第一話:萌芽 5
8月初旬。
松笠ビルディングでの騒ぎから数日後。
出歩けるほどに回復した深山さんが、ふたみ商店まで訪ねてきた。
「───これ、僕の好きなお店のお菓子なんです。
良ければ召し上がってください」
騒ぎの二日前のこと。
松笠ビルディングで巡回を行っていた深山さんは、例のエレベーターが誤作動を起こしている場面に出くわした。
中に入って調べたところ、何者かに悪戯された形跡はなく。
エレベーター自体のシステム異常で、稼働したり停止したりを繰り返している様子だった。
悩んだ深山さんだったが、これは自分の手に負えないと判断し、一先ず本社に連絡することにした。
その時だ。
タイミングが悪かったのか、体のどこかが開閉ボタンに触れたのか。
深山さんが外へ出る前に、エレベーターの扉が閉じてしまった。
同時に電源まで落ちるという不運が続き、深山さんは敢えなく、エレベーター内に閉じ込められたのだった。
困った深山さんは、素手で扉をこじ開けられないか試みた。
しかし、密閉空間では体勢をとれず、自力ではとても無理だった。
次に深山さんは、電源が復活しないか設備をいじってみた。
しかし、専門じゃない深山さんでは、何をどうすればいいか分からなかった。
最後に深山さんは、もっと早くにそうするべきだったと、誰彼構わず助けを呼ぼうとした。
しかし、エレベーター内の電波状況は不安定で、電話もメールも繋がりそうになかった。
かくして深山さんは、試行錯誤の全てが失敗に終わり、いずれ来たる死を待つ以外になくなった。
万事休すに至った、というわけである。
「───それが、ですね。途中から全く記憶がないんですよ。
お腹は空くし、空気は薄いし、エコノミー症候群になりそうだしで、苦しくて……。それでだんだん、意識が遠退いていって……。
ああ、僕はこのまま死ぬんだなって、ぼんやり思っていたら、いつの間にか気絶しちゃったみたいで。
気が付くと、搬送された病院にいて……」
空気は薄く、視界は暗く。
冷たい壁に囲まれて、足を伸ばすことも出来ない。
手元にあるのは、いつも持ち歩いている携帯食料が一箱と、宿直中に飲もうと買っておいた缶コーヒーが一本だけ。
誰だって、死を覚悟して然るべき窮地だ。
当時の記憶が曖昧なのは、不幸中の幸いかもしれない。
とはいえ、だ。
エレベーターの中でのことを覚えていなくとも、エレベーターの外であったことは覚えていてもらわないと困るのだ。俺が。
何故なら俺は、エレベーターに閉じ込められていたはずの深山さんと、エレベーターの外で会っていたのだから。
「───中森さんに話を聞いたら、僕があなたに間違い電話をした?とかで。
結果あなたが、あそこまで中森さんを案内してくれた、ってことだったんですけど……。
これって、どういうことなんですかね?
僕はそもそも、あなたの連絡先を知らないですし。
それに、あのとき僕の携帯、ほぼ圏外だったはずなんですけど……」
生身の深山さんと再会できたからには、最初に出会った深山さんは幽霊、ではなかったのだろう。
じゃあ、あれは一体なんだったんだ?
幽霊じゃないのなら、なぜ同じ場所に同じ人間が、同時に存在していたんだ?
深山さんの姿をしていた以上は、深山さんに関係する何かのはず、なのに。
当の深山さんにも覚えがないとか、もうお手上げだ。
「───俺もよく分かんないですけど……。
誰かに連絡をしようとして、番号を打ち間違えて俺に、じゃないですかね?」
「そう、なんでしょうか」
「意識が朦朧ってことなら、記憶違いとか、前後とか。
人間、いっぱいいっぱいになると、自分でも想像つかないような行動取ったりするって聞きますし」
「なるほど……。
あ、いやでも、電波は────」
「そこはホラ。圏外といっても、ほぼだったわけですし。
たまたま通じた瞬間に、たまたま繋がったんじゃないですか?」
「うーん……。履歴には何も残ってなかったんだけどなぁ」
「……ちなみになんですけど、ご実家のほう、お寺か神社だったりします?」
「え?いいえ。
普通の、どこにでもある家、だと思います。
どうしてまた?」
「あー……。
気になるようなら、お祓いに行くってのもアリかなと」
「なるほど、そうですね。それもいいかもしれない」
ちなみに。
深山さんが救急搬送された後、中森さんは深山さんの付き添いで病院へ。
片や俺は、警察署にて事情聴取を受けた。
こっちはこっちで、大変だった。
騒ぎのバタバタは素より、精神的に堪えるという意味では、こっちの方が大変だった。
間違い電話で深山さんの危機を知った、までは理屈として認めてもらえた。
ただ、さすがに都合が良すぎたせいで、実はお前が犯人じゃないかと疑われたのだ。
代理ミュンヒハウゼン症候群とか、演技性パーソナリティ障害とか。
"困っている人を助けた英雄的な自分"を演出したいがために、俺が深山さんを陥れたのではないかと。
深山さんの記憶が明瞭だったり曖昧だったりしたおかげで、なんとか辻褄は合わせられた。
そうでなければ俺は前科者になっていたかもしれないと、今考えても寒気がする。
「なんであれ、あなたのおかげで助かったことには変わりません。
その節は本当に、ありがとうございました」
結果として、俺は深山さんの命を救った。
言い方を変えると、命は救えた。
厄介事に首を突っ込んで、丸く収まるケースは滅多にない。
伝聞にも経験則にも、善人ヅラは碌な生き方じゃないし、俺は善人ヅラさえ向いてない。
だから、今後は出来るだけ、大人しくする。
明らかに困っている人が目の前にいても、その人から助けを求められない限りは、構わないようにする。
薄情だろうが冷淡だろうが、俺に誰かを救う力など、本当はないのだから。
それに。
もし、間に合っていなかったら。
発見した時には既に、深山さんは亡くなっていたとしたら。
やっぱり、厄介事には首を突っ込むべきじゃないんだ。
「俺は別に、大したことしてないんで。元気になって良かったです。
お大事に───」
世にも不思議な現象の数々。
深山さんが撃鉄となったそれは、今後とも俺の身に降りかかる。
ということを、この時の俺は、まだ知らなかった。