第十一話:泡沫 5
午後3時。
バーバチカを出た俺と澪さんは、その足で大学病院へと向かった。
本当は店から直帰する予定だったのだが、まだ時間があるので寄り道だ。
病院内には入らず、一般開放もされている中庭へ。
ここは、凛太朗さんと千明ちゃんが最後の逢瀬に選んだ場所だ。
景色自体に変わりはないはずなのに、前より特別な光景に見えるのは、当時の記憶がフィルターとなっているせいだろう。
花壇の花も、足元の芝生も、高い空も疎らな雲も。
入院患者と見舞い客が睦まじくやり取りする様子も。
どこか薄ぼんやりと白んで見えて、ここだけ別世界のようだ。
不謹慎かもしれないが、天国みたい、と言うのが一番近い気がする。
「───なんだか、懐かしく感じますね。まだそんなに経っていないのに」
俺が言おうとした台詞を澪さんが先に言った。
俺は同意し、花壇そばのベンチに澪さんを誘った。
「千明さん、思ったよりお元気そうで良かったですね」
「そうだね」
「きっとたくさん、わたし達が想像するよりずっとたくさん、辛い思いをされたでしょうに」
「そうだね」
「強い人ですね」
「……そうだね」
ベンチに並んで座り、二人揃って初秋の空を仰ぐ。
俺は鞄から"あるもの"を取り出し、膝の上で広げた。
「それは?」
覗き込んできた澪さんが首を傾げる。
「凛太朗さんと千明ちゃんがよく食べてたやつ。
店の商品なんだけど、買って持ってきた」
あるものとは、ソーダ味のソフトキャンディー。
凛太朗さんと千明ちゃんの思い出の品で、このあいだ千明ちゃんがウチへ来た時にも少し触れた。
これを俺は出掛ける前に購入し、鞄に忍ばせておいたのだ。
「今食べるんですか?」
「うん。3時だし」
「3時のおやつですね」
「カステラじゃないけどね」
3時のおやつだから、というのは半分口実だ。
ここに寄り道しようと提案したのも、これを俺が持っているのも偶然ではない。
ご実家の方に直接伺うのは気が引けるけれど、ここだって凛太朗さんと縁深い場所。
むしろ俺にとっては、凛太朗さんといえばここなんだ。
だから、凛太朗さんが眠った場所で、凛太朗さんを偲びながら、凛太朗さんが好きだったものを食べよう。そう思って、事前に準備して来たんだ。
正式な形でなくとも、真心が伴ってさえいれば弔いになると信じて。
「はい」
キャンディーの中身を取り出し、空いている左手を澪さんに差し出す。
澪さんは俺の人差し指をそっと握ると、目を伏せた。
キャンディーを一粒、自分の口の中に放り込む。
舌の上で溶かすように、ゆっくりと転がす。
甘酸っぱくて優しい味わいが、俺の脳に伝達される。
触れ合った箇所を通じて、澪さんにも伝わっていく。
「凛太朗さんっぽい味、な気がします」
「わかる」
キャンディーを飲み込むと、俺は鞄から追加で別のものを取り出した。
今度はチョコレートのお菓子。モモが好物だと言っていたものだ。
「せっかくだから、これも食べよう」
澪さんは無言で頷いた。
俺はお菓子も、よく味わって食べた。
この体質になってから、生霊と関わるようになってから、約一ヶ月。
まさかこんな短期間で、二人も見送ることになるなんて。
夢にも思わなかったし、今でもちょっと信じられない。
けれど、間違いなく現実だ。
確かに俺の周りで、俺の知る人が二人亡くなった。
母の存在も含めれば、凛太朗さんで三人目だ。
慣れる、ことはない。
大して深い仲でなくとも、死ぬと覚悟していた相手でも、さよならの瞬間は辛く悲しい。
彼らの分までと言えるほど、自分は自分の人生を大切に生きているか、胸を張れる自信もない。
ただ、前より卑屈じゃなくなった。
胸を張れる人生でなくとも、俺は今を生きている。
健康で、食うに困らなくて、俺を好きだと言ってくれる友達もいて。
こんなに幸せなことが他にあるだろうか。いや、ない。
誰に褒められなくとも、見返りがなくとも。
彼らがいたおかげで、俺は自分の命に感謝できるようになった。
以前までの俺だったら、理を理解できても、肌で実感はしなかっただろう。
「───ケンジさん」
ふと澪さんに話し掛けられる。
そちらに視線を向けると、彼女は俯いていた。
俺と触れ合っていた手も、いつの間にか離れていた。
「どうしたの?」
「……実は、このあいだから、考えてることがあるんです」
なにやら深刻そうな顔。
俺は姿勢を正し、澪さんの二の句を待った。
「あの時、凛太朗さんの病室にお邪魔した時───。
……いえ。たぶん、"本物"の凛太朗さんの姿を見た時に、感じたんです」
「なにを?」
「既視感というか、懐かしさというか……。うまく言葉に出来ないですけど、なにか、自分と関係あるような、他人事じゃないような気がしたんです」
本人も言う通り、あの時の澪さんは確かに変だった。
心ここに在らずというか、魂が抜けたようというか。まるで人形みたいだった。
凛太朗さんの厄主が想像以上の有様だったから、驚いてしまったのだろう。
当時の俺はそう推測したが、本人は当時から明確な違和感を覚えていたという。
驚く他に、いわゆる第六感も刺激される感じ。
俗に言う、デジャヴだ。
「澪さんも過去に入院した経験があるとか、病気を患ってる、とか……?」
