第九話:夜明け 4
示し合うでもなく自然とパラペットの付近で足を止めた二人は、眼下の景色を並んで眺めた。
「────さっき」
先に千明ちゃんが口を開き、凛太朗さんが首だけで隣を見遣る。
千明ちゃんは尚も前を見据えたまま話し始めた。
「さっき、いつリミットが来てもいいようにって言ってたけど。そろそろ近いってこと?」
千明ちゃんの首がこちらを向く。
「厳密には、いつなの?こうしていられる限界」
ばつが悪そうに目を逸らした凛太朗さんは、先程の千明ちゃんと同じく前を見据えて返事をした。
「具体的には分からない。日没までには消えると思う」
独り言のように淡々と凛太朗さんは言った。
千明ちゃんは一瞬ぐっと息を呑んでから、溜めていた感情を吐き出した。
「っな───、で。なんでそんな大事なこと────」
千明ちゃんの声が荒くなる寸前のところで、凛太朗さんは千明ちゃんに振り向いた。
反論も弁解も、なにをするでもない。
どんな暴言も悪態も受け止めるつもりで、凛太朗さんはただ千明ちゃんを見詰めた。
そんな凛太朗さんを見て、千明ちゃんは悔しそうに奥歯を噛んだ。
「いや、ごめん。私のためだよね。ごめん。
責めるとか、そんなつもりはないの。分かった」
今度は千明ちゃんが顔を背ける。
互いに目を合わせては逸らしての繰り返し。
食堂で楽しげに向かい合っていたのが、今は遠い昔のようだ。
「オレに言っときたいこととか、もうない?」
「言っときたいこと?」
「うん。聞きたいことでもいいよ。最後だし、全部答える。全部聞く。
言って。千明の思ってること、全部」
声色は穏やかだが、"最後"というワードを出した瞬間、凛太朗さんの意識がちくりと痛んだ。
千明ちゃんも同じタイミングで眉を寄せた。
直に訪れる永遠の別離を、二人とも徐々に実感し始めたのだろう。
「じゃあ、この際だから、気持ち悪いこととかも聞いていい?」
「なんだよ気持ち悪いって。いいよ。聞いて」
意を決した様子の千明ちゃんは、怖ず怖ずと凛太朗さんを見上げた。
「凛はまだ、……いつまで、私のこと、好きだって思ってくれてた?」
"いつまで想ってくれていたか"
過去形が前提なのは、現在も凛太朗さんに愛されている自信がないからだ。
赤らみ始めた頬と耳は、照れや恥じらいからではなく、きっと自分の言動に負い目を感じるからだ。
当初は俺に対する遠慮が多々見られた千明ちゃんだが、もはや体裁を取り繕う余裕もなさそうだ。
今の彼女には、俺の意識がまだ内に残っていることなど思案の外なのだろう。
でなきゃこんな、恋人にしか見せないような顔を無防備に晒すはずがない。
「ずっと。ずっと好きだよ。今も、今の千明が一番好きだ」
悩む素振りなく、凛太朗さんは言い切った。
けれど千明ちゃんは、凛太朗さんの変わらぬ愛情を知っても手放しには喜ばなかった。
「なんで」
千明ちゃんの瞳が段々と潤みだす。
「なんで、そんな優しいの。
私のせいなんだよ?私のせいで死ぬんだよ?
本当ならもっと、色々あったんだよ。楽しい未来がいっぱいあったの。凛の人生はもっと綺麗な、色々あったはずなの。
私が壊したんだよ。なんでそんなやつ、そんなに優しいの」
いよいよ箍が外れてしまったのか、千明ちゃんはぼろぼろと大粒の涙を溢れさせた。
その声は言葉は、凛太朗さんに対する懺悔というより、自分自身への咎めに聞こえた。
「優しくないよ。オレは優しいんじゃない。千明がオレを優しいって思ってくれてるだけ」
「私は────」
「待って。聞いて」
これだけ激しく訴えられているというのに、凛太朗さんは全く動揺しなかった。
それどころか、彼女を宥めようとすらしなかった。
まるでこうなることが前から分かっていたように、不気味なほど凛太朗さんは落ち着いていた。
「オレも最初は恨んだよ、色んなこと。
なんでオレがって何度も泣いたし、なんであんなやつにって相手を呪いもした。
でも、……さっきも言ったけど。別に良くなったんだよ、そういうの。投げやりとかじゃなくて、本当に」
凛太朗さんの視線が下がり、俺の腕が上げられる。
目の前で広げられた掌は間違いなく俺のものだが、多分凛太朗さんは、そこに自分の一生を見ている。
俺の細い生命線に、かつての自分の日々を重ねている。
「もしかしたら、あそこで死んでたかもしれないし、命は助かっても、そこで終わってたかもしれない。いや、そうなるはずだった。
だからむしろ、こうしていられるのは幸運なんだって思った。思うことにしたんだ。
たった一日でも、千明と同じ時間を過ごせたこと。千明にちゃんとお別れを言えること。
それはオレにとって良かったことだから、良かったことだけ胸に仕舞っていこうって、やっと思えるようになったんだよ」
俺の掌が握り拳に変わり、下に引っ込められる。
千明ちゃんは必死に納得しようとして、やっぱり嫌嫌と首を振った。
「そんなこと、そんなこと言わないで。
もっと罵ってよ。ばかやろうって怒って」
「言わないよ」
「言ってよ!じゃないと釣り合わない、私の気が済まないよ。
もっと私のせいにして。立ち直れないくらい傷付けてよ。もっと……っ」
喚く気力もなくなったのか、やがて千明ちゃんは両手で顔を覆って咽び泣いた。
執拗なほどの呵責、