体験学習 その後
*
数ヶ月後。
「私の名前は……伊佐川稚愛、です。学年は、中学校の三年生、です。ママ……じゃなくて、お母さんの名前は、伊佐川瀬良です。お家の場所は……あの、えっと……。電話番号、は……」
鼻詰まりで抑揚のない、ブツブツとつぶやくような女の声。
娘のたどたどしい自己紹介を、母親は静かに聞いていた。
「うーん、まだダメね」
「うぅ……む、難しい……」
「自分のことを話せないと、迷子になった時困るでしょ? これじゃあ、お家の外には出してあげられない」
「えぇっ……。そ、そんな……お願いしてる、のに……」
「ごめんね、稚愛ちゃん。諦めて」
とある一軒家の一室。ベッドの縁に腰掛ける娘と、寄り添う母親。
母親に諭されると、娘はひどく落ち込んでいた。
「だ、だったら、ずっと手を繋いでるからっ。ほら、この前のお祭りの時、みたいにっ。ママと、ずっと手を繋いでいれば、迷子にならないかも」
「たしかに、あの日はそうしてたけど……あなた、逃げたじゃない。私がトイレに行ってる隙に、どこか遠くへ」
「そ、それは……その……」
「だから、信用してないわ。あなたはもう、自己紹介ができるようになるまで、外には出さない」
「や、やだ……。出たい。外にっ」
そばにあった、ウサギさんのぬいぐるみを抱きながら、娘は母親に抗議した。しかし母親も、それに応じる素振りを見せず、頑なに拒否していた。
「そうねぇ……。お部屋の外なら、少しは出てもいいけど」
「お家の外は? わたし、お家から出たいの」
「ねぇ、稚愛ちゃん。そこまで外の世界にこだわる理由は何? ここにいれば、私が全て面倒を見てあげるのに」
「え、えっと……それは……」
「うん?」
「つーくん……。じゃなくてっ!」
「ふふっ」
「が、学校とか。行って、勉強しないとだしっ。わたし、中学生だから」
「勉強して、卒業して……どうするの? あなたが行ける高校はないし、大学もない。仕事もできないわよ、その身体だと」
「うぅ……そんなの、分かってるけど」
「ここにいなさい。一生、ママの手のひらの中に。決して寂しくないように、たくさんの愛情を注いであげるから」
「ママ……」
優しさに、気持ちが揺らぐ。
外には出ないほうがいいんじゃないか、と。今の、この姿では、どうせどこにも行けず、迷子になっておしまいだ、と。
「……」
最初の頃は違った。
「クソババアっ!! 死ねっ!!」と、家の外まで聞こえるほどの大声で喚き散らし、暴れ続け、壊し続けた。しかし、そのたびにガチン症を引き起こし、動けなくなり……母親に助けられ、泣きながらおむつを替えてもらった。
そんな流れを繰り返してるうちに、今の自分がとても非力で無力な存在だということを思い知り、憎しみを向けている母親に助けられているという現実が情けなくなり、心の中で燃え盛っていた豪火が、どんどん弱くなっていった。
今ではもう、消えかかり……すっかり「稚愛ちゃん」らしくなってしまった。
「あら? 誰か来たみたい。チャイムの音が聞こえたわ」
「……!」
ピンポーンと、玄関に来客。つまり、母親はこの部屋を出て、来客を迎えに行く。
娘はワタワタとベッドから降りて、部屋の扉へとすがりついた。
「あ、あ、あ……」
「何? どうしたの?」
「そ、外、出たいっ。わたしも、部屋の外っ。お家からは、出ないからっ」
「ダメよ。あなたは、このお部屋で待っていなさい」
「え、えっと、わ、わたしっ、ママのこと、大好きだからっ。ちゃんと、ママのむすっ、娘に、なるからっ。お願いっ」
「うーん。そんな急に媚びるようなこと言われても、ねぇ……」
「ご、ごめんなさいっ、ママっ。ちゃんといい子にするからっ。お願いっ。お願いっ」
「じゃあ……決して、お家からは出ようとしないこと。約束、守れる?」
「うんっ……!」
部屋の外ですら、久しぶりになる。母親から許可をもらい、娘は扉のカギを開けてもらった。
それが「最後のチャンス」になるだろうと、覚悟を決めて。
*
「こんにちは、瀬良ちゃん」
「あら、春崎さん。お久しぶりです」
玄関の扉を開けると、そこには女医の春崎ゆず子が立っていた。小脇には、小さな段ボール箱を抱えている。
この家の家主である母親は、まずその箱を受け取った。
「……てっきり、宅配便で送られるものだと」
「これは、ついでよ。直接会って、話したいことがあってね」
「うん? 春崎さんが、私と話したいこと?」
「ええ。この前、うちの継人がね」
その名前が、ゆず子の口から出た瞬間。
「つ、つーくんっ!!?」
大人同士の会話の、遠く後ろから、少女の大きな声が割り込んできた。