俺は心臓が悪い意味で脈打つのを感じながら、恐る恐る尋ねた。
澪さんは首を振ると、気のせいかもしれないから確かなことは言えないと答えた。
ついさっきも過ぎったばかりの、悪い予感。
俺が覚悟する以上に、澪さんに残された猶予は少ないのかもしれない。
「そんな顔しないでください」
黙ってしまった俺を心配して、澪さんが眉下がりに微笑む。
「まだわたしが病気と決まったわけじゃないですし、本当に気のせいかもしれませんから。
今だってほら、こんなに元気!生霊ですけど!」
「そう、だね」
無理に元気に振る舞う澪さんが、見ていて痛々しい。
俺は男で年上のくせに、自分の感情を持て余すばかりで、彼女を勇気付けてやる気さえ起きなかった。
「たとえ病気だったとしても、わたしはそれを治してほしくて、ケンジさんに会いに来たんじゃないと思います」
「なら、なんで」
「わかりません。わかりませんけど。わたしは多分、何かをしてほしいからじゃなくて、ケンジさんに会いたかったから、会いに来たんです。
こうしてケンジさんの隣にいると、そう思うんです」
今のが本音なのか方便なのかは分からない。
ただ、どちらにしても手放しには喜べず。俺は一言"ありがとう"としか返せなかった。
「だから、もしわたしが突然消えたりしても、どうか気に病まないでください。
ケンジさんと一緒にご飯を食べたり、色んなとこに行ったり。全部とっても楽しかったから。その思い出を頂けただけで、わたしは充分です」
なんで澪さんに、こんなこと言わせてんだ俺は。
そんな悲劇にはさせない。必ず俺が何とかする。君を在るべきところへ返す。心配しないで。
言えよ。それくらい。気休めでも何でもいいから言ってやれよ。
「(いえない)」
言えない。やっぱり言えない。
空我の末路を知っているから。自分の非力を分かっているから。
俺に任せろなんて、強がれないし、約束できない。
気に病まないでくれなんて、頷けないし、約束したくない。
「その言い方じゃあ、別れの挨拶みたいだよ」
先程の桂さんの台詞を引用して誤魔化す。
澪さんは"本当ですね"と言って立ち上がった。
「そろそろ行きましょう。この後ケンちゃ───。
……ケンジさんには、大事なご用が控えてるんですから」
澪さんが一度つかえて言い直したのを、俺は聞き逃さなかった。
「また言ったね、それ」
「う……。すいません。つい口が勝手に」
澪さんと初めて会った時、何故か澪さんは俺を"ケンちゃん"と呼んだ。
友達にも親父にも、ご近所のオバさん達にも、そんな風に呼ばれたことはないのに。
以降も度々、澪さんのケンちゃん呼びは発動した。
人前だと緊張があるからか滅多に出ないが、俺と二人きりになると途端にポロポロ零れ出す。二日に一度は必ずだ。
「そんなに引っ掛かるなら、いっそケンちゃん呼びで固定したら?」
「えっ?で、でも他にそんな呼び方してる人いないですよね……?」
「身近にはいないけど……。親戚で言う人は何人かいるよ」
「わたし親戚じゃないです……」
「そんなの拘らなくていいよ」
菓子類を鞄に戻し、俺も立ち上がる。
「最初は俺も照れ臭くて、出来れば"ちゃん"以外でとか言っちゃったけど。
つっかえる君を見てる方が気になるし、いいよ。口に馴染む方で呼んで」
「ほんとにいいんですか?」
「うん。なんなら敬語もいらないし」
「そっ、そんな滅相もないです!」
「だからいいんだって。敬語使ってもらえるような人間じゃないし俺」
「そんなことないです!わたしにとってケンジさんは敬うべき人です!」
「うん、あの、ありがとう。そういうことじゃなくてね」
困ったり狼狽えたり熱くなったりと、澪さんの百面相が次々に入れ替わる。
感情表現が豊かになったという点でも、一ヶ月の歳月を感じる。
「じゃあ……、ケンジさんも、呼び捨てにしてください」
「俺が?君を?」
「はい!澪と!」
思わぬカウンター。
澪さんの言いたいことも分かるが、女の子を下の名前で呼び捨てにするなど小学生以来だ。
今の俺にはハードルが高い。
「それだと何か馴れ馴れしくないかな」
「馴れ馴れしくしてください!もう一ヶ月も一緒にいるんですよ?」
「そうだけど」
「千明さんのことは千明"ちゃん"と呼んでるじゃないですか!なのにわたしだけ"さん"付けなのは変です!わたしとの違いはなんですか!」
「千明ちゃんはホラ、見知った仲だし」
「わたしだってもう見知った仲です!
……………ですよね?」
途中まで押せ押せなテンションだったのに、急に勢いがなくなる澪さん。
これはこれで可愛いけど、彼女に非があるような流れになるのは良くない。
腹を括るしかないか。
「わかった。じゃあ今日から、澪って呼ばせてもらうよ」
自然な調子を意識して呼び方を改める。
たちまち表情が明るくなった澪は、嬉しそうに何度も頷いた。
チクショーかわいいな。美少女にこんな迫られた経験ないから、目眩というか胸やけしそうだ。
「だから君も、俺に対して遠慮とか、変に畏まったりとかしないでね」
「はい!"ケンちゃん"!」
この時の俺はすっかり舞い上がっていたため、気付かなかった。
知らず知らず、彼女のペースに呑まれていたことに。
沈みかけていた俺の気持ちを、彼女の笑顔が呼び戻してくれたことに。




