将維
将維にとって、父は遥かな憧れであった。
人型で穏やかに居るだけでも、回りの臣下達を歯牙にもかけない強大な気を感じ、それが自身の父だと思うと、誇らしくあった。
臣下達が父を誉め讃えるのを聞くたびに、将維は嬉しく、またその偉大さに畏怖した。
それなのに、父は、少しもおごらない。
褒め讃える言葉を聞いても、面倒くさそうに横を向くだけだ。将維は、そんな父に気に掛けてもらいたくて仕方なかった。
父がいつも気に掛けているのは、母であるのだと気付いたのは、将維がまだ三歳の頃だった。幼い頃からうっすらと気付いてはいたが、父の目は、常に母を追っていた。母が自分を連れて庭に出て居ても、母が自分達に歌を歌ってくれていても、父の目は、常に母に向けられていた。
母はというと、自分達子供の世話、宮の行事、いろいろなことに立ち働いていて、父に視線を戻すのは、そんなことも一段落してホッとした時であった。父は母が自分に気付くと、いつも、とても嬉しそうな気を発した。側に寄ると、いつも大切そうに抱え、どれ程までに母を愛しているのかと、いつもいつも思っていた。
だが、母は時々留守にする事があった。月の宮の蒼のところへ行くのだと聞かされていたが、迎えに来るのは、月の十六夜だった。時に自分も共に連れて行ってもらい、十六夜は将維にもとても親切だった。将維は蒼のところへ母と出掛けるのを楽しみにしていたが、ある日、それを見送る父を振り返った時、将維は見た。
父は、やっぱり母を見ていた。その目には見たこともないような、物悲しい色をたたえて…。
将維は幼かったので分からなかったが、十六夜は母と、それは仲睦まじかった。そんなものだと思っていたのに、そうではなかった。十六夜は父と同じように母を見る。それが何を意味するのか、将維はやっとわかったのだった。
それから、将維は月の宮には行かなくなった。少しでも父の側に居て、何か出来ないかと考えるようになったのだ。自分は父の跡を継ぐ。ならば、自分が最強の龍になれば、父は喜ぶと思ったのだ。
ある日、珍しく父が一人で庭へ出て来た。将維は振っていた剣を鞘に収め、父の元に駆けて行って頭を下げた。
「父上。」
父は軽く返礼した。
「将維。今日も稽古か。」
将維は頷いた。
「はい。父上は接見はもう終わられたのですか?」
父は頷いて視線を庭の木々へ移した。
「うむ。今日は早よう終わったのでな。」
父の気はいつも安定しているが、今日はなんだか震えているかのようだった。将維はそれを問うべきか否か迷ったが、父と二人になることなどめったにないので、聞くべきだと思った。
「父上、何かあったのでしょうか?」
父は驚いたように視線を将維に向けた。将維はがんばってそれを受けた。父の目は自分と同じ色であったが、とても深く、なんでも見通しそうに思えたからだ。父は、ため息をついた。
「…そうか、主には読めるの。維月に似て勘が良い。」と歩き出した。「こちらへ来るがよい。」
将維はホッとして父について行った。父は少し離れた所にある横長の椅子に、座れと促した。そして、自分もそこへ座ると、言った。
「母と少し、争ってしもうた。我もたいがい頑固であるが、あれもそれを上回る頑固者であるゆえ。主は心配せずともよい。」
将維は少し心が痛んだ。父からは怒りの波動は感じられない。おそらく、後悔しているのだろう。
そして、かねてより思っていたことを、今聞くべきだと思った。
「我はいつも思っていたのですが、父上はどうして、母上を月の宮へ行かせるのですか。」
父は眉を寄せた。聞くべきではなかったのかもしれない。将維は少し後悔したが、そのまま父の方を向き続けた。父は言った。
「…あれは、月との取り決めであるのだ。主は共に行ったことがあるから、自然知ったのであろうの。」
将維は表情を険しくした。
「父上は全てご存じであられるのですね?では、なぜに月などに母上をお渡しになるのですか。我は…我にはわかりませぬ。」
父は、息子のませた様子に驚いた。子供であると思っていたのに、思ったより早く成長しておるのかもしれない。思えば、年の割に頭が良く回りをよく見ていて、黙ってはいるが、考えるところもあるのだろう。
