敗北
彎が神達に命じて進軍させ始めた次の日、鳥と龍は動いた。
連合軍となって進んで来るそれは、恐ろしい気を孕んでいるのが遠くからでも見てとれた。
…なぜ、二種族だけであれほどの気になるのだ。
彎は訝しんだ。
そこには、二人の軍神が、軍を率いて人型で並んで宙に立っていた。その姿を見たこちらの神達は、意識がないにも関わらず、怯えて目を伏せた。赤い甲冑の方は鳥、青い甲冑の方は龍だった。二人は並んでこちらを見、話していた。鳥が言った。
「…ふん。なんだ大したことはないではないか。我が来るほどでもなかったよの。主がなんとかせい、維心。」
龍が呆れたように答える。
「炎嘉、だから我が一人でやると申したではないか。どうしても来ると言ったのは主よ。」
炎嘉と呼ばれた鳥は手を振った。
「ああなんでも我が悪いのよの。良いわ、主に任せる。だがここでぶつかると人に影響が出るのは避けられぬぞ。」
維心と呼ばれた龍はフンと鼻を鳴らした。
「分かっておるわ。さっさと済ませるゆえ。」
維心はざっと神達を見回した。と思うと、影に居た彎の前へすごいスピードで降りて来た。彎が驚いて身を引こうとすると、維心はその10メートルほど手前で宙に止まった。
「…主か。こやつらを操っておるのは。」
彎はたじろいたが、維心のその深く青い目を見据えた。目が合えば、それだけでも心に入り込めるはずよ!
維心はしばらく彎を見つめていたが、フッと笑った。
「…ほう、面白いの。我を操ろうてか。」と、わざとその目を離さず言った。「やってみよ!」
維心はみるみる巨大な龍身へと変化した。その目は変わらぬ色のまま、びりびりと身に伝わって来る気は、もはやそれだけで押しつぶされそうな勢いだ。激しく気は拡散し、回りの術に掛かっていた神達は、次々と我に返り出した。そして口々に叫び、ひれ伏した。
「おお!龍の王よ!」
彎は我知らずがくがくと震えている自分に気付いた。これほどの気を見たことはない。こやつは、ここの術に掛かった神達とはくらべものにもならない…。
彎はがっくりと膝を付いた。神を侮っていた。そうか、神にもこんな力の持ち主がおるのか。
炎嘉が、近くへ飛んで来て覗き込んだ。
「なんだ維心、つまらぬ。これで終わりか。」
維心はまた人型に戻った。
「あのな炎嘉。これは遊びではないのよ。」
炎嘉は意外にも頷いた。
「そうよの。こんな大層なことを考える輩は、消してしまうに限るわ。とっとと殺せ。」
なんでもないことのように、炎嘉はさらっと言った。維心は彎を見た。
ーー殺される!彎は一か八か必死で頭を下げた。
「申し訳ございませぬ!私は間違っておりました。何も知らぬ、無知ゆえにこのような事態を引き起こしてしまい…どうか、やり直す機会をお与えくださいませ!」
炎嘉が言った。
「要らぬ。主のような者、死んでも別に世は変わらぬわ。どうした維心?主がやらぬなら、我がやろうぞ。」
炎嘉が刀にも手を掛けず、指一本を彎に向けた。彎はたじろいた。あれでオレが殺せるなんて。
「待て、炎嘉。」維心が言った。「取るに足らぬような者の命、主の手を煩わすことはないぞ。」と、彎に手を翳した。「ではその力をもらう。これで主は何も出来ぬただの人だ。だが悔い改めて一から修行すれば、また仙人に戻れるかもしれぬわ。」
彎はびっくりした。また一から?そんなことは!
「お、お許しを!そればかりは…!」
維心は構わず頭の上から手で何かを吸い取って、まるで塵でも払うかのように捨てた。その瞬間、彎の体はガクンと重くなった。彎は喘いだ。この二百年の全てが…!
膝を付いて愕然としている彎に背を向けた維心は、炎嘉に言った。
「さて、帰ろうぞ。まったく詰まらぬ事件であったわ。」
炎嘉は慌てて維心に並んで飛ぶ。
「おい、宴を開こうぞ。酒が飲みたい。」
維心が面倒そうに答えている。
「我は酒はよい。主の宮でやるがいいだろうが。」
炎嘉は食い下がった。
「では我の宮で開くゆえ主は来い。ほれ、我の宮はこっちじゃ。」
「こら炎嘉!帰ると言っておるのだろうが、聞いておるのか!」
維心は炎嘉に腕を掴まれて西へ飛んで行った。
彎はその後ろ姿に歯ぎしりした。
覚えておけ…維心、炎嘉!必ず、必ず期を見て、主らに目にもの見せてくれる!
