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第十二話:白日夢



9月22日。深夜。

ちょうど日付を跨いだ時分に、俺は眠りから覚めた。

もう一度寝直そうとするも、変に冴えてしまった頭では雑念が湧くばかり。

睡魔が戻ってくるどころか、寝返りを打つ度にみるみる覚醒していくようだった。



「(いっそ起きちまうか)」



このままではウダウダと朝を迎えるだけと判断し、一度起床することに。

適度に外の空気を吸えば、また落ち着いて休めるようになるだろう。

却って元気になってしまったなら、その瞬間から今日一日を始めるでも良い。


そうと決まれば即行動。

ぬくい布団の中から抜け出し、ペットボトルの水を半分飲む。

寝間着のまま薄手のカーディガンを羽織り、そろりそろりと自室を後にする。




「(澪さんは───……。まだ寝てるか)」



澪さんのいる書斎前を通る時、中からは何の物音もしなかった。彼女はまだ寝ているようだ。

俺の気配で起こしてしまわないよう忍び足で廊下を渡り、階段を下りる。


一階も消灯されたままで、水を打ったような静けさに包まれていた。

寝室の方に意識を向けると、鼾まじりの寝息が微かに聞こえてくる。

よしよし。親父もすっかり寝入っているな。

全員無事に就寝中であることを確認し、兼用の突っかけを履いて勝手口から出る。



「(さむ───、くはないな。いいか)」



引き戸を引くと同時に、涼しい夜風が頬を撫でていった。

やや肌寒いが、上着を足してくるほどではない。

下駄箱の上に置きっぱなしにしている鍵で戸を施錠し、とりあえず歩き始める。



「(だーれもいねえ。そりゃそうか)」



公道に出てみても、人っ子一人いなかった。

なにせ今は丑三つ時だ。繁華街の方では多少活気が残っているかもしれないが、こんな寂れた通りを真夜中に徘徊する奴なんて他にいないだろう。


あ、そういや丑三つ時。

改めて周囲をぐるっと見渡すも、やはり誰もいなかった。

丑三つ時といえば"お化けが出そう"で知られる時間帯だが、お化けとは基本幽霊を意味する言葉。

俺の知る生き霊達は真昼にも普通に出現するわけだし、夜だからといって特別増えたりはしないようだ。一安心。



「(なんか久しぶりに一人になったかも)」



星の疎らな空の下、年季の入った街灯に照らされた道を、当てどなく進む。

時折横切っていく車のエンジン音と、自分の力無い足音以外は何も聞こえない。

人間も動物も皆、床の中で夢路を旅している最中。

現実の世界を歩いているのは、今ここだけは俺一人。


誰にも気遣わず期待せず、自分自身にも不要に落胆しないで済む。

頭からっぽで息だけ吸い、移りゆく景色を目に入れて頭に入れない。

血が静まる。空気がうまい。

四六時中そばにいる澪さんの存在を煩わしく思ったことはないが、たまにはこうして一人で過ごすのも良いものだ。




「(あれ。ここって────)」



ふと気が付くと、俺は交差点の横断歩道で信号待ちをしていた。

無心で歩き続けるうちに、知らず知らずと遠くまで来てしまったらしい。


横断歩道の向こうにあるのは、"天木自然公園"。

遊具のバリエーションが少ない代わりに緑の多めな、素朴で昔懐かしい雰囲気の公園。

近隣の子供達、お母さん達にとっての憩いの場だ。


意外とシンボルチックなところに出てしまったが、せっかくだ。公園の緑を一回り見物してから帰るとするか。

青になった信号に導かれるようにして、前へ前へと足を運ぶ。

途中、見覚えのあるシルエットが視界の端に映った。



「(あれは────)」



ブランコの一つに腰掛けた、華奢な人影。

どうやら先客がいるようだが、あの撫で肩に細い腰。後ろ姿だけなら、俺の知り合いとよく似ている気がする。


もしかして。いやまさか。

近付くほどに既視感は増し、公園の敷地内に入る頃には確信を得ていた。



「───高谷さん?」



背後からそっと声を掛ける。

人影の人物は二拍ほど間を置いてから、勢いよくこちらに振り返った。

しっかり音を立てて来たはずだが、驚かせてしまったか。



「あ……、すいません急に。高谷さんかなーと思って近付いたら高谷さんだったんで。

どうしたんすかこんな時間に?」



高谷(たかや)(きり)さん。26歳。

うちのご近所さんの一人で、介護福祉士の資格を持つ女性。

ふたみ商店にも度々買い物に来てくれる常連客で、千代バアや耕作ジイも仕事関係で世話になっているという。

黒髪のワンレングスボブに涼しげな顔立ち、スラリとした長身が印象的で、俺の中では千明ちゃんに並ぶ美女である。


そんな彼女が、何故こんな時間に、こんなところで放心しているのだろうか。

身に付けている黒の上下はパジャマにも見えるし、俺と同じく軽い散歩か?

