噂の怪その陸 白黒つける
その日‥‥男は出張から帰る日だった。慣れない土地と長距離移動とあって、疲れていた。
混雑を避けるために、商談の後は帰る前に神社へ寄ってお詣りをした程度。御利益があると噂の神社なので、商売人でいち商社マンとしては外せないスポットだ。
そしてろくに観光もせずに、早目に高速道路へ向かった。おかげで高速の入口までは比較的早く進めた。
高速道路入口の道路まで近づいた時だった。白い髪の少し腰の曲がった老人が、男が左折しようとする交差点を渡って来た。
白い割烹着のような服を着ている。スモックとでも呼ぶのだろうか、随分昔のものに見えた。杖を片手にゆっくりと歩き、交差点を渡り出す。
疲れて早く帰りたい気持ちはあったが、無理して先に行くような真似はしない。
老人が渡り終える頃には信号が変わってしまった。後ろの車からビィービィーと、苛立ちのクラクションが鳴らされた。
真近で大きな音を鳴らされて老人がびっくりして転ばないか、気になった。老人の姿はすでに見当たらなくなっていた。男は車を進める事なく、次の信号を待つことにした。
────ビィービィー!!
────ビィービィー!!
しつこく鳴らされるクラクション。気持ちはわからないでもないが、ルールを遵守すればそういう事もあるだろう。
結局高速道路に乗るまでの間、後ろの車から激しくしつこく煽り運転を受けた。男の車のナンバーを見れば、地元の人間ではない。だから、二度と会うことはないと思ったのかもしれない。
いつ追突されるか分からない荒い運転に、男は何度か肝を冷やす羽目になった。一瞬こちらが急ブレーキを踏んでやりたい衝動にかられた。
停まった車にぶつかれば、明らかにあちらが悪い。ただ疲れていたし、早く帰りたかった。それにそんな一時の感情で、うまくまとまった商談をふいにしたくなかった。
せっかく早めに出て来たのに失敗したな……男はそう思った。高速道路は順調に進み、無事に地元のインターチェンジから降りる事が出来た。
帰路まで、まだまだある。男は疲れ目を擦りながら気合を入れ直した。赤信号の交差点で止まった時に何気なく歩行者を見た。
どこかで見たような老人。黒い服を着て杖をついている。やはりなかなか横断歩道を渡りきれないようだ。
横断歩道信号の時間が長めになる交差点もあるが、ここは普通の信号だ。老人が渡りきる前に信号は切り替わってしまう。
男は仕方なく老人が渡り切るまで待つ。車のセンサーが反応してピピピピッと鳴る。青でいつまでも動かない男の車に後続が詰めたせいだ。次いでプアーッと、短くクラクションが鳴る。
慌てなくても老人が渡り終えたら進むよ。そう思いながら、男は少し苛つかされた。疲れているからこその安全運転。慎重過ぎるくらいで良いと思ったのだが、それが間違いなのか疑問になった。
自宅まであと少しの所で渋滞にハマった。この道は夕暮れ前のこの時間はいつも混む。しかし今日は様子が違った。
あまりにも前に進まないので、勘弁してもらいたかった。どうせ進まないからとナビの画面を切り替えた。ちょうどニュースの時間だ。
どうせ渋滞で動かないので、何となく小さな画面を眺めていた。
どこかで見たような景色。ウーウーと騒がしい消防車のサイレン音。テレビ中継は町中の火災現場を映していた。
────あれ、ここは俺の住むアパートじゃないか。男は画面を見て気づいた。
火災で燃えていたのは、男の住んでいたアパートだった。疲れて帰って来て、苛々を抑えながらも安全を心掛けて自宅近くに辿り着いてみれば……住む所が失われようとしていた。
運転中である事を忘れて、男は茫然自失となった。やり場のない怒りと、これから先どうすればいいのか頭の中が真っ白になった。自分の帰る場所がなくなるのを、小さなモニターで眺める事しか出来ない。
────プワァァァ!!
