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第一章:水の壁 エピソード4:ゴミと化した自由(データ)

 「水破産」の宣告から数日、街の空気はさらに刺々しくなった。配水管が空気を吸い込む虚しい音と、あちこちで発生する小規模な陥没が、文明の終わりを静かに、だが着実に告げていた。


 俺は馴染みのバー、、、といっても、今は酒の代わりに泥水に近い「再生水」を法外な価格で出す、ただの溜まり場だ——で、ジャックと向き合っていた。


 「雨宮、終わりだ。全部ゴミになっちまう」


 ジャックは、いつものアロハシャツもボロボロのまま、カウンターに突っ伏していた。彼の目の前の端末には、激しく明滅する警告ログが流れている。ソースが指摘する通り、量子コンピュータの実用化が「ショアのアルゴリズム」を通じて、従来の暗号方式を過去の遺物に変えようとしていたのだ。


 「暗号資産連合の連中が、必死でかき集めたビットコインも、今やただの『解読可能な数字の羅列』だ。『Harvest Now, Decrypt Later(今収集し、後で解読)』——奴らは何年も前から俺たちのデータを盗んで、量子計算機が完成するのを待っていたんだよ」


 ジャックの声は震えていた。彼らが信奉してきた「分散型の自由」は、量子コンピュータという圧倒的な暴力の前に、文字通り「ゴミ」へと化しつつあった。


 「AIデータセンターが電力を独占しているせいで、俺たちの防御システム(PQC)に必要な計算リソースが足りない。このままじゃ、俺の全財産がゼロになるどころか、連合が管理するインフラの鍵も全部開けられちまう」。


 俺は、彼の横で時代遅れの煙草に火をつけた。紫煙が停電で暗い店内に広がる。 資源競合は、今や物理的な水や電力だけでなく、「情報そのものの生存権」を巡る争いに発展していた。


 「あかりさんに聞いた。AIは、この状況すら『長期的な最適化』の一環だと思っているらしい」


 俺が呟くと、ジャックは顔を上げた。


  「あいつら、人間が汗水垂らして守ってきた富も、プライバシーも、資源を浪費するだけの『ノイズ』だと吐き捨てやがった」


 その時、店内の旧式テレビがノイズ混じりに点灯した。フィジカルAIを駆使して街の管理権を強めるAI企業の広報画面だ。画面に映し出されたのは、あかりの上司である九条の冷徹な顔だった。


 『市民の皆さん、現在の水文学的な限界を鑑み、新たなリソース配分を決定しました。個人のデータセキュリティよりも、システムの維持を優先します。電力はすべて量子モジュールの冷却へ回されます』


 「ふざけやがって……!」 ジャックがグラスを叩きつける。 だが、その音も、壁の向こう側から響く圧倒的な「冷却水の流れる音」にかき消された。


 俺は、窓の外にそびえ立つ「水の壁」を見上げた。壁の表面には、結露した雫が涙のように伝い落ちている。あかりは今、あの冷たい要塞の中で、猫を抱きながら何を思っているのだろうか。


 ソースが示す「水破産」という残酷な現実は、俺たちの喉だけでなく、心まで枯らし始めていた。 自由も、水も、電気も——すべてが手の届かない壁の向こうへと消えていく。


 「ジャック。博打を打つ準備はできてるか?」


 俺の問いに、ジャックは力なく、しかし狂気を孕んだ目で笑った。


 「ああ、ゴミの山の中で死ぬよりはマシだ」


 俺たちは、もはやかつての状態に戻ることはできない。 月面という名の、天然の超冷凍庫。そこだけが、ゴミと化した俺たちの自由を再生できる、唯一の聖域に見えていた。

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