後編
三匹目の放し飼いのトラ猫
学生時代。
どうにも折りが合わない親たちのもとを離れ、私は家賃のやすい古いアパートで1人暮らしを始めた。
特に不自由は無いけれど単調な毎日。しかし学費と生活費を自分で工面しなければならず、アルバイトの掛け持ちなどで心身はとても疲弊していた。
趣味といえば金のかからない読書くらい。本も図書館で借りてくるのが常だった。
ある晩、窓の薄いガラスがコンコンと叩かれているのに気付いた。
見ると、叩く或いは引っ掻いているのは猫だった。おそらく雑種で首輪も無い。どこにでもいそうなトラ猫という感じだが、顔立ちはなかなか端正だ。
「なんだ、開けて欲しいのか?」
私が開けると、猫は堂々と入ってきた。私の顔を見て何か訴えるように鳴く。腹でも空いているのかと、ミルクやらソーセージやら色々出して見るが、見向きもしない。空腹では無いらしい。
猫はまず六畳間の私の部屋をゆっくりと一周して、私の顔をみてミャーミャー鳴いた。
困惑していると、次にキッチンへ行きまた一周した。
そして部屋全部周りきり、また窓辺へ戻って今度は外に出せと訴える。
窓を開けてやると、猫はこちらを振り返って「ご苦労」とでも言うかのようにニャッと一声鳴いてから夜の闇に消えていった。
その日から、毎晩同じ時間にその猫はやってきた。
行動はいつも同じ。部屋を巡回し、私の顔を見てミャーミャー鳴き、帰っていく。
私が転居するまでの半年後まで毎晩それは続いた。
その間、何を用意してやっても何も食べなかった。
「猫の縄張り巡回ルートになってしまっていたのかな、あの部屋」
後年、猫好きの女友達にその話をした。
「違うよ」
彼女は半ばあきれて笑いながら言った。
「その猫が気にしていたのは、縄張りじゃなくてアナタだったんだよ。猫が心配するくらい、孤独で寂しい顔していたんでしょう?」
猫に心配してもらう程、酷かったのか。それは人として悲しい。
でも、だったら何か食べてくれれば良かったのに。食べる姿が見たかったな、と思った。
必死にニャーニャー話しかけてきていた猫の顔を思い出して、私は小さく笑い返した。
四匹目の太った黒猫
社会に出て数年。私は営業会社で数字に追われる毎日だった。
その年の年度末、私は郊外の高級マンションのエントランスで呆然と立ち尽くしていた。ほぼ決まりかけていた大口契約が他社の横槍でキャンセルとなったのだ。約束の時間に訪問したが、相手は会ってもくれず門前払いを受けてしまった。
今までに費やした何十時間ものやり取りを一言で覆す相手の身勝手さに唖然とし、競争相手の狡猾さに震えた。私はまだ青く脇が甘い若僧だと思い知った。
酷く傷付いたが、しかしまだ若さなりの気力とパワーがあった。
せっかく来た高級住宅地だ、ドタキャンの埋め合わせに片っ端から飛び込み訪問してアポの一つでも取ってから帰ってやろうと思い立った。
そんなもので契約が取れる可能性は低い。まして予定していたのと同等の大口契約に繋がる可能性など0に近いだろう。
これはむしろ契約を取りたいのではなく、自分に苦行を課すような気持ちだった。
よし、やるぞ。あのポストに猫のマークが入っている家からだ。
猫などというデーモンを飼うくらい博愛精神があるのなら、必死の営業マンの話くらいは聞いてくれるかもしれない。私は身だしなみを整えて、インターホンを鳴らした。
不思議な縁なのか、どういう事か。
家にいた御夫妻は、私のライバル会社と契約している資産家だった。なるほど、私の案件をひっくり返したやり手の奴がこの辺りを回ったわけか。
別に当社に切り替える等の話ではありませんので、よろしければ第三者的視点で内容をチェックしてみましょうか?私は巧みに持ちかけて入り込む。
リビングに通される。
当然、御夫妻はいきなり来た私に半信半疑。
まだ全く心は許していない。まあ次回のアポでも取れればいいさ。
しばらく話していると、奥からまるまる太った黒猫がやってきた。
黒猫はしばらく私を見定めるように眺め、ゆっくりと近づいた。
そして、膝の上にひょいっと飛び乗って、あろう事かそのまま眠ってしまった。
驚いたのは御夫妻だった。
「この子は他人に懐かないのに」
「貴方、いったいなんの手品を?」
笑いながら顔を見合わせる。
「いや、体質でして」
私も笑顔で切り替えす。子猫やクリスやアパートに訪問して来た猫たちを思い出しながら。
しばしの猫談義、私達はすっかり打ち解けてある意味本音で話せるようになった。
私は飛び込み訪問の理由、ドタキャンや猫のポストを見てここにしようと思った事もあけすけに話し、また御夫妻は笑った。
まさかの展開ではあったが、その後御夫妻は私の会社と契約してくれた。最終的にはドタキャンされた契約を上回る成果になった。
あの黒猫、私に利を得させて魂でも奪うつもりだったのか。油断ならない奴め。
膝の上でずいぶん気持ち良く眠っていたな。
小さな寝息とあたたかな重さが懐かしい。
五匹目のブチ地域猫
どうやらデーモンの能力を持つ猫は、人が不安だったり、孤独だったり、弱っていると寄ってくるようだ。
それは長年、人間と寄り添って生きて来た彼らの持つ特殊な能力なのかもしれない。
彼らは小さくて無力だが、その魅了の力は計り知れない。くれぐれも、くれぐれも心許さぬように。
ああ、最後の五匹目はどうしたかって?
うん、それは昼休みに私がベンチに座ってコーヒーを飲んでいると寄ってくる小さな斑の地域猫でーーいまは私の隣で呑気に眠っているようだ。
おしまい。