────プワァァァ!!
いつの間にか前の車ガ動き出していた。悪いのはわかっている。だが……こんな時にまで無造作に鳴らされるクラクションに、男は苛立ちを思い出してギアをパーキングに入れ車を停めた。
男は怒りの鋒先を、しつこくクラクションを鳴らす後ろの車のドライバーへとぶつけてやろうと思ったのだ。
シートベルトを外そうとした瞬間、バックミラーに映るドライバーの姿を見て男はギクッとした。
バックミラーに映っていたのは白い髪の老人だったからだ。どこかで見た顔だった。
「最初の交差点!」
高速道路に乗る前の道路。杖をついて交差点を渡って来た老人が、こんな所にいるわけはないのに、何故か男はその老人に見えた。
ドーーーーーーンッ!!
車に乗っていてもわかるくらいの爆発音が外からとナビの画面から鳴り、車体に響く。風向きが悪かったのか、燃えるアパートの火が隣の工場に引火し、火気厳禁の何かを爆発させてしまった。
アパートは目と鼻の先。クラクションを鳴らされ、慌てて車を進めて辿り着いていたら……巻き込まれていたかもしれない。
ナビの中継現場はパニックに陥っていた。男は怒りを忘れて再び茫然となった。
疲れていたからだろうか。何か自分の預かり知らぬ所で、自分の生命をやり取りされているような気分だ。
「生命拾いしたのう…………」
音もなくフロントガラスから逆さになった老人の顔が急に現れ、何やら告げた。
黒い服の老人の色のない目が、男の目と合い不気味に笑う。渋滞はしていても、少しずつ動いていた。
男が茫然自失となって車を停めていた間に、後続の車は彼に罵声を浴びせながら追い抜いていた。
────出火の原因は、男の住むアパートの部屋の隣の住人の煙草の火の消し忘れだった。
窓を閉め忘れて出た事、たまたま強風で火のついたままのタバコが縁の薄い灰皿から転がり、散らかしていた紙類を燃やした。
小さな偶然とは言い難い不注意で発生した火災。もし安全運転など無視して、帰路を急いでいたのならどうなっていたのか。火災の起きる時間に、男はアパートの自室まで辿り着いていたのではないかと思いゾッとした。
火事に気づけても野次馬に紛れ、あの場で事情説明などを駆けつけた警察や消防員へ行っていたはずだ。
火事は逃れても、工場への引火と爆発からは逃げ切れなかっただろう。
テレビ局の人間をはじめ、四十名以上の死傷者を出した火災。男は度重なる偶然で足止めされ、安全を意識していたから助かった。
あの老人達が何者なのかわからない。白と黒の服から死神をイメージしたが、死神が疲れた男を助けるだろうか。
「生命拾いしたのう。賭けで得た半分、そなたにくれてやるわい」
老人はそう言っていた。色んな感情に振り回されてわからなくなったものだが、帰り道のお詣りで死神さまの興味を引いたのかもしれない。
男は火災に巻き込まれずに生命拾いをした。火災で全てを失ったが、運良く難を逃れた男どして、世間の注目を浴びる。
もしあれが死神だったのなら、賭けとやらで得たものがなんだったのか、容易に想像がついてしまう。
後に成功者として男が語ってくれたのは、うわさを鵜呑みにすると、良くも悪くも酷い目にあうという教訓だった。
そして彼らは形にこだわらない。たとえ仮想の空間であろとも、願えば場所も願いも問わない。
そして些細なことで、人生が簡単にひっくり返るのだった。
お読みいただきありがとうございます。六にろく、去年のテーマの帰り道と、白黒だけにひっくり返すで、話のオチをつけたかった作品です。
死神さまののイメージは北斗と南斗です。ホラーというより、ミステリーに近い形になってしまいました。
予約投稿はここまでとなります。約一万文字、夏のホラー楽しんでいただければと思います。