「将維よ、母はな、父と結婚する以前に、もう月と結婚しておったのだ。」
将維は驚いた。
「え…。」
父は頷いた。
「父は、それでも母を諦められんかった。月は我の友人であってな。父が母を望んでいるのを知って、主を生む間との条件で、こちらへ来たのだ。」
将維はあまりのことに驚いた。
「では…しかし、明維や晃維も…。」
父は苦笑した。
「父の責よ。父は母を離したくなかったゆえ、母に無理を言った。そうすると母は、父の元に残ることを承諾してくれたのだ。月も、自分が会いに来るのを条件に、母を父の手元に置くことを許してくれた。ゆえに、今ここにこうしておるのよ。」
そう言う父は、とても寂しげだった。将維は、そんなことになっていたなんて、まったく知らなかった。父と母はとても仲の良い夫婦で、なんの問題もなく…。そんな表面上のことしか、本当に知らなかった。
「そんな、父上はとても母上を大切にされているのに!」将維は言った。「母上は…月を好いておるとおっしゃるのですか?」
維心は頷いた。
「母のことは、母にしかわからぬな。しかし将維よ、母は主達にとっても良い母であろうが。どれほどに主達を大切にしておることか。知らぬ訳ではあるまい。」
将維はハッとした。そう、母は乳母にだけ任せるのでなく、我らをいつも気に掛けて下さっている。将維が熱を出した時も、一晩中傍についていてくれた。手を握っていてくれた母の手の暖かさは、今でもはっきり覚えている。将維は母が、大好きであった。
「我は、母上がとても好きです。ですが、父上の事もとても好きです。なぜ、母上が父上だけの妃であってはいけないのでしょうか。十六夜は、我にもよくしてくれる。だから我も嫌いではなかった。でも、そんなことなら、とても十六夜のことも、普通には接しられませぬ。」
維心は驚いた。なんと正直なことであるのか。
「…将維よ、ここに至るまで、いろいろとあったのよ。主も大人になれば、月がどれほどに寛大な判断をしたのか、母がどれほどに我たちの間で苦しんだのか、わかるようになるであろうて。」
ふと、父は顔を上げた。遠く宮から出て来た辺りに、母が居て、きょろきょろと見回している。父はすぐに立ち上がった。
「誰かを探しておるの。では、将維。我はこれで戻る。」
将維も立ち上がって頭を下げた。
「はい、父上。」
父は大股だがゆっくりと母の方へ向かって歩を進めている。母はそれを見ると、ホッとしたような表情になった。父を探しに来たのは間違いない。
何やら母は父に言って、父を見上げている。父は頷いた。その途端、母は父に抱きついた。父は母を抱きしめると、自分がここに居ることなど忘れたかのように母に口付けた。母も、今父しか見ていない。父の、ホッとしたような、暖かい気が将維には感じられた。
父の幸福とは、母にあるのだ。将維はそれを知って、自分は母を守らなければと強く思った。
今日は、義心と剣の稽古の日だった。
本当は待ち遠しかったはずなのだが、蒼が訪問するとなると話は別だった。
蒼の気は穏やかで明るく、傍に居るととても安堵するような感覚がして好きだった。ただ、十六夜のことを知ってから、あまり里へ出掛けられなくなったので、蒼に会えなくなったのが、将維は残念でならなかった。蒼の姿を見かけると、将維は我慢できずに走って行った。
「蒼!」
蒼は、全然変わらなかった。背丈はやはり父ほどにあるので大きいが、その暖かい気は、母を思わせるようで、とても安心した。蒼は、母が人であった時の子であるという。思わずはしゃぐ自分が、なんだか気恥ずかしかった。
ひと時だけ話して、父に言われ、義心を探して訓練場の方へ将維は走って行った。訓練場に着くと、義心は将維を探しているのか、そこには居なかった。入れ違いになったのかと思って、将維はぶらぶらと訓練場の敷地内を歩き始めた。義心なら、気を探って自分を見つけるだろう。
訓練場は、運動場になっている更地の所と、その回りの岩山を生かした実践場に分かれていた。将維はまだ実践場には足を踏み入れて居なかったので、いい機会だとそちらへ飛んだ。
確かにボコボコとした足場に、突き出た岩などがあって、姿勢を保つのも難しそうだ。今はまだ、飛んでいる状態での訓練はしていないので、もし浮き上がって戦闘などになったら、自分など一溜りもない。
