噂の怪その廿弐 キャップ一杯の水
視線はいつも感じていた。べつに視力がいいわけでもない。
どちらかと言えば臆病で誰かに迷惑をかけるのもかけられるのも嫌いな、ごく普通の小市民、それが僕という人間だ。
今日も仕事終わりの帰りの夜道で、物陰から僕を見る視線を感じる。何度も言う、わかるんだよ見られているとさ。
見つめられ、注目されるのが苦手な性分。目立つとろくな事が起きないから、いつしか人目を気にする人間になってしまった。
いつしか帰りの夜道は、見つめられる恐怖との戦いになっていた。
その視線の持ち主が、僕を執拗に狙う理由はわからない。僕が気づかない内に怒らせるような事をしたのだろうか。
僕が誰かの心ない言動で傷つけられて来たように、僕も知らずに誰かを傷つけてしまったのか。
仕事が終わり電車に乗ってる間、僕は家までの帰り道を想像していた。
きっと、いつもの物陰、街灯と街灯の間の闇の濃いあの茂みから、僕を見つめているのではないかと考えてしまう。
そこを避けて遠回りして帰ったはずなのに、壁に隠れて視線を感じて僕は思わず震えた。
長く続くかと思われた戦いはあっけなく終わりを告げた。ずっと続いた昼間の猛暑酷暑の影響で、夜も気温は下がることなく仕事帰りの僕はいつも汗だくだ。
日もとっくに暮れているのに、いつまでも暑く、駅から家まで帰る前にコンビニで冷たい水を買って帰るのが習慣になっていたくらいだ。
そしてこの暑い夜の帰り道に、視線が僕を襲う。あまりに暑かったのだろうか、その視線の主はやつれ弱って見えた。
僕は得体の知れない視線の恐怖から解放されて、安堵するとともに別の問題にぶつかる。
このまま見てみぬふりをして帰ることに、心がざわつく。駄目なのはわかっているんだ。面倒を見れないのに情に負ければ僕は、自分が嫌っていた迷惑をかける輩と何ら変わらない行動になるのだと。
たとえそれが生き死ににかかわる場面だとしても、僕の起こした行動が知らない誰かの迷惑につながるなら、すべきではないと。
僕は最低な人間だった。一方的に迷惑をかけ、人目に怯えて臆病になってしまった原因をつくった人達を、心の中で罵倒しておきながら、自分もやってしまった。
良心の呵責に耐えきれず、ペットボトルのキャップを地面に起き、水を注いだ。
それだけで怖かった。自分が掲げてきた考えと、社会的な常識と、いまにも倒れそうな生命を前に出来たのが、僕の臆病で卑屈な気持ちを表すかのような、ペットボトルのキャップの水。
他人へ迷惑をかけておきながら、それっぽちの水だから許してほしいと思ってしまう。
自分自身への甘えた気持ちと、視線の主への申し訳なさが交差して、その日は眠れなかった。
それから視線はぱったり止んだ。夏も終わりに近づき、ほんの少し涼しい風がふきはじめた。
僕はあれから視線のないことにずっと心が傷んでいた。
あんなに視線を恐れていたのに、視線のないことが不安になっている。
人目が怖かったんじゃない。誰かに自分の行いを、見咎められることが嫌なだけだったのだと気づいた。
僕に人目を気にせずに行動する勇気があれば、病院に運んでやるくらい出来たはずだから。
後悔先に立たずと言うが、いまの僕はまさにそれだ。あれから随分と経ったのに、いまだ視線の主を探している。見つめられ、恐怖する事を求めている。
取り戻せないと知りながら、僕は今日もまた仕事帰りの夜道で恐怖を与える視線を望み続けていた。
お読みいただきありがとうございます。この作品は公式企画夏のホラー2023にて投稿した短編を収録したものとなります。