なんでも良いけど、若い女性が夜中に一人歩きをするのは危険だ。



「あの、高谷さん?大丈夫ですか?」



返事がなかったので、再び声をかける。

しかし二回目も反応はなく、高谷さんは呆気に取られた様子で俺の顔を凝視するばかりだった。


俺の登場がよほど意外だったのか、今の彼女は人には見られたくない姿だったのか。

なんにせよ、俺に会えて嬉しそうでないのは確かだ。



「ケンジくん?」



ようやく喋ってくれた高谷さんは、前下がりの毛先を耳に掛けた。

薄明かりでも見て取れる、動揺した表情と懐疑的な眼差し。

間抜けと言っては失礼だが、彼女にもこんな人間くさい一面があったのだな。

クールで知的なイメージしか知らなかったから、意外だ。



「はい、二見です」


「ケンジくん……。こんな時間にケンジくん……」


「はい。こんな時間に二見です」



俄に信じられないとでも言いたげに、高谷さんは目と口の両方を真ん丸と開けた。

"誰かと鉢合わせた"ことが、というより、"鉢合わせた相手が俺だった"ことに驚いている感じだ。

酷い出無精、なんなら引きこもりくらいに思われてたのかな、俺。



「なに、してるの、ケンジくん」


「なにって───ほどでもないですけど。ちょっと散歩です。寝付けなかったんで」


「ああ、散歩……」


「高谷さんは?」


「え?ああ、私は、あの、散歩です。私も」


「こんな時間に?」


「わ、たしもちょっと、寝付けなかったから……」


「へえ」



生返事というか、心ここに在らずというか。

最近は店にも顔を出していなかったし、仕事が忙しくてお疲れなのかもしれない。

本人が散歩だというなら、これ以上は詮索してやらない方が良さそうだ。



「なんでも良いですけど、さすがに女性の一人歩きは危ないですよ。この辺り街灯も少ないですし」


「ああ、そうだよね、ごめん。すぐ帰るから」



俺に急かされる形で高谷さんは立ち上がった。

別に責めてるわけじゃないのに、何か少し焦っている?



「送ります」


「エッ!?いいよそんな!」


「そんなって、一人で帰すわけにいきませんよ」


「ッダ、大丈夫だって。すぐそこだし」


「すぐそこなんだから遠慮せずに」


「あ、私この後コンビニ寄る予定あって」


「じゃあコンビニも────」


「だからいいの本当に!」



頑なに俺の見送りを拒む高谷さん。

どの階のどの部屋かまでは知らないが、マンションの住所なら俺も把握している。

生活圏内を特定されたくないから付いて来ないでほしい、わけじゃないなら、何をそんなに嫌がるのか。

前に送った時は素直に受け入れてくれたのに。



「ト、とにかく。ケンジくんの気持ちは嬉しいけど、送ってくれなくて大丈夫だから」


「でも────」


「なんならダッシュで帰るし!逆に私が不審者くらいの勢いで帰るからケンジくんも変態に気をつけて早足で帰るといいよ!ホイナラ!」



一方的にそう捲し立てると、高谷さんは俺の制止を無視して脱兎のごとく走り去ってしまった。



「ホイナラ……?」



何だか様子がおかしかったな、今日の高谷さん。

えらく挙動不審だったし、いつになくボキャブラリーが愉快だったし。

やっぱり散歩なんて嘘で、人には見られたくない場面だったのだろうか。

声かけない方が本人のためだったかもしれない。



「ホイナラ……」



高谷さんの気配を残したブランコが、か細い音を立てて前後に揺れている。

つい先程まで目の前にいたはずなのに、本人がいなくなった途端すべてが幻だったように感じられる。

白く浮かび上がった肌も、浅く皺の寄った眉も、うまく煙に巻こうと尖らせた唇も。もう朧げにしか思い出せない。

自分の鼻をつく草花の匂いや、地面を踏み締める足の感触さえ、急に現実味がなくなってくる。

此処にいて此処にいないみたいな、つい頬を抓って意識を確かめたくなるような。



「まさかな」



一抹の胸騒ぎを覚えながらも、高谷さんに続いて公園を去る。

この夜に起こった不思議体験の真相は、後日すぐに明らかとなった。



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