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5分前に始まった天国

掲載日:2026/03/23

ただいま、と声に出しながら玄関のドアを開けた。


いつもと同じ力加減で扉を開ける。

いつもと同じ、我が家の匂いがする。

いつもと同じ場所に靴を揃える。


「おかえり」


家の奥から夫の声がした。

少し遅れて、娘の足音がぱたぱたと近づいてくる。


「ママ、おかえり」


小さな手を広げながら走り寄って来る娘に、反射的に頭を撫でる。


やわらかい髪の感触。

体温。

ちゃんと触れているはずなのに、どこか遠い気がした。

まるで、薄い膜越しのような…。


リビングに入ると、いつも通りだった。


テーブルの上には、まだ湯気が立つ飲みかけのコーヒー。

カーテン越しの光が柔らかく差し込んでいて、きらきらしている。


涙が出そうなほど穏やかな日だ。

まるで、日常の天国みたいだった。


特別な奇跡があるわけじゃない。

なのに愛しくて、胸がきゅっとなるような空間。


ずっとこのままでいて欲しい…。


けれど、どこか違和感があった。


なにか掴めないような、不思議な感覚。


疲れているのかもしれない、と自分に言い聞かせて、

鞄を置いてふと目線を上げると、写真立てが目に入った。


この写真立ては、夫と二人で選んだもの。

中の写真は、家族で一緒に家の前で撮ったもの。


しっかりと記憶がある。


埃が少しだけ積もっている。


しっかりと、記憶がある。


……本当に?


ポトリと胸に落ちた一滴の違和感は、静かに広がっていく。


……昨日の記憶もちゃんとある。

この写真を撮った日のことも、ちゃんと覚えている。


……本当に?


なぜか不安は消えることなく広がっていく。


なにか、今の私は夢の中にいるような…。


そんな馬鹿げた考えが頭を占めていく。


夢の中で、夢だとどうやって気づけばいいの?


写真立てを手に取ると、不意に涙がこぼれ出した。


止めようと思っても、ボトボトと涙が止まらない。


頬を流れる涙が、あたたかい。


少し遠くで、夫と娘の笑い声が聞こえる。


ちゃんと聞こえているのに、どこか輪郭が薄い。


どうしてだろう…。


こんなに幸せなのに。


そう、幸せで、まるでここは天国みたい。


それなのにどうして私は、この写真を見て涙が止まらないんだろう。


どうしてこんなに懐かしいんだろう。


どうしてこんなに胸が苦しいんだろう。


ここはまるで――


その瞬間、胸の奥で何かがほどけた。


音が遠くなった。

色が薄くなった。

空気が静かになった。


夫と娘の気配も、笑い声も消えた。


部屋がほどけていく。


光に満ちていく。


頬を流れる涙の温度だけが、やけにリアルに感じられた。


この涙だけは、本物だと思った。


気がつくと、静かな場所に立っていた。


風もない。

音もない。

やわらかい光だけがあった。


遠くに、人影が見えた。


その隣に、小さな影がある。


ゆっくりと近づいてくる。


見間違えるはずがなかった。


夫と娘が、手を繋いで歩いて来る。


今度は、輪郭がはっきりしていた。


触れていないのに、そこにいると分かった。


夫が笑った。


「やっと気づいてくれた…」


娘が手を振った。


「ママ」


涙がこぼれた。


あたたかかった。


そう、ここはあまりにも穏やかだった。


穏やかで優しくて、

愛に満ちた日常が続いていた。


あまりにも天国だったから、


私は気づくのが遅くなってしまった。


「おそくなって、ごめんね」


頬を流れる涙が、あたたかかった。


世界五分前仮説という思考実験から考えたお話です。

世界が5分前に作られたとしたら?

記憶や過去と思っているものは、本当に存在していると言える??

もし死後の世界があるとしたら、

それは本人の記憶や観念で作られた世界なのかもしれない、と思いました。


読んでくださってありがとうございました٩( ᐛ )و!!!

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