5分前に始まった天国
ただいま、と声に出しながら玄関のドアを開けた。
いつもと同じ力加減で扉を開ける。
いつもと同じ、我が家の匂いがする。
いつもと同じ場所に靴を揃える。
「おかえり」
家の奥から夫の声がした。
少し遅れて、娘の足音がぱたぱたと近づいてくる。
「ママ、おかえり」
小さな手を広げながら走り寄って来る娘に、反射的に頭を撫でる。
やわらかい髪の感触。
体温。
ちゃんと触れているはずなのに、どこか遠い気がした。
まるで、薄い膜越しのような…。
リビングに入ると、いつも通りだった。
テーブルの上には、まだ湯気が立つ飲みかけのコーヒー。
カーテン越しの光が柔らかく差し込んでいて、きらきらしている。
涙が出そうなほど穏やかな日だ。
まるで、日常の天国みたいだった。
特別な奇跡があるわけじゃない。
なのに愛しくて、胸がきゅっとなるような空間。
ずっとこのままでいて欲しい…。
けれど、どこか違和感があった。
なにか掴めないような、不思議な感覚。
疲れているのかもしれない、と自分に言い聞かせて、
鞄を置いてふと目線を上げると、写真立てが目に入った。
この写真立ては、夫と二人で選んだもの。
中の写真は、家族で一緒に家の前で撮ったもの。
しっかりと記憶がある。
埃が少しだけ積もっている。
しっかりと、記憶がある。
……本当に?
ポトリと胸に落ちた一滴の違和感は、静かに広がっていく。
……昨日の記憶もちゃんとある。
この写真を撮った日のことも、ちゃんと覚えている。
……本当に?
なぜか不安は消えることなく広がっていく。
なにか、今の私は夢の中にいるような…。
そんな馬鹿げた考えが頭を占めていく。
夢の中で、夢だとどうやって気づけばいいの?
写真立てを手に取ると、不意に涙がこぼれ出した。
止めようと思っても、ボトボトと涙が止まらない。
頬を流れる涙が、あたたかい。
少し遠くで、夫と娘の笑い声が聞こえる。
ちゃんと聞こえているのに、どこか輪郭が薄い。
どうしてだろう…。
こんなに幸せなのに。
そう、幸せで、まるでここは天国みたい。
それなのにどうして私は、この写真を見て涙が止まらないんだろう。
どうしてこんなに懐かしいんだろう。
どうしてこんなに胸が苦しいんだろう。
ここはまるで――
その瞬間、胸の奥で何かがほどけた。
音が遠くなった。
色が薄くなった。
空気が静かになった。
夫と娘の気配も、笑い声も消えた。
部屋がほどけていく。
光に満ちていく。
頬を流れる涙の温度だけが、やけにリアルに感じられた。
この涙だけは、本物だと思った。
気がつくと、静かな場所に立っていた。
風もない。
音もない。
やわらかい光だけがあった。
遠くに、人影が見えた。
その隣に、小さな影がある。
ゆっくりと近づいてくる。
見間違えるはずがなかった。
夫と娘が、手を繋いで歩いて来る。
今度は、輪郭がはっきりしていた。
触れていないのに、そこにいると分かった。
夫が笑った。
「やっと気づいてくれた…」
娘が手を振った。
「ママ」
涙がこぼれた。
あたたかかった。
そう、ここはあまりにも穏やかだった。
穏やかで優しくて、
愛に満ちた日常が続いていた。
あまりにも天国だったから、
私は気づくのが遅くなってしまった。
「おそくなって、ごめんね」
頬を流れる涙が、あたたかかった。
世界五分前仮説という思考実験から考えたお話です。
世界が5分前に作られたとしたら?
記憶や過去と思っているものは、本当に存在していると言える??
もし死後の世界があるとしたら、
それは本人の記憶や観念で作られた世界なのかもしれない、と思いました。
読んでくださってありがとうございました٩( ᐛ )و!!!




