第二話:部屋に入る時はノックをしてよ 2
8月15日。
竣平が挨拶に来てくれた翌日。
ここしばらくの忙しなさが嘘のように、今日一日は何事もなかった。
名付けて"ノーエンカウントデー"。
生霊の世話に駆けずり回ることも、生霊が世話になった当人からお礼に伺われることもない。
まるで、事故に遭う前の平穏が戻ったかのよう。
体感で言うと、10年ぶりの休日だ。
「───カァ〜、寝るぞ俺は。今日こそは寝るぞ俺は。優に30時間は寝れるね今の俺。なにしろ疲労困憊魑魅魍魎これで病み上がりなんだから大草原不可避の焼け野原がうるせえんだよさっさと寝ろゴミ。
おやすみなさい」
こうして俺は、苛立ち紛れの譫言をぼやきながら寝床へ。
疲れきった体を癒やすため、いつもより早い時間に就寝したのだった。
「めっちゃ夜じゃねーか」
ところが。
意気込みの甲斐なく、夜も明けぬ内から目が覚めてしまった。
疲労が溜まりすぎたせいか、昼間に飲んだコーヒーがいけなかったのか。
体は未だ重いのに、覚めてしまった目だけが急速に冴えていく。
「クッソ……。今日くらい寝かしてくれや……」
経験上、すぐに寝直すのは、まず無理だ。
いっそ眠気が戻るまで、布団から出てしまおうか。
でも起きるの面倒臭いし、起きても別にやること無いし、やることあっても面倒臭いしな。
どうしたものかと眉を顰めながら、左に寝返りを打った時だった。
ここにいるはずのない存在が、視界に入った。
「いっ────!!」
寝床の脇で三角座りをした、十代半ばほどの少女。
いつからか、そこで俺の寝姿を眺めていたらしい。
俺は驚いて引き攣った悲鳴を上げ、掛け布団に包まったまま右に転がった。
防御姿勢をとる余裕がなかったので、せめて少女から距離をとるために。
「ヒッ……、ヒィ……、ヒ───!」
途切れる息、暴れる心臓。
寿命が縮むとは、まさにこのこと。
ただ、少女が何者なのかは、混乱した頭でも理解できた。
今、俺は眼鏡をかけていない。
暗闇に溶けた景色の中で、少女の輪郭だけが鮮明に視える。
俺の定義した生霊の特徴に、少女は当て嵌っている。
というか、深夜の自室に知らない人がって時点で、十分おかしい。
ましてや女の子なんて、どんな間違いを犯そうとも、俺に限っては有り得ない話なんだ。
「スー、ハー、スー……。はあー……」
深呼吸で気持ちを落ち着かせる。
改めて少女に向き合うと、少女自身の特徴も見て取れた。
切り揃えられたセミロングの黒髪。
暗がりにも分かる玉のような白皙。
いずれも窓から差し込む月光に照らされて、淡く浮かび上がっている。
服装は、上がオフホワイトのシャツ、下がグレーのプリーツスカート。
靴は材質的にレインブーツだろう。
土足で部屋に上がるなと言いたいところだが、生霊が相手なら汚れる心配はなさそうだ。
「(制服───、にしてはジャケットもベストもないし。
雨も降ってないのにレインブーツは、最近の子のオシャレか?)」
とりわけ印象的なのが、本人の体格より一回りも大きいオーバーコートだ。
色はネイビー、もしくはインディゴブルー。
軽さと薄さからして、冬用ではなく秋春用。
メンズライクなデザインなので、父親か兄弟のお古かもしれない。
「(深窓の令嬢、って感じだな)」
一見すると大人しめの、綺麗めの女の子であることは分かった。
だが見た目通りに大人しいかどうかは、まだ分からない。
油断すると噛み付かれる恐れもあるし、迂闊には近寄らないのが無難か。
「ハァー、もぉー……。
いつもはだいたい店先にいんじゃんよ……。用があんなら玄関から来てよ……」
返事が返ってこないのを承知で、堂々と半べそをかく。
出現する場所も時間帯も、今までの生霊と少女とでは、あまりに違いがあり過ぎるからだ。
「ごめんなさい」
すると、なんと、少女は喋った。
俺の半べそに対して、自らの声で謝った。
俺はまた驚いて、枕元に置いていた眼鏡ケースから、常用の眼鏡を取り出した。
眼鏡のレンズ越しには、少女も景色も鮮明に視える。
眼鏡を外した肉眼には、少女のみが鮮明に視える。
「(どうなってんだ)」
俺の定義によれば、少女は生霊に違いない。
しかし喋れる生霊には、少なくとも俺は会ったことがない。
もしかして少女は、俺にとって初めての、死んでる方の幽霊なのだろうか?
