第十四話:臥籠
自室を出なくなって、俺は夢を見るようになった。
大きくなったら何になりたい方じゃなく、レム睡眠とセットの方を。
「───お昼なんにするー?」
「なんなら出来るの?」
「麺があるからー、うどんか蕎麦のどっちかにしようと思うんだけど、どっちが良い?」
「おまえの好きな方にしなさい。私はなんでもいいよ」
「じゃあー、うどんにしようかな。たまには天ぷらも揚げちゃうか!」
現実と寸分違わない、ありふれた日常の夢。
登場人物はお馴染みの面子。父さんと母さんとばあちゃんと、定期的に家にやって来るヘルパーさんと、医療関係の人達。
舞台も決まって家の中で、リビングやら庭やらを縦横無尽に徘徊する。
ただ、何故だか自室には行けなかった。いつも自室の前から夢は始まり、自室のドアには鍵がかかっていた。
行けないというより、中に入れないというのが正しいか。
せめて夢でくらい、ファンタジーだったり美少女ハーレムだったり、現実じゃ味わえないポジティブな体験をさせてくれたら良いのに。
がっかりしながらも、日常であって非日常な風景を、俺は段々と楽しむようになった。
「───次のヘルパーさん、どんな人かしらね」
「若い子って言ってたわよ?女の子。どんな子かは会ってからのお楽しみだって。妙なこと言うわよね」
『おれは前の人のままで良かった』
「私はどんな子が来ても、有り難くお世話になるだけよ」
同じ条件、似た状況。
こう何日も続けば、理解も深まる。
まず、夢の中の俺が、どういう立ち位置にあるか。
これは当初に判明したことで、端的に言うと透明人間みたいなものだった。
自室に戻ろうとドアノブに手を伸ばすと、伸ばした手が視界のどこにも見当たらなかった。
それどころか足も、腹も顔も透けていて、洗面所の鏡には洗面所しか映らなかった。
触覚はあった。自分で自分の体は確かめられたし、床を踏み締める感触もあった。
だがドアを開けたり物を拾ったり、母さん達に接触したりなど、周りに干渉する行為はできない。逆に干渉もされない。
以上の経験則から、俺は夢の中の自分が透明人間、または概念的なものであると定義した。
「───ちょっと嵩道の様子見てくるわ」
「また聞こえないふりするだけじゃない?」
「それでも一日一回は最低声かけてやんないと。変に拗ねられても困るしね」
『余計なお世話だバーカ』
実体を持たない。
誰も俺の姿が見えないし、俺の声が聞こえない。
喚こうが叫ぼうが、走ろうが跳びはねようが無問題。
とんだ虚構を得てしまったと、高笑いしたら残響すらしなかった。
「───うん。取り立てて異常はないですね」
「よかった……。こないだはあんなに痛がってたのにね」
「本当にねぇ」
「気温や湿度によっても変わるものですからね。
薬はいつもと同じの出しておくんで、忘れずに飲んでください」
「はい。ありがとうございました」
往診って大変そうだよな。白衣を着てる人には漏れなく、頭が下がる。
家族に引きこもりのやつがいるってことは、母さん達どう説明してんのかな。
そもそも息子がいるって認知されてんのかな。
「───お、ドーナツ買ったのか。珍しい」
「たまには美味しいもの食べないとねー。
あ、チョコのは嵩道のやつだから取っといてよ」
「これか。毎回だな」
「なんだかんだ一番好きみたいだからね。本人も"またかよ"って思ってるんだろうけど」
ああ、母さん。またこれ買ってきたのか。
一回俺が美味しいって言っちゃったやつは、俺が止めるまでリピートしてしまう。
嬉しいけど、10年連続は流石に飽きるよ。
「───おっと。大丈夫ですか?」
「あらら……、ごめんなさいね。大丈夫。
そちらこそ、腕を痛めなかった?」
「なんともありませんよ。お手洗いですか?」
「いえ、ちょっと水差しが切れたものだから」
「それなら僕が汲んできますよ。お母さんはどうぞそのまま」
珍しいな、こんな夕方に父さんいるの。
早く昇級したいからって、毎日働きすぎなんだよ。
半分はおれのせいだろうけど、もうちょっとセーブしてほしい。
「───やだもう、なにやってんの」
「はは、すまんすまん」
ふと芽生えた疑問。
もしかして、これは正夢なんじゃないだろうか。
母さんの買ってきたドーナツも、父さんが珍しく残業なかったのも、現実とリンクしている。
偶然が重なったにしては、あまりに頻度が多い。
となると俺は、夢を通して、千葉家に実際に起こったことを傍観しているのか。
確証はないが、それならそれで良い。自室を出られない現実の俺に代わって、夢の俺が家族の様子を観察すればいい。
だって、俺が居ると、みんな気まずそうな顔をするから。
だったら俺抜きで羽を伸ばしてるみんなを、透明人間になって見守る方が、互いに傷付かない。
「───嵩道?」
しかし、呑気に傍観者ぶっていられたのは最初のうち。
すっかり手応えを覚え、床に入るのが精神的にも癒しとなり始めた頃、均衡が崩れた。
「なにしてるんだい、そんなとこで」
いつものように夢を通して一家団欒を覗きに行ったら、ベッドに座るばあちゃんと目が合った。
名前を呼ばれた。譫言なんかじゃなく、はっきりとこちらに意識を向けて。
こんなの初めてだ。夢の俺は、いてもいない存在じゃなかったのか。
驚いて一歩後ずさると、自分の手足が視界に映った。
つい昨日まで透明人間だった俺は、もうそこになかった。
「───嵩道?どこにいる?」
「え?なに言ってんの、目の前にいるじゃないか」
「目の前って……。嵩道ー?いるのー?」
母さんは気付いていない。
ばあちゃんにだけ俺が見えているとしたら、なんで急に?
