噂の怪その廿陸 初 恋
見てはいけないものの中に、見えていても目を合わさなければ大丈夫なものがいくつかあると思いませんか。
代表的な存在は、ちょっと危ない集団や組をつくっている人たち。ブツブツと呪文のような独り言を呟いている人もその類い。にこやかに我々を不幸だからと断定して入教を勧める人たちも怖いものだよね。
他にもまだ、あげれば沢山あると思う。目を合わせない事、近づかない事、関わらない事が、身を救う事の第一歩であるのではないだろうか。
僕がフッとそのような標語めいた気持ちを感じたのは、子供の頃によく使った通学路を歩いているからかもしれない。
その通学路は住宅地の中にあって道が狭くて車が通れないので、子供には安全な道だった。
登校する時は朝日の光が入り、明るいのでみんなが使う道。でも下校の時間になると、住宅地の家や庭木の陰で薄暗くなる。気味が悪いからと、使わない友達も多かった気がした。
僕はこの道を帰るのが好きだった。人気が少なくて、自分だけの静かな空間。家に帰ると勉強しろとうるさい母さんや、命令ばかりで威張ってくる兄さんにいじめられる。ここの道はゆっくり歩いて帰っても、誰にも叱られないし、いじめられない。
その僕のお気に入りの時間は、梅雨が開けて夏休みまでの暑い下校時間だった。
初めてその人に気づいたのは、よそ見をしてその家の庭の前で転んだ時だと思う。庭といってもブロック塀に囲まれていて、中の様子は見えないはずだった。
でも転んだ時に、そのブロック塀を見て僕は気づいた。飾り穴のようなものが空いていて、近づいて穴を覗くと中の様子が見える事に。
なんとなくいけないと思いながらも、パシャッパシャっと鳴る水の音に惹かれて覗いてしまった。
ブロック塀の穴から覗いた先は明るくて、眩しかった。水の音の正体は、暑いからか女の人が水を自分にかけて涼んでいた音だった。
暗がりから覗き見る興奮と、やってはいけない罪の意識。女の人の白い肌に、水が滴り落ちてきらめくように輝く。
僕は見てはいけないものを見てしまった。でも母さんや同級生の女の子とは違う妙齢の女性の美しさに、子供ながら魅入ってしまったのだと思う。
その日から僕はその狭くて暗い道を帰る度にドキドキしていた。覗いている姿を女の人に見つかるのが怖くて、水の音が聞こえない時は、ゆっくり静かに通り過ぎるようにしていた。
夏休みに入っても友達と遊んだ帰りにわざわざ遠回りして、この道を通って帰った。
中学生になると通学路もかわり、あの道はなかなか通らなくなった。いけない事だとわかっていながらも、思春期の中学生の妄想が膨らんで駆け出した事もあった。
ただ小学生の頃と違って、遠慮のない中学生男子の気配は相手にも伝わるのか、水を打つ音は聞こえる事はなかった。
高校を卒業して大学生となり学生寮に入るようになる。子供の頃の思い出は、ただ懐かしいだけの記憶にかわっていた。
大学生の最初の夏休みに入ると、僕は実家に戻った。久しぶりに地元の街を散策して、思い出の道を歩いて帰ることにした。
あれほど好きだった狭い道は、大きくなった僕には本当にただ狭くて通りづらい道になっていた。大人達がどうして使わないのか、今更だけど子供の時の謎が解けて少し嬉しい。
あの家も変わらずその道の半ばにあった。ブロック塀は思ったより高くて、大人になった僕でも目線が隠されて中は見えない。
塀に手をかけて背伸びをすれば見えなくもないけれど、そんな姿を誰かに見られたら通報される。
我ながら馬鹿だなと思いながら歩み始めたその時、パシャッと、水の撥ねる音が聞こえた。