彎はこの六百年、力を貯めて機会を待ち続けて来た。そして、それはふいに空からやって来た。
月の来訪があるとは、彎も思わなかった。
そしてそれは、なんと素直に自分の話を聞く。何も知らぬのだと言っていたが、確かにそうなのだろうと思えた。
彎にとって、月は未知のものであった。しかし、自分の言霊が効くのではないかと思い、慎重に少しずつ、時間を掛けて術を掛けて行った。確かに最初はびくともしないので、それが効かぬのかと思っていたが、年数を経て行くうち、月が少しずつぼーっとしているようなしぐさをする時があった。
彎は心の中で歓声を上げた。月がわしの術に掛かろうとしている!
その利用用途は多岐に渡り、もちろん間違いなく維心にも炎嘉の子孫にも復讐をすることが出来る。彎は、ここ600年の間に感じたことのない喜びを感じた。
これで、わしはやっと維心に復讐を…。
黄泉の道をさまよいながら、彎はそこまで思い出し、違和感を感じた。
維心に復讐したかった。それは600年前に神を牛耳ろうとした自分を、いとも簡単に、しかもそれまでの力を全て奪うという方法で阻んだからだ。
では、最初に神をもしのぐ力を持とうと思ったのはなぜだったろう…。
妻子の復讐をしようとする自分に、師の鄭が人の世に関与してはならない、神に罰を受けると言ったからだ。
彎がしたかったのは、妻子の無念を晴らすことであった。しかし鄭を使ってそれを成し遂げた時、自分には力のほかに何も残らなかった。何をすればいいのかわからなかった。妻子のいない世に、復讐を遂げてもまだ悲しみしか残らなかった。
そんな虚しさを、自分は力を行使することで忘れようとした。誰かが自分を殺してくれれば、きっと楽になれる…。そんな思いでいたのかもしれない。
おおよそ普通の神も仙人も考え付かないことをやったのも、自分にはもう、怖いものなどなかったからなのかもしれない…。
そして、あの時維心に対峙してみれば、死は思ったよりずっと怖かった。自分は臆病ものだったのだ。それを認めたくなくて、自分はさらに維心を恨むことで紛らわそうとしていたのだ。
月には、それが分かっていたのかもしれない。
時に同情めいた気の流れを感じ、居心地悪かったのはそのせいだったのか。
彎は、月に悪い事をした、と思った。あれには何も落ち度はない。自分と話すことを選んだ他には。
遠く向こうの端に、何かの気が二つ降り立ったように感じた。
無限に広がるかに見えるそこで、彎が初めて感じた他の何かの気であった。自ずとそちらへ向けて足を進め、彎はその気の正体を知った…。
十六夜と維心は、そこへ降り立った。
維心が作った道に入ると、そこは薄暗く、何もない空間だった。
「これは我が通常作る道とはまた違うのだ。」と維心は言った。「我が作るのは、言わばいきなり黄泉への直接の門であるが、ここはその門へとつながる道になっておる。ここに居るものは、まだ戻ろうと思えば戻れぬこともないのよ。ただ、人は黄泉へ焦がれる。なぜならそこは、安住の場であることがほとんであるからだ。」
十六夜は頷いた。そうか、ここが維月や蒼が行った場所なのか。ここから二人は戻って来たのだな。
維心は続けた。
「だがな、門の向こうへ行ってしまえば、もう戻る方法はない。維月が一度死んだ時、もうあちらへ行っておったのだ。だから若月の命がなければ戻って来ることは出来なかった。これが黄泉がえりだ。だがの、これが出来るのは、今のところ我だけだ。」そして歩き出した。「しっかりと付いて来るのだぞ。ここは我でも道を見失のうたら、戻れぬ所だからな。」
十六夜は頷いて、維心の背を追った。
そう歩かない間に、維心は歩を止めた。前方から近づいて来る人影がある。維心はそれを睨み付けた。
「彎よ。」
相手は驚いたように二人を見た。そして、諦めたように何度も小さく頷いた。
「わしを地獄へ落としに来たのだな。」
維心は頷かなかった。
「地獄などというものはない。それぞれの生きて来た道に相応しい報いを受けねばならぬ地であることもあるし、安住の地であることもある。人が言うように極楽と地獄などと二つきりな訳などあるまいが。」
