第二話:部屋に入る時はノックをしてよ 3
謎の少女、澪さんとのディスカッションは夜通し続いた。
結論として、どうやら澪さんは特別な生霊であるらしかった。
「───じゃあ、えっと、失礼します」
「どうぞ」
「……おお、オウ、ん?
あー、ほんのちょっと温ったかい、かな?」
「自分だとあんまり感じないですけど……」
「俺も平熱低い方だけど……。
俺よりもうちょい下、くらいか」
「手よりも、首とかの方が分かりやすいでしょうか?」
「あー、うん、いや。
そこは、触らない方がいいかな、俺は」
まずは、体温の有無について。
他の生霊が軒並み冷たかったのに対して、澪さんは僅かながら温もりを有していた。
一般人の平熱と比べると幾分低いが、幾分程度の差しかないのは、ある意味で大差だ。
「───うん。普通に、飲めます」
「飲めるんだ……。
違和感とかは?味が変とか、体が変になってきたとか」
「特には」
「ないんだ……。
そもそも実体がないはずなのに、───あ」
「え?」
「ごめん、ちょっとそこ退いてもらってもいい?」
「あ、はい」
「……違うか」
「なんですか?」
「飲んだ風に見えて、実は上から下に零しただけ、だったりするのかなと」
「幽霊だったら、そういうことも有りそうですね」
次に、飲食の可否について。
試しにペットボトルの水を飲んでもらったところ、澪さんは普通に嚥下してみせた。
同時にペットボトルの容量も減ったので、少なくとも澪さんが水を摂取した事実は存在する。
「───あのさ」
「はい」
「あれから結構経ったけど……。大丈夫?」
「なにがですか?」
「あのー……。
ごめんね、年頃の女の子に、本当はこんなこと聞きたくないんだけど」
「どうぞ」
「……お手洗いとか、行かなくて大丈夫?」
「ああ……。そういえば、そうですね」
「なにも感じない?」
「今のところは、全く」
「んー、まぁ、ペットボトル半分くらいなら……?」
最後に、排泄の必要性について。
水を飲んで暫くしても、澪さんはトイレに立たなかった。
もしかしたら我慢させているかもと思った俺は、不躾ながら澪さんに尋ねた。
澪さんも澪さんで自らの体に尋ねたが、催す気配はないとのことだった。
つまり、水を飲んだのは確かでも、飲んだ水がどこへいったかは不明なのだ。
澪さんの周囲を確認しても異変は見当たらなかったので、飲んだはずの水が実は澪さんの体を擦り抜けていた、という線もなくなった。
この辺りの仕組みは複雑そうなので、当面は保留することになった。
「───明るくなってきましたね」
「そうだね……」
「ごめんなさい、わたしがお邪魔したせいで……」
「いいよ。君は悪くない。
俺が、君を知りたいと思ったんだから」
「今からでも、お休みになりますか?」
「たぶん寝れない。から、このまま起きとく。
───おはよう」
「おはようございます」
気付けば夜明け、うららかな朝。
俺は碌に眠れないまま、澪さんの素性も割り出せないままに、新たな一日を迎えてしまったのだった。
**
6時ジャスト。起床。
腹が減ってはなんとやらで、俺と澪さんは朝食をとることに。
澪さんを背後に引き連れ、階下へ降りていく。
リビングには既に親父の姿があり、俺の足音に気付いた親父はこちらに振り返った。
「───おお、珍しいこともあるもんだ。こんな早くにどうした?」
作業着に着替えながら、半笑いで声をかけてくる親父。
親父は毎朝、自分だけで畑の様子を見に行く日課がある。
片や俺は、商店の営業が10時からなので、平日はだいたい8時過ぎに起床している。
今日のように、早朝のリビングで顔を合わせることは、稀だ。
「別に。なんとなく。
そっちは?これから畑?」
「おう。毎日のるーちんわーくだからな」
「慣れない言葉使わんでも」
「お前に合わせてやったのさ」
「そーですか」
「せっかくだし、今朝は一緒に朝メシ食うか?」
「は?なんでまた。
いつも出先で食うか、戻っても昼メシと兼ねてるじゃん」
「そう言うなよ。
お前とはいつも時間合わんし、たまには親子水入らずで───」
更に俺が階下へ降りると、親父は言葉を詰まらせた。
やがて親父は、鳩が豆鉄砲を食ったように大きく口を開けた。
「え。なにどしたの」
嫌な予感。
俺は思わず後ずさりしそうになったが、澪さんが閊えているので出来なかった。
すると親父は、俺の背後に向かって震える指を差した。
親父の指が示す先には、澪さんがいる。
ということは、まさか。
「マッ、お前っ、───ッどこのお嬢さんだその子はァ!?」
俺に代わって後ずさった親父が、ひっくり返った悲鳴を上げる。
とっさに背後を振り返ると、同じく戸惑った様子の澪さんと目が合った。
俺と親父はもちろん、澪さんにとっても不測の事態であるらしい。
「と───っ、親父、この子視えるの?」
「ハ!?見える!?見えるってなんだ!?見えるよそりゃあ!人間だもの!なんでそんなことを聞く!?」
親父は先程、"お嬢さん"という敬称を使った。
単なる気配や人影ではなく、少女としての澪さんを形容した言葉だ。
親父の目にも確かに、澪さんの姿が視えている証拠だ。
俺にとっての生霊は、俺にしか視えない、隔絶された存在だったはずなのに。
これも、澪さんが特別な生霊だからなのか。
あるいは一緒に暮らすうちに、俺の能力だか体質だかが、親父にも伝染ってしまったのか。
「しかも、しかもお前、こんな、若い、まだコッ、子供の、女の子にオマエ……っ。
よりにもよって女の子にオマエ───っ!」
喚いて項垂れて静かになって、最後に親父は頭を抱えた。
なにやら酷い誤解をされているようだし、潔白を証明しなければ。
「いや、あの、違うからな?
別にこの子とは何でもないから。親父が想像してるようなことは何も───」
「じゃあなんでお前の部屋から一緒に出てくるんだ!?こんな朝早くに!」
ごもっとも。
俺だって、なぜ澪さんが俺の部屋に現れたか分からない。
なんでどうしてと、俺の方が教えてほしい。
「正直に吐けば、警察に突き出すのは考えてやる。
言え!なにがどうしてこうなったんだ!俺はどうしたらいいんだ!」
一度は落ち着いた親父が、今度は顔を真っ赤にして詰め寄ってくる。
女を連れ込んだだけならまだしも、澪さんは明らかに未成年の女の子だ。
親父から見た今の俺は、うら若い乙女に手を出したロリコン野郎に映っていることだろう。
どうしよう。
俺と澪さんに疚しい関係はないし、そもそも俺は年上が好きなんだけど。
決定的な瞬間を目撃されたからには、どう誤解を解くべきか。
「ちょちょちょちょまてまて待てって、ちょ、違うから!とりあえず話聞けって!」
「だから聞いてやるって言ってんだァ!お前を犯罪者に育てた覚えはないぞォ!」
制止も虚しく、親父は俺の胸倉を掴み上げた。
親父の剣幕に気圧された俺は、もはや言い訳のひとつも思い浮かばなかった。
「───あの、」
殴られる。
感情的になった親父に、有無も言わせてもらえずに、たぶん強めのゲンコツで。
諦めかけた矢先、女の子の優しい声が割って入った。
首だけでそちらに向くと、先程までとは打って変わった澪さんが、背筋を伸ばして立っていた。
「わたし、ケンちゃんの友達の、妹で、兄からの、あの、預かり物を届けに来ただけなんです」
「えっ」
「ケンちゃんのお部屋から出てきたのは、───そう!
兄へのお返しを受け取るためで、ちょっと寄らせてもらっただけなんです!」
さすがに苦しい言い訳だが、せっかく助け舟を出してくれたんだ。
俺も澪さんに同調して頷くと、親父は手の力を緩めた。
「ほんとに、ケンジの友達、の、妹さん……?」
「はい。
ケンちゃ、───ケンジさんには、兄ともども、お世話になっています」
「預かり物、届けにきただけ……?」
「そうです。本当にそれだけ」
「こんな朝早い理由は……?」
「えっと……。
わたし、が、わたし個人が、朝から出掛ける用事があって。
せっかくだから、そのついでに寄ればいいよって、ケンジさんが言ってくれたんです」
親父に露骨に訝られても、澪さんは取って付けた設定を貫いた。
恥ずかしながら、俺は澪さんの機転に合わせるしかなかった。
「ですから、おじさまが思ってるようなことは何もないので、どうか心配しないでください。
お騒がせしてごめんなさい」
親父は俺と澪さんの顔を見比べてから、渋々と俺を解放した。
「まあ、夜中から居たとしたら、足音やら気配やらで、気付いただろうし……。
お嬢さんがそう言うんなら、そうなんだろう」
俺は感謝の意を込めて、澪さんに目配せした。
澪さんは胸を撫で下ろす仕草で、苦笑と会釈を返してくれた。
「そういうわけだから、親父はもう行って。
俺は彼女にお茶でも出してから、家まで送る」
「そう……、か。分かった。粗相のないようにな。
───妹さんも」
「はい」
「朝っぱらから、品のない親父と息子でごめんな。
狭い家だけど、良かったら寛いでって」
「ありがとうございます」
俺と澪さんにそれぞれ挨拶してから、親父は踵を返した。
澪さんは律儀に頭を下げ、親父が去っていく背中を見送った。