彎(わん)
彎は、薄暗闇の中、何かを求めてひたすら歩いていた。
ここでは術すら使えず、ただ歩くよりなかった。
一瞬のうちにここへ飛ばされ、その時奴はこう言った。…黄泉への道…。
ここは、おそらくそうなのだ。自分は死んだのだろう。しかし、苦しむこともなく死に、それはそれで運があったと思っていた。
今にして思えば、自分の求めていたものは、これだったのかもしれない。彎はあてもなく歩を進めながら、自身がまだ人であった頃のことに思いを馳せた。
彎は、独学でやっと都の試験に受かった。
人であった頃、どうしても楽な生活をしたくて、必死で勉学に励み、獲得した地位であった。
そして宮仕えをし始め、彎は安定した生活を手にした。
しかし、役人というものは、思っていた以上に汚職に染まっていた。本来なら取り締まなければならない者でも、金次第で堂々と生きていた。
だが、彎にはそんなことはどうでもよかった。自分が巻き添えを食いさえしなければ、なんなりやってくれ、と言った考えであった。
そんな彎にも、妻子が出来て、穏やかに暮らしていた。
妻はとても美しく、よく気の利く女であった。
仮にそれが役人だからという理由であっても、彎はその妻を迎えられたのが誇らしかった。自分自身を愛してくれなどと贅沢は言わない。ただ、役人であれば、妻が家に居て、帰れば出迎えてくれる。
それだけが、彎にとっての全てであった。
ある日、宮へ赴くと、宮は大騒ぎをしていた。ここの管轄の長が、いきなりやって来るとの知らせが来たのだという。
この長は大変に真面目で義の塊のような人物で名高く、ここの汚職にまみれた役人達など、瞬く間に処分されてしまうと思われた。
役人たちは青くなって、必死で揉み消すことに終始していた。
そして、その長はやって来た。思った通り大変に厳しい様子で宮の中へ入り、連れてきた部下達に、書類をひとつひとつ調べさせていた。
彎は、密かにほくそ笑んだ。これであの役人達もどこかへやられるだろう。
緊張した宮の中の雰囲気は気にも留めず、彎が自室で仕事をしていると、同僚の鄭が辺りをうかがうように入って来た。
「彎!お前何を落ち着いている?お前がやったということになっているぞ!」
彎は立ち上がった。
「なんだって?!オレは何もしておらん。」
鄭は首を振った。
「知っている。多分みんな知ってるんだ。でも、お前に全部なすり付けようとしてやがるんだよ!早く逃げるんだ!刺殺されるぞ!」
彎は震えあがった。鄭は、彎に小銭の入った袋を押し付けた。
「これで、とにかくなんとか逃げ切れ!あの仙人の山って知ってるか?」
彎は窓からそちらの方角を見た。
「ああ。あれだろ?」
鄭は頷いた。
「そこに、オレの曽々々祖父が居るらしい。同じ鄭という名のはずだ。あそこで匿ってもらうんだ!」
彎は袋を握りしめた。
「わかった!ありがとう、鄭!」
彎は窓から抜け出し、一目散にその山へ向けて走った。妻子は、ほとぼりが冷めたら迎えに来ると心に刻んだ。
もう、都を出て何日経っただろう。
彎は、着きそうで着かないその山に気が萎えそうであった。鄭に持たされた路銀は底を尽き、このままではのたれ死ぬよりほかないのではないか…。そう思った時、彎は、どうせ死ぬならと、山に向かってまた走り出した。腹は空き、力は抜け、体は疲れ切ってぼろぼろであったが、このまま走りながら死んでも、仕方がない、自分は運が悪かったのだからと思って、ひたすら走った。
足の裏は擦り剥け、もう何がなんだかわからなかった。
自分の体が倒れて行くのをなんとなく感じたが、それでも彎は足を動かそうともがいた。地面が頬に当たって口の中に血の味が広がっても、彎はまだ走り続けようと足を動かした…。
気が付くと、そこはどこかの堂の中だった。
そばに火が燃えていて、自分は褥に寝かされている。気が付くとどこもかしこも傷だらけで、酷い有様だった。彎は状況が呑み込めず、しばらくそのまま呆けていた。
「気が付いたか。」
小さな老人が、そこへ入って来た。彎は軽く会釈をした。
「あなたが助けてくださったのですか…?」
相手は頷いた。
「主には根負けしたぞ。倒れて気を失ってもまだ足は走り続けようとしておった。それでここ十日見ておったが、とうとうここへ入れてやったという訳だ。」
彎は憤った。十日だって?!