しかし、神々の戦は、だいたいが空中であるのだと義心が教えてくれていた。
将維は、宙に浮かんだまま、試しに剣を抜いて振ってみた。前に一度父が皆の前で宙に浮いて座興だと剣の相手をしていたのを見たが、まるで宙に立っているようだった。いつもの着物のままで甲冑も着けず、それでも軽々と兵たちをなぎ倒していく姿は、将維にとっても印象的だった。
「気を使う必要もないわ。皆もっと精進せよ。」
父の言葉を忘れられない。なのに我は、宙で剣を振ると、その剣に振り回されてバランスを崩す。この程度で、我が父の跡を継ぐなんて…。
将維はため息をついた。
義心が、将維を呼んでいる。
「将維様!こちらにおられましたか。お待たせしていまいました。」
義心は若い龍だが、部隊を率いているとても有能な武将なのだと父が言っていた。将維は義心の所まで下りて行った。
「義心、我は、剣もだが、今度は気の使い方も教えて欲しい。」
将維の真剣な顔に、義心は頷いた。
「はい、将維様。それでは、本日少しやってみましょうか。」
将維は頷いた。いったい自分の気がどれほどなのか、全く知らずに来た。我は気を読むのは得意だが、あの力を計れと言われるととても下手であるように思う。
義心は、やって見せた。
「あちらの的に向け、額の中心に力を入れて、手から力を出すのをイメージなさってください。我がやりますので、同じように。」
義心は、100メートルほど離れた的に向け、気を放った。的は、粉々に砕け散った。そして、横へ除けると、新しい的を手をかざしてまた用意した。
「さあ、将維様。試してご覧になってください。」
将維は頷いて手を前へ上げた。額の中心に少し力を入れる。そして、的を崩すイメージで気を放った。
一瞬、目の前が真っ白になったかと思うと、気は的に向けて飛び、その後ろの岩場まで破壊して砕け散って止まった。
何事かと、宮の方の窓から臣下達が覗いている。将維はびっくりして義心を見た。義心も固まっている。
「…そうでございました、将維様。的に応じて力を変えなければなりません。特に将維様は維心様のお血筋で大変に気がお強い。今も軽く放ってあそこまで吹き飛ばしてしまわれました。小さき的には、もっと力を絞られなければなりませぬ。」
将維はただ頷いた。驚いた。自分は気が強いのだ。知らなかった。父上ほどの気なら、我にも感じ取れて強いとわかるが、自分のこの気が強いのだとは思わなかった。
「…父上に叱られ申すな。」
粉々になった岩場を見て、将維は力なく言った。義心は笑った。
「そんなことはございませぬ。維心様は最初に気をお放ちになった時、ほんの少し力を入れられただけなのに、山二つ向こうまで粉砕なさったそうでございます。その時は近隣の神々にまで詫びねばならず、大変であったとお聞きしました。これぐらいではお怒りになりませぬよ。」
将維は、それはそれで気落ちした。父はやはり、越えられないのだろうか。
義心が、将維に申し訳なさそうに言った。
「…将維様、ですがあれの始末をせねばなりませぬ。少しお待ちいただいてよろしいでしょうか。」
将維は頷いた。自分のやったことだ。仕方ない。
義心があれこれ指図している間、将維はまたぶらぶらと浮き上がって宙を飛んでいた。少し安定してその場にとどまることも練習しなければ。
何度か試しているうちに、将維は自分の気で足場を作り、その上に立ってみたらどうかと思い当たった。やってみると、地上に居るように足場が固まる。
うまくいったのが嬉しくて、将維は歩く場所にあらかじめ先に場を作る事を試してみた。これがとてもうまくいく。踏み込む時もそうでない時も、前に後ろに場を作るとあっちこっち、宙を歩いているようで、それが楽しかった。
義心にそれを見せようと、名を呼ぼうとした時であった。
何かの力が頭から降って来て、将維は膝を落とした。そのまま落ちそうになった時、何かが自分を抱き止めたのが感じ取れた。
「将維様!」
こちらに気付いた義心が叫んですごいスピードで飛び上がった。が、すぐに落ちて地面に叩き付けられる。
何かは将維を抱えたまま、空高く上がって行った。
将維はそこで、気を失った。