正体その三。
「君は、馬鹿なことを言うかもしれないけど月音さん。君は、狐なの?」
映画館で僕の隣の席に突如出現した狐。
隣にいたはずの彼女と入れ替わるようにして現れたその毛玉は、たぶん、———僕が本当に幻覚を見ていないのであれば———月音さん本人だ。
真実に迫る問いを、僕は今、彼女に突きつけていた。
「っ……」
月音さんは、驚きの目で僕を見やり、何かを言おうとして、しかし、唇を噤んだ。俯く彼女の前髪はその金色の瞳を隠し、感情を拝ませてはくれない。
流れる川のように滞ることを知らない人々の歩みが、佇んでいる僕たちを浮き彫りにした。
僕は焦った。
踏み越えてはいけない一線。それを自分が侵したのではないかという不安。
広がり始めた負の波紋を必死で抑えながら、僕は彼女の答えを待った。
「……ごめんなさい」
街の音が溢れる歩道で、彼女のか細い声が耳朶を打つ。
え……?
どうして今謝罪が出てくるのかわからず、無理解が産声をあげた。
次の瞬間だった。
「さようなら!」
「え、待って……」
身を翻して月音さんは駆け出した。
彼女の背中が歩道を歩く人々に埋もれてしまう前に、僕はそれに倣う。
このまま別れてしまってはいけない。胸の内に刻まれた記憶がそう呻いていた。
「待って! 月音さん!」
彼女を追い掛けながら僕は必死になって叫ぶ。
だが、彼女の足は止まらない。手ぶらの彼女はスラスラと人の間を突き進んでいく。
……一歩踏み出すごとに跳ねる背中のショルダーバックがうるさい。
「煩わしい!」
追走しながら、僕は肩掛け鞄を抱え込んだ。
月音さんの背中が人の波に飲まれないよう疾走しつつ、僕は彼女と出会った当初のことを思い出す。
路頭で豆腐屋はどこかと途方に暮れていた彼女。通行人の少ない山際の道で、僕は声をかけられたのだったか。
思えば彼女が普通でないことを表す出来事は沢山あった。
簡単なお金の計算ができないこと。きつねうどんと聞いて顔を青くしていたこと。中学生であるにも関わらず、あまりにも世間知らずだった彼女。
深入りは良くないと、今まで踏み込まなかった僕だけど、今はもう、彼女の正体に確信を抱いている。
だとすれば、僕は彼女にどうして欲しいのだろう。どうして僕は月音さんを追っているのか。
そんなの、決まっている。
僕は彼女と一緒にいたいのだ。
街のお店は徐々に姿を消し、二車線道路のある通りまで月音さんの逃亡劇は広がりを見せている。
太陽の眼差しを分厚い雲が静かに遮り始める中、彼女と僕の距離はかなり縮まっていた。それこそ、もう少し、あともう少し近づけば手が届きそうなほどに。
「……っ!」
それでも月音さんは諦めない。
彼女は最後の足掻きとばかりに、歩道を渡ろうとした。
信号機の色は青色だ。ややフライング気味ではあったが、何も問題はなかった。
ただ、一つ問題があるとすれば。
遠くから見てもわかる重量感を纏ったトラックが、僕の目に映っていたことか。
巨体からは想像できないような速度で、トラックは横断歩道を横切ろうとしていた。
危ない。
重さゆえに、スピードを落とせず突っ込んできたトラックの絶叫に、彼女は、立ち止まる。
間に合え……!
僕は、彼女助けるために飛び込んだ。
反転する世界は容赦がない。僕は体のあちこちを殴打されたが、それが彼女に及ばないよう、僕は彼女をしっかりと抱きかかえた。
やがて、僕たちは道路の脇で静止した。
トラックの絶叫が、道の彼方に消えていく。
一時的に隠されていた太陽が、顔を覗かせた。
僕の腕の中で、儚げな瞳を晒す月音さん。横たわる彼女と僕の視線は混ざり合った。
「灯さん……。私……」
「僕は気にしないよ、月音さん。」
彼女を追っていた時に得た答えを、僕はしっかりと口にした。
「君が狐であっても、僕は月音さんと一緒にいたい。だから、関係ない! 君が狐でも、僕は変わらずあり続ける」
「ともる、しゃん……」
顔をくしゃくしゃにする彼女。
上を見る瞳が、喜びの涙を受けきれずに頬を伝った。
穏やかに、僕は微笑む。
彼女は静かに、僕の胸で涙を拭いた。
◯◯◯
目まぐるしく変化し続ける車窓の絵画を背に、月音さんと僕はポツンと、身を縮こませて座っていた。
僕たちは今、帰りの電車に乗っている。あのあと、街を回る気にもなれず、帰路についた。
行きでははしゃいでいた彼女も今ばかりは沈黙を守っている。
僕も彼女と同じように黙っていた。
いや、心内は荒れに荒れている。
恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい。
穴があったら入りたい……!
突然のことだったとはいえ、『君が狐でも僕は変わらずあり続ける』だなんて。あんな小っ恥ずかしいセリフを吐いてしまうなんて、僕は思ってもいなかったのだから。
ああ、思い出すだけで顔が沸騰してしまいそうだ。
あああああぁぁぁ……。
「灯さん」
「は、はい!」
突然の呼びかけに答え方が敬語になってしまった。
なんとか恥ずかしさを隠していたのに……!
と、そんなことを思う僕の内心に気づかず、彼女は助けられた感謝を口にした。
「先ほどは、あの、ありがとうございました。私……嬉しかったです」
小さく呟かれた最後の言葉が、心に染み入っていくのがわかる。
助けることができて、本当に良かった。
今更ながら、僕は実感した。
「改めまして、私は狐の月宮 月音です。これからも、よろしくお願いします!」
「こちらこそ、どうぞよろしく!」