母親が振り返ると、そこには確かに娘の姿があった。しかし今、こちらに包丁の刃を向けながら、「はぁっ……はぁっ……」と、息を切らして立っている。
「あら? 稚愛ちゃん……それは、料理に使うものよ」
「黙れっ!! つーくんが、来てるのか!? 答えろっ!!」
耳が痛くなるようなキンキンとした声を上げながら、少女はゆず子に問うた。
「ここには来てないわ」
「じゃあ、つーくんに会わせろっ!! ここに連れてこいっ!!」
「嫌よ。あの子には、あの子の人生があるもの」
「だったら……今から会いに行くっ!! 道を開けろ、ババア共っ!! どかないと殺すぞっ!!」
刃物を握りしめてなお、気迫はない。小柄な少女が、必死に吠えているだけ。
ゆず子は一度視線を外し、母親の方へと向いた。
「閉じ込めておかなかったの?」
「さすがに可哀想で……。どうしても、可愛い娘には、ちょっと甘くなってしまいますね。とはいえ、約束破りは許しませんが」
「何考えてるのかしらね。あの子」
「とにかく、つーくんに会えば全部解決すると思ってるみたいですね。道も分からないのに、家の外に出ようとします。一度、窓から外に出ようともしました」
「あら、怖い。大丈夫だったの?」
「指が動かず、ロックを解除できなかったようです。ただ、万が一のことを考え、今は窓に鉄格子を」
「鉄格子!? まるで牢屋ね」
「それでも、つーくんへの熱は消えなくて。最近は、一人でいる時に、自分の胸を触りながら、『つーくん……つーくん……』って、つぶやいたりもしてます」
「へぇ。まだ性の対象として見てる、と」
「その最中に声を掛けると、顔を真っ赤にして、『み、見るなよっ……! どっか行けっ!』って怒られますね」
「ふふふっ、それは瀬良ちゃんが悪いわ」
思春期の子を持つ母親同士で、うふふと一笑い。
そしてゆず子は、再び娘の方へと視線を戻した。
「稚愛ちゃん。私から、あなたにお礼を言っておくわ。あなたのおかげで、継人は高校に合格できたの」
「なっ……!? ま、まさか……!」
「そう、西和巻学園よ。将来は、私みたいなお医者さんになりたいんだって。あと、舞白ちゃんも高校に受かったから、今度、二人きりでどこか遊びに行くって」
「そ、それはっ……それはっ!! お、お、俺のっ……!!」
「俺が生きるはずだった人生」という言葉すら、上手く口から出てこないほどに、冷静さを欠いている。
『つーくん』は、最後の希望で、なんとかしてくれる存在で。闇の中にある一筋の光で。残されたそれを、辿るように生きるしかなくて。
「がっ……ぐ、ぐぎ……いぎ……」
今、途絶えた。
「はいガチン症。早く弛緩剤を投与してあげて」
「ふふ。あの子ったら、できもしないのに、包丁なんか持ち出して」
人が人を殺そうとする時、平然としていられる者は、まずいない。大抵は、怒り悲しみまたは喜びの感情が、激しく揺れる。だから、ガチン症のある人間が殺人を計画しても、それを果たせず動けなくなってしまう。
母親は、ゆず子から受け取った段ボール箱を開け、中に入っていた注射器を一本取り出した。そして、娘の元へと行き、まずは包丁にタオルを巻きつけてから、そっと床へと寝かせた。
「うふふ。すぐに楽にしてあげるからね~♡」
二の腕のあたりに、狙いを定めて。
キャップを外し、ためらいなくブスリと刺す。
「ぐぎゅうっ……!!!」
痛みと共に、声が出る。
「そういえば……弛緩剤、ちゃんと効いてる?」
「えっ? 効いてるみたいですけど?」
「それならいいのよ。ただ……もしかすると、そのうち効かなくなるかも」
「え、そういうものなんですか?」
「ええ、耐性が出来てしまうから。より強力な弛緩剤を、また作り直さないと」
「あー……。それなら、もういいですよ、作らなくて」
「えっ?」
この先に、道は一つしかない。
そしてもう、引き返すこともできない。
「罰を与えないと。母親に、刃物を向けた罰を」
「だから、弛緩剤を断るって? じゃあ、次にガチン症が起きたら、稚愛ちゃんは……」
「死ぬんですよね。少しでも、感情が揺れたら。だから、決して感情が揺れないように、いつもビクビクと怯えた、大人しい女の子になって……。ふふっ、まるで昔の私みたい♡」
「いやいや。死ぬかもしれないわよ。稚愛ちゃん」
「稚愛ちゃんが死んだら、私もすぐに後追いで死にます。最期まで、親子で仲良くっ♡」
「あら……。これは、とんでもない……猛毒ね」
地獄へと。
「……ぁ」
「同じ棺桶に」
「ぁ、あっ、あ……あ……!」
「入れてもらえれば」
「ああぁっ……あああっ……!!」
「私たちは、永遠に幸せだからっ♡」
「あああああああああああ!!!!」
「ね、稚愛ちゃん♡」