子供の頃の興奮が頭によぎる。いけない事、あれから十年も経っているのに同じ人とは限らないと、大人になった僕の心がブレーキをかける。
僕は興奮する気持ちに負けて、身体を屈ませた。子供の時に覗いた時と同じ穴から中を見てしまった。暗がりの先にはあの時と同じ、白い肌の女の人の後ろ姿が浮かぶ。
まったくあの時と変わらない肢体に僕は我を忘れて魅入ってしまった。子供の頃と違って、性的な興奮と相まって目が離せなくなったのかもしれない。
幼かった頃の僕は、身体の奥底から溢れる興奮と罪悪感に耐えきれなくなって、覗き見るのを止めて駆け出した。
でも今の僕は大人になった。ずっと眺めていたい背徳感に強い刺激を受けて覗き続けてしまった。
女の人が何も気づかずにこちらを振り向く。長い黒髪の美しい人、それが僕の見た彼女の姿だった。しかし、覗いていたはずの穴の先はが突然暗くなり血走った赤い眼に覗き返された。
「お帰りなさい、ずっと待っていたのよ」
僕が覗き見ていた事を彼女に気づかれていた。それでもすぐに立ち去れば、子供の時のように目を合わせる事もなく逃げられたはずなのに。
僕は自分から彼女の目が合うまで見つめてしまった。会えなくなって忘れたんじゃない。調べてみて、会えない事がわかったんだ。
どうしてこの旧暦のお盆の時期なのか。どうして水を禊のように被っていたのか。彼女が本当は誰を待っていたのか。
僕は調べ尽くして、答え合わせに来た。金縛りにあったように動けない僕は、どうやってかブロック塀をすり抜けて彼女の庭に引摺りこまれた。
美しい白く透き通るような肌は、きっとこの世の人ではないからだろう。
僕はあの時からずっと、この女の人に魅入られ惚れてしまったんだと思う。
彼女は戦地から帰らぬ婚約者を待ったまま、若くして亡くなったこの家の持ち主だった方だ。ブロック塀に囲まれた庭はの中には朽ちた廃屋が庭木に囲まれていた。
親族が春先に手入れをしにやって来るので、廃屋以外は昔のまま残されていたそうだ。
「あなたは誰? あの人ではないのね」
庭先から僕は、彼女に死出の道へと連れて行かれようとしていた。しかし、彼女は僕が自分の求める人じゃないと気がついた。
「僕は貴女が、好きなんです。一緒に連れて行ってください」
ずっと追い求めていた白い肌の女の人にようやく会えた。でも彼女は冷めた目で僕を見た。
「もとの暮らしに帰りなさい。もう二度と覗いては駄目よ。約束」
僕の手を冷たい手が触り指切りげんまんを交わす。果たされることのなかった約束。死んでも待ち続けた彼女が、僕だけを現実へと帰してくれた。
──────僕は幽霊に恋して、ずっと想い続けて、振られた。
彼女はずるいと思う。約束を破ればきっと再び彼女を見ることは叶うだろう。でも、彼女を愛した僕は、彼女のために約束を果たしてやりたい。
彼女との約束を守るということは、もう二度と彼女と会う事が出来ないことを意味するのに。それをわかって、彼女は約束をしたのだから。
僕は振られた。でも彼女は愛する人と約束を交わしたように、僕とも約束してもとの世界に帰してくれた。
十年来の恋は実らなかった。泣きながら僕は、狭い路地を帰ってゆくのだった。
悲しい想い出に塗り替えられてしまったこの狭い路地は、防災対策のために再開発が決まっていた。
もう二度と会えなくなる、それがわかって会いに行った僕に、彼女もまた会いたいと思ってくれたから僕たちは会えたのだろうか。
お読みいただきありがとうございます。この作品は公式企画夏のホラー2023にて投稿した短編を収録したものとなります。
ホラー作品なのに初恋、ほんの少し昭和的なエロスを交えた、毛色の違うホラーに出来たと思っています。




