上げてみれば、もうお月様が浮かんでいた。
それは、とても綺麗だったけど、数日前の満月と違って欠け始めていた。