第十話:痂 2
「───こんにちは~。あら、今日はケンジくんなのね」
するとそこへ、常連の橋田さんが店にやって来た。
千明ちゃんは俺にアイコンタクトをすると、邪魔にならないよう飲み物のコーナーへと下がっていった。
「こんにちは。橋田さんこそ、いつもと時間帯違うね?」
「そうなのよ~。何かと用事重なっちゃってね?お昼ご飯もまだなのよ」
俺は橋田さんと挨拶を交わしつつ、紙袋を足元に隠した。
こちらに近付いて来た橋田さんは、引っ込んだ千明ちゃんの方を気にしつつ小声で俺に尋ねた。
「そ・れ・よ・り・さ!
あちらの綺麗な方は?お友達?」
「あー、うん。ウチの取引先の人」
「アラそうなの!
あ、となると私お邪魔だったかしら?」
「そんなことないよ。ゆっくり買い物してって」
いつも通りにお昼の買い出しを済ませた橋田さんは、いつもより少なめの荷物を持って帰っていった。
橋田さんがいなくなると、タイミングを見計らっていたらしい千明ちゃんがパンコーナーの陳列棚から顔を出した。
「いい?」
「いいよ」
「やっぱり今いそがしかったり?」
「いいって。混む時は混むけど、来ない時は本当ヒマだから」
「そうなんだ」
戻った千明ちゃんの手には、スポーツドリンクのペットボトルと、ソーダ味のソフトキャンディーが握られていた。
「それ買うの?」
「うん。せっかくだから」
凛太朗さんと性情憑依を行った時にも、俺は凛太朗さんの記憶の中で"これ"を見た。
ドリンクもキャンディーも、学生時代の凛太朗さんが好んでいたものだ。
定期的に持ち歩いていたそれを、彼はいつも千明ちゃんと分け合って食べていた。
晴れ渡った空、澄み切った風。
ドリンクの爽やかな喉越し、キャンディーの甘酸っぱさ。
高価でも稀少でなくても、二人にとっては大切な思い出の品なのだろう。
「あげるよ」
「え?いいよそんな───」
「いいから。あげる」
代金はいらないと俺が言うと、千明ちゃんは断ろうとして少し考えた。
「じゃあ、ありがたく」
少し考えて、何かを納得した様子で自分のショルダーバッグに詰め込んだ。
「あの時さ」
「うん?」
聞かないでおこうと思っていた。
二人だけの思い出に首を突っ込むのは、大人として男として野暮だし不躾だと分かっていた。
分かっているけれど。
何でもないペットボトルとお菓子を、宝物のように仕舞う千明ちゃんの姿を見てしまうと。
密かに堪えていたものが、無性に込み上げてしまった。
「あの時、凛太朗さん、なんて言ってたの?」
千明ちゃんの動きが止まる。
「凛太朗が消える直前のこと?」
「うん」
詳しく明言せずとも、千明ちゃんは俺の聞きたいことが分かったようだった。
優しい笑顔は変わらずなので、失礼なやつ、と怒ってはいない。はず。
「そこは聞こえてなかったんだ?」
「うん。聞かないし見ないって約束したから」
「凛太朗と?」
「そう。だから今も、本当は聞くべきじゃないって分かってるんだけど」
「気になるよね、そりゃあ」
「正直。
……ごめん急に。別に答えなくていいから。全然。ちょっと聞いてみただけだから」
ただの野次馬根性か。
あの期間を通して、勝手に二人の保護者気取りになっているだけか。
千明ちゃんの心に色濃く焼き付いているように、俺の心にも凛太朗さんの息吹が移ってしまったのか。
答えは恐らく、全部だ。
「オレのことは忘れてくれ。
───とは言わないって」
「とは言わない……?」
「うん」
どこか遠い目をしながら、千明ちゃんは当時を語り始めた。
"───忘れてくれとは言わない。覚えていて"
"───それでいつか、笑って話せるようになって。
こんなこともあったって、たまに思い出して"
「本当に"忘れて"なんて言われてたら、きっと余計に、色々引き摺ってたと思う。
それを彼も分かってたんじゃないかな」
"───覚えてる。ずっと。何度も思い出すから"
"───いつか誰かを好きになっても、私の初恋は素晴らしい日々だったって、笑って話すから"
「だから、あれが凛太朗にとっても、私にとっても、最初で最後で、最善の別れだった。
……って、思うことにした」
"───おやすみなさい"
「ほんと、いっそ憎らしいほど彼らしいって言うかさ」
"───ありがとう"
"───好きになって良かった"
「そういうところも含めて、好きだったなあって。改めて思ったし、今でも思うよ」
振り返らせたら、また泣かせてしまうんじゃないかと緊張した。
でも千明ちゃんは泣かなかった。怒りも喚きもしなかった。
終始落ち着いた声で、寂しそうに嬉しそうに、漠然と丁寧に話してくれた。
彼女の手短な言葉を聞くだけで、俺は当時の情景が脳裏に浮かぶようだった。
「途中まではさ、あくまで"ケンジくんの中にいる凛"って感じだったんだよ。
なんだけど……、その時は本当に、そこに凛太朗がいるように見えた。自分でも不思議なくらい自然に」
俺は何も言えなかった。
何を言っても千明ちゃんは受け取ってくれるだろうし、どう言っても白々しい台詞になってしまう予感があった。
いや。
俺の中で静かに滾るこの感情を、俺にはどうにも表現できなかった。
「───泣かないで、ケンジくん」
千明ちゃんに指摘されてやっと、俺の目から一筋の涙が伝っていることに気付いた。
「まだ少し、ケンジくんの中に残ってるのかな」
自分から頼んだくせに。
俺が泣くところじゃないのに。
謝ろうにも弁解しようにも、やっぱり言葉は出なかった。
ただ自分の冷たい掌で、自分の熱い目元を覆うことしか出来なかった。
「あのね、ケンジくん」
俺の空いている方の左手を、千明ちゃんが両手で包む。
「たくさん悲しかったし辛かったし、後悔もあるけど。
あの時間だけは、あって良かったって思えるの。心から」
千明ちゃんの肌の感触が、モモの柔らかさを思い出させる。
千明ちゃんの低い声が、達観した話し方が、モモのあどけなさを思い出させる。
「ケンジくんも、色々思うことあるだろうし、きっと私が想像する以上に、大変な毎日を過ごしてるんだと思うけど」
千明ちゃんとモモの共通点は殆どない。
二人は別に似ていないし関係ない。
なのに、今の千明ちゃんの全てがモモを思い出させる。
あの時負った傷痕が疼き始める。
「でも、ケンジくんが居てくれたおかげで、ケンジくんの不思議な力があったおかげで、私は凛にさよならを言えた。
ケンジくんの存在があったから、私達は救われたの」
痛い。苦しい。
なのに嫌じゃない。拒めない。
凛太朗さんとモモの姿が浮かんで消えて、重なって連続して光って散り散りになっていく。
「あなたは人のためになることをした。素晴らしいことをしてくれたの」
胸の奧で閊えていた塊に亀裂が入る。
亀裂から剥がれた欠片が零れ落ちる。
零れ落ちたものが雫になって目から出る。
「だから、この先なにがあっても、今までなにがあったんだとしても」
これだけじゃ、まだ足りない。
まだ、モモを失った悲しみは消えない。救えなかった痛みは癒えない。
報われた気になってはいけない。
いけないけれど。
前より少しだけ涙が染みなくなったことを、認めても良いですか。
誰かの役に立てたことを、喜んでも良いですか。
「あなたが助けた人がいて、あなたがいて良かったって思う人がいるってこと、覚えていて。
あなたはあなたが思うより優しい人だってこと、忘れないで」
"───誰かを救えなかった痛みは"
「あなたは素敵だよ、ケンジくん」
この先なにがあっても、ずっと付き合っていこう。
また一つ増えた思い出と共に、千明ちゃんが言ってくれたような人間に近付けるように。
いつか、この力も思い出の一つになるまで。
記憶を持たない孤独な少女に、道を示してやれるまで。
"他の誰かを救うことでしか癒されない───"
桂さんに立てた誓いが、本物になった。