「私は、ここに鄭という人を探して来たのです。私の友人が、自分の祖父であるから頼ればいいと言ってくれたので…。」
相手は、顔をしかめた。
「わしが鄭だ。」と背を向けて薪を取ると、火にくべた。「そうか…あいつもロクな死に方はせぬな。こんなことばかりしおって。」
彎は訝しんだ。
「どういうことです?」
鄭はしばらく黙ったが、言った。
「ここへヤツが人を送り込んで来たのは、主で五人目だ」鄭は言いたくなさげだった。「ここへ到達出来たものは、主が初めてだ。」
彎にはなんのことかわからなかった。
「え…それは…つまり?」
鄭はため息をついた。
「主以外は皆死んだ。わしがここへ入るに値しないと思ったものは、ここへは入れぬ。なぜならここは、仙人の修行をするための山で、それに耐えられない者、または資格のない者は入れぬのよ。入った所で、山の気に充てられてどうせ死ぬのだからな。」そして、彎の目を見た。「あの道楽者は、それを知っておる。自分の欲しいものがあったり、自分に不利なことがあれば、ヤツはそれを手に入れるのに邪魔なヤツを始末するために、罪を着せてここへ送り込むのよ。何か心当たりはないか?」
彎は頷いた。
「部隊長の視察があって、汚職の実態を掴むために宮を探索しておりました。私はその罪を着せられ、処刑されそうになったので、鄭に言われて逃げたのです。」
鄭は頷いた。
「そうであろうの。そんなことだろうと思っておった。」と立ち上がった。「どうするのだ?このまま帰ると言うのなら止めはせぬが、おそらく主はそこでは生活していけぬだろう。もしヤツに仕返ししたいと言うのなら、ここで仙人修行をすると良い。さすればその願い叶うであろうからな。」
彎は迷った。妻子のことを考えたのだ。しかし、妻子であれば、里が裕福なのだから、そこへ帰って世話をしてもらえるであろう。オレが帰ったら、逆に肩身の狭い思いをさせるかもしれない。
彎は決心した。
「鄭様。では、よろしくお願い致します。」
鄭は頷いた。
「長くなるぞ。主の力と努力次第じゃ。」
彎は日が経つもの忘れて修行した。鄭はとても良い師だった。大地の気を探って瞑想していると、自分がどれほどにちっぽけであるのか思い知らされ、またその力に畏怖した。
そうして何年も経つうち、たまに鄭の所に神が訪ねて来るのを見かけるようになった。
「神とも付き合いがおありなのですね。」
彎が言うと、鄭は驚いたように言った。
「主、神が見えるようになったのか。」
彎は逆に驚いた。そうか、今までも訪ねて来ていたが、オレには今まで見えなかったのだ。神が見えるようになった…。
「仙人に近付いたのでしょうか。」
鄭はそうとも違うとも言わなかった。
「…仙術を習い始めても、良い頃じゃろうて。」
鄭は、彎を伴って、今まで下りることを禁じていた地下の部屋へと降りて行った。そこは、たくさんの書物が集まる所であった。
「彎、これからここへ出入りすることを許そう。ここにはわしもまだ読み切れていない、先人達の残した仙術の数々が篭められているのよ。全部読み切るのは、おそらくわしにも無理であろうが、主もまた、自分にあったものを見つけることが出来るかもしれぬのでな。」
確かに膨大な量の書物であった。しかし彎は心が躍った。これで、あいつに仕返しすることも出来るかもしれない。
彎は毎日修行を終えるとそこへ篭った。時に鄭とも一緒に書物を読み漁ったのだった。
時間の経過が全くつかめないと思っていたある日、彎は鄭に、町へ行って香を買って来るよう言いつけられた。もはや軽く飛ぶことの出来た彎は、軽々と町まで出かけて行った。
町の様子がガラリと変わっている。また、人々の服装も、どこか派手やかな感じであった。彎は香を買うついでに、店主に話し掛けてみた。
「ここらは景気が良さそうじゃないか。」
店主は笑った。
「そりゃあね、大将。都も広がってここまでくりゃあ、活気も増すってもんよ。」
彎は驚いて尋ねた。
「都が広がった?いつ?」と怪訝そうな店主を見て、「いやいや、オレは田舎に長く引きこもってたんで、すっかりわからなくって。」
店主は頷いた。
「地方のかたですかい?そりゃあ仕方ねぇ。ここらはもう百年も前に都と繋がってねぇ。地方のかたは、ここが都だって思って帰ることもあるらしいんで。ですが、都の中心はもっと向こうですよ。」
彎は驚愕した。百年だって?!では…鄭はもう、死んでるじゃないか!
彎は水に移った自分の顔を見た。さして歳も取っていない。せいぜい十年ほど歳がいっただけのようなのに。オレが仙人になったばっかりに、時間の経過が全然わからなかったのだ!
彎は大急ぎで堂へ取って返した。
「師よ!これはどういうことですか!」
鄭は分かっていたかのように振り返った。
「…それが事実よ、彎。主は仙人になり、歳を取らなんだ。主が初めて神を見たあの時、既に五十年は経っておったのだ。」
彎はガクッと膝を付いた。なんてことだ。あいつに仕返しをするために頑張って来た…その時、影から妻子の姿も見れようかと思って…。
「彎よ、主はもう立派な仙人じゃ。もうあんな「人」のことは忘れて、仙人として生きるのが良いのじゃ。知らなくて良いことが、世の中にはあるものよ。」
彎は思った。妻子…その行く末だけでも知りたい。もう一度、町へ行こう!
立ち上がった彎は、意を決して歩いて行った。鄭はその背中に言った。
「彎!どこへ行く!」
彎は飛び立った。妻子のその後を確かめるために。