彎はただ頷いた。維心が手を上げると、大きな扉が開いたような、四角い空間が口を開けた。向こう側は黄昏時のように光、それが門であることは十六夜にも分かった。彎はそこへ行こうと手を掛けたが、振り返って維心に言った。
「維心よ。今更主に願うことなど出来ぬのはわかっておる。だが、わしが知っていた者が、どこへ行ったのか見ることは出来るか。」
維心は無表情だった。だが、答えた。
「見ることは可能だ。だが、なぜ我が主の頼みを聞かねばならぬのか。」
最もな答えだった。彎は下を向いて頷いた。
すると十六夜が、維心に言った。
「維心、見せてやってくれねぇか。」維心も驚いたが彎も驚いて十六夜を見た。「どうせもう同じ所には行けねぇんだろうから、最後にな。」
維心は黙っていたが、彎に言った。
「名を、述べよ。」
彎は慌てて向き直った。
「鈴明と公明だ。」
「主の縁か?」
維心がなお無表情に訊く。彎は頷いた。
「妻と子だ。」
維心は少し驚いたように眉を上げたが、しばらく目を閉じた。そして目を開けたかと思うと、指差した。
「そこに。」
急いで後ろを振り返ると、いつの間にか背後に大きな光り輝く明るい門があり、そこには妻と子が立っていた。彎は思わず駆け寄った。身が軽い。体はあの頃の状態に戻っていた。
「彎様!」
妻が呼んでいる。彎は妻に触れようとしたが、門の中に手は入らなかった。彎はそれでも、妻の名を呼んだ。
「鈴明…!」
「父上!」
小さな息子は、まだ五歳ぐらいであった。将維と同じぐらいだなと維心は思った。それにしても、あの幼さで黄泉へ逝くとは。
「公明…さぞや恐ろしかったであろうな。主達を守り切れなかった。父の責任だ。」
妻は泣いて首を振った。
「彎様…我らはそのようなこと、少しも思っておりませなんだ。ただ彎様がお苦しみになっておられるのが見え申して。それだけがつらかったのでございます。」
彎は泣いてその門の向こうを見た。明るく暖かそうで、きっと今は安らかに幸福であるのだ。
「わしはこれで何も思い残すことはない。あとは罪を償って逝くのみよ。」彎は維心を振り返った。「心から礼を申す。わしには今これらが幸福であるか否かが、一番知りたかったことであったのでな。わしは目的を見誤っていた。本当は何より、こやつらに会いたかっただけであるのに…。」
維心は黙っている。十六夜は微笑した。
「フン、まさかこれも嘘なら、オレは人を信じられなくなっちまったと思うぜ。お前はな、妻子を無残に殺されて、その恨みで狂っちまったんだよ。もう我に返っただろうが。」
彎は涙も拭かずに頷いた。
「十六夜よ。主は本当に懐が深い。わしは主に、なんてことをしてしもうたのか…真に大きなものとは、やはり月なのであろうの。」
十六夜は眉を上げた。
「…そうか?オレはお前が嫌いじゃなかった。術に掛けられた後だってそうだ。もしオレが騙されて維月と蒼を残虐に殺されたと知ったら、お前ごときでなかったと思うからな。おそらく我を忘れて、全てを滅ぼしちまっただろうよ。しかしお前は運がいい。死ねるんだからな。」
彎はびっくりしたが、十六夜が大真面目であるのを見て、少し考えたが頷いた。
「そうだ、わしは死ねる。罪を償って、また妻子と出会えるかもしれぬものな。」彎は妻子を振り返った。「わしは逝く。いつかまた会えるかもしれぬて。」
「彎様…!」
二人は泣いて手を伸ばそうとした。しかし、やはり何かに押し返されてこちらへは手を伸ばせない。彎は微笑んで、維心が自分の為に開けた門へと歩み寄った。
中は、妻子の所と比べて幾分寂しい感じがしたが、思っていた地獄ほど悪いところでもないようだ。彎はもう一度妻子を振り返り、そこへ足を踏み入れようとした。
『待て』声が飛んだ。上からだ。『ほんに維心よ、主は融通の利かぬ。』
皆がいっせいに見上げた。そこには甲冑に身を包んだ、維心によく似た武将が立っていた。維心が仰天して叫んだ。
「父上!」
張維がそこに、立っていたのだ。