なんで、ばあちゃんだけ?
「───お母さんなら、さっき出掛けたよ。お腹空いたのかい?」
その翌日も、ばあちゃんは夢の俺を視認した。
相互干渉ナシで自由なのが醍醐味だったのに。夢でも俺は、ばあちゃんに弱みを握られるのか。
と思いきや、その翌々日は、あっさりスルーされた。
意図的に無視されているのではなく、前と同じで視認できていないようだった。
今回と前回の違いといえば、就寝した時間帯だ。
ばあちゃんが俺を視認できなかった日は深夜。視認できた日は日中。いずれもレム睡眠だ。
そういえば夜に見る夢は、一日あった出来事を客観視する感じだった。
昼に見る夢は現在進行形で、視界も動作もクリアだった。
つまり夜の夢がいわゆる"正夢"で、昼の夢が"明晰夢"に体感近い?
人に答えを聞けないのがもどかしい。
「───おはよう、嵩道」
ものは試しと数日後。
睡魔をこらえて徹夜し、家にばあちゃんと俺の二人になるタイミングで昼寝をした。
直ぐに覚醒した"明晰夢の俺"は実体を持っていた。
この状態ならばとリビングへ向かうと、案の定ばあちゃんに見付かった。
『おはよう』
ばあちゃんに認識される条件はだいたい絞れた。
次はコミュニケーションだ。恥を忍んで話し掛けてみることに。
「おや、今日は側に来てくれるのかい」
残念ながら、意思疎通は叶わないらしい。
自分で自分の声が聞こえても、ばあちゃんには届かない。
多分ばあちゃんには、俺が一生懸命に口をバクパクさせているように見えるんだろう。
俺は会話にならないのを承知で、ばあちゃんのいるベッドへ近付いた。
「まだ怒ってるのかい?」
『怒ってないよ』
「久しぶりに話をできると思ったんだけどねぇ」
『おれもそうしたかったよ』
物言わず側で佇む俺に対して、ばあちゃんは不思議そうに、嬉しそうに話し続けた。
俺も心苦しい反面、酷く懐かしかった。
「───あら、今日も早起きね」
『………。』
「まだ口を利いてくれない?」
『ごめん』
「なのに一緒にいてくれるのねぇ。不思議な子だよ」
時々、夢の世界のばあちゃんに会いに行った。
お喋りできなくても、触れなくても、ばあちゃんと空間を共にしたくて。
所詮は幻なのだからと、自分自身に言い聞かせて。
「───本当に、おまえは関係ないんだね?なんにも知らないんだね?」
ばあちゃんがお前の幻覚を見るようになった。
当事者として何か心当たりはないか。
母さんが俺の自室へ直談判に来た。
そこで漸く、俺は事の重大さを自覚した。
俺が意図して会いに行くのは、ばあちゃんが家に一人でいる時。
なのにそれ以外の場面でも、ばあちゃんは俺の幻を見ることがあるという。
俺の推測は的外れだったのか。
俺が自覚していないだけで、夢遊病の症状でも出ているのか。
まるで見当がつかないが、腑には落ちた。
ばあちゃんの妄言が始まったのは、俺の夢が始まったのと、ほぼ同時期。
俺の夢は俺個人の問題に留まらず、本当に現実とリンクしていたんだと。
「───待子がねぇ、言うのよ。私が幻覚を見てるんじゃないかって」
『………。』
「本当にそうなの?おまえは本当の嵩道じゃないのかい?」
『………。』
「そうよね。さすがに変だもんね。いくら怒ってるからって、ずっと黙ってるわけないもんね」
『別に怒ってないよ』
「でも、良いわ。おまえが幻でも。本当の嵩道は、私の顔なんて見たくないでしょうし」
『そんなことないよ』
「みんなには、頭のおかしいばあさんだと思われてるんだろうねぇ。
本物と幻の区別もつかないなんて、いよいよお迎えが近いかしら」
良くないと分かっていた。
ばあちゃんが痴呆扱いされるのは嫌だし、現実とのギャップが開きすぎるのも困る。
自分でさえ理解が及んでいないものに傾倒していくのは、俺にとってもばあちゃんにとっても危険だ。
「───あら。もしかして、また幻さん?」
『うん。ごめん』
「最近よく出るわねぇ。そんなに恋しがってるのかしら、私」
『ごめん』
「今は私しかいないから、どうぞいらっしゃいな。よく顔を見せておくれ」
でも、やめられなかった。
事情を説明して、改めて仲直りをお願いする。それが無難、それが最善なのに。
これまでせっせと足を運んだのが無かったことにならないと知って、恥ずかしくて申し訳なくて。
そんな気持ちが、胸の奥でどんどん大きな痼になっていった。