「はなし、できる、の……?」
掛け布団で簀巻き状態のまま、俺は少女に恐る恐ると話し掛けた。
"日本語だけですが"、と少女は小さく答えた。
淑やかさと仄暗さが同居したような、見た目の割に大人びた声だった。
「えっと……。
この部屋には、どうやって入ったの?どこから来たかは覚えてる?」
少女は首を振り、 申し訳なさそうに俯いた。
「気付いたら、ここに、いました。
そうしたら、そこで、あなたが寝ていました。ので、つい、見てました。
びっくりさせて、ごめんなさい」
そこ、と少女は俺の寝床を指差した。
がっつり不法侵入しておいて、なにも覚えてないわけあるかい。
俺は内心そう思ったが、少女が嘘をついているとも思えなかった。
「じゃあ、自分がどこの誰なのかは、覚えてる?
普段どういう生活をしてるとか、───していた、とか」
「………なにも」
少し考えてから、少女はまた首を振った。
観測史上初、意思疎通の叶う生霊、の可能性。
にも拘わらず、少女は自らの目的も、自らが何者かさえ見当が付かないという。
これでは、深山さん達のように解決してやれない。
俺で助けてやることも、助けになってくれそうな人を見繕ってやることも出来ない。
元いた場所に、本来あるべき姿に、戻してやれない。
少女を生霊と決め付ける自体が、早計なのかもしれない。
「参ったな……。
逆に、覚えてることはない?自分に関することでも、そうでないことでも、なんでも」
また少し考えてから、少女は何かを思い付いたように顔を上げた。
「澪」
「ミオ?」
「多分ですけど、わたしの名前、だと思います」
澪。少女の名前であるらしい。
本当かどうかはさて置いて、唯一の手掛かりだ。
「澪さん、ね」
「………。」
「とりあえず、何も分からないことには、何もしてあげられないから……。もうちょっと話、してみようか。
俺も眠気覚めちゃったし」
「すいません」
「あー、うん。そんな何回も謝んなくていいからさ。
俺こそ、なんか、ぜんぜん配慮とか出来なくて……。
ごめんね?」
俺が明るく切り替えても、澪と名乗った少女は謝るばかりだった。
敵意がなさそうなのは幸いだが、陰気が過ぎるのも扱いに困る。
「あの」
「ん?」
簀巻き状態から抜け出した俺は、布団の上に胡座をかいた。
すると今度は、少女の方から話し掛けてきた。
「あなたの名前は、なんと仰るのですか」
そういえば、こちらは自己紹介をしていなかった。
少女に名乗らせた手前、こちらも名乗って返すのが礼儀か。
「二見賢二。
下の名前で呼ばれる方が慣れてるから、君が構わないなら、ケンジって呼んで」
「分かりました。
じゃあ、ケンジさんって、呼ばせてもらいます」
"ケンジさん"。
女の子に名前を呼ばれるのは学生以来だ。
妙な気恥ずかしさで、背筋がムズムズする。
「あ」
「え?」
「あ、や、なんでも……」
結局のところ、少女はいつ、俺の部屋に現れたのか。
眠りに就いた直後か、目を覚ます直前か。
枕元のデジタル時計を確認すると、現在時刻は2時11分。
見事なまでに、丑三つ時だった。
一瞬にして、ムズムズがゾクゾクに変わった。