思慕(しぼ)
暗雲の壁
二つの世界があった。
それは、光と影のように対なる存在であった。
影の世界には二つの存在があった。
ひとつは、光を飲み込もうとする存在。ひとつは、光を護る存在。
光の世界はまだ、影の世界の存在をまだ知らずにいた・・・
思慕(Saudade)
鈴元南美には、初めから分かっていた。
今付き合っている男が、私の心になど目を向けていない事も、ただ己の欲求を満たすためだけに会っている事も。例え見せかけの優しさでも、押し潰されそうな孤独感に支配されていた今の彼女には必要だった。南美は隣で静かな寝息をたてる男の横顔をじっと見ていた。
半年前に別れた男も似たような感じだった。好きな男には尽くし過ぎ、従順な南美には付き合った男が他に女を作って捨てられるまで、自分は愛されていなかった事に気がつく事はなかった。それから枯れることをない涙とともに、彼女の心は彷徨い酒に溺れる日々を送っていた。そんな時だった、彼に出会ったのは…
その夜も南美は、バーのカウンターでひとり飲んでいた。カウンターにはサラリーマンらしい二人の男が彼女の右側に離れて座っていた。酔いが進むと悲しみに心が支配され涙が南美の頬を伝う。彼女は気がつかなかったが、二人の男のひとりが南美を見ていた。暫くするとその男達は会計を終え立ち上がった。そして南美を見ていた男が彼女の後ろを通り過ぎる。と、同時に南美の左側のカウンターの上にそっとハンカチを置いた。南美の視線がそのハンカチに移り、後ろを振り返った。ハンカチを置いて行った男は振り向かず、そのまま店を出て行った。そのハンカチを手に取り南美はマスターに訊ねた。
「今の方がどなたかご存知ですか?」
マスターは首を横に振った。
数日後、仕事帰りにいつものバーの扉を開けるとカウンターは半分ほど埋まっていた。南美はカウンターの空いてる右端の席に座りビールを注文した。バッグから煙草を取り出し火をつけると一口吸いこみ、溜息と一緒に紫煙を吐きだした。いくら時間が経っても気だるい気分が晴れる事は無く、虚しさだけが彼女を包んでいた。いや時間が過ぎたせいで何が彼女を虚しくさせているのかさえ判らなくなっていたのかもしれない。その虚しさが酒を口に運ばせ、そして、酔うといつものように悲しみが頬をつたう。
突然、南美の左側から手が現れた。その手はハンカチをそっと置いた。南美は後ろを振り返る。男と視線が繋がった。男は優しそうな笑顔を見せると何も言わず振り返り出口に向かう。南美はその背中を追った。店を出た彼の背中越しに声をかけ、バッグからハンカチを取り出した。
「あの、これ、貴方のハンカチですよね?有難うございます」そう言うと、こちらを振り向いた男にハンカチを渡す。男は照れたように笑うとハンカチを受け取りポケットにしまった。「よろしかったら…1杯御馳走させて頂けませんか?」そう言った自分に南美は驚いた。「お気になさらないでください。ご迷惑かとは思いましたが、気障な真似をしてしまいました」彼の照れた顔に南美は見惚れた。
実は、彼はこの世界の者ではなかった。彼は異次元の世界ミレニアル王国の王子であった。もう一つの異次元の世界ウインガル公国が地球を狙っているとの情報をつかみ、密かにウインガル公国の動きをこの世界で探っていた。だが王子はこの世界の女性、南美に惹かれていた。
青空から降り注ぐ陽光に暖められた街を歩く南美。細めのウエスタンベルトを腰に巻き、エスニックな雰囲気の黄色いブラウスとスリムのジーンズを身に付けた彼女の足どりは軽やかだった。暗いバーのカウンターで泣きながら酒を飲んでいた頃とはまるで別人だった。
待ち合わせの公園に入ると、先に来ていた彼がこちらに向かって手を振った。彼は、バーで南美にハンカチを渡した男だった。「遅れてごめんなさい」南美は彼の前で軽く頭を下げた。「いや、僕が早く来過ぎたのです。南美さんが謝らないでください」困ったような顔で南美から視線を逸らして照れながら言った。彼の言葉に頬が熱く感じうつむいた。何年振りだろうこんなに心が躍るのは、と南美は思った。
それから二人は映画を見て、食事をして、街中を歩いた。見えるものは全てが輝いているかのように映り、笑顔が止まらない。そう、まるで少女のようなトキメキが南美の鼓動を速めていた。南美は恋におちた。
やがて陽が落ち、街並みは煌びやかなイルミネーションに包まれた。空を見上げると街の灯りに邪魔され闇を纏えない雲が蠢いていた。まるでその存在を気付かれないように。
南美は足を止め暫く空を見ていた。夜空の雲に何かを感じたが彼の声で視線が空から離された。
「どうかしましたか?」
「いえ、なんでもありません」頬笑みながら南美は彼の腕にもたれかかった。
レストランで飲んだワインで南美の頬は薄らと紅潮していた。心なしか頼りない無い足取りを彼の腕が支えていた。彼の腕に頬をあずけて、心地よい音楽のような彼の囁きに身体が溶けそうだった。足を止め彼が南美を見つめる。酔った所為なのか、南美はそっと目を閉じた。彼の顔が近づき、南美の唇に柔らかく、優しく、彼が触れた。南美の身体は熱くなった。このまま時の流れを止めて欲しい、この先の時間全てを失ってもいいとさえ思った南美だった。南美は彼の温もりが残っている唇に指先を当て、熱くなる頬を彼に気づかれない様に俯いた。彼と腕を組みながら南美は頬を彼の腕に押し付け暫く夜の街を歩いた。
「南美さん…実は僕は…」彼がそう言いかけた時、南美の腕が突然後ろに凄い力で引かれた。何が起こったのかを理解する前に何者かが南美の身体を軽々と担いで走りだした。
「南美さん!!」彼の叫び声が聞こえ南美は担がれたままで頭をあげると、彼が取り囲んだ数人の男達と争っているのが見えた。南美を担いだ男は道路脇に止めてあった保冷車のようなトラックの後ろにまわり扉を開けた。南美を荷台に押しこむと男は扉を閉め運転席に乗り込み、トラックを発進させた。暫く走ると急ブレーキでトラックが止まり転がる南美。その時トラックの扉が開いた。「南美さん、大丈夫ですか?」彼だった。「南美さん早く降りてください」彼の声とともに、轟音を響かせ凄い速さで車が近づいてくる。車の窓から乗り出している男の手には武器が抱えられ、ミサイルのようなものが発射された。
彼はとっさに南美を突き飛ばした。その瞬間ミサイルはトラックに命中して爆発炎上した。
南美は爆風に飛ばされ失いかける意識の中で泣き叫んだ。
「リュウスケさん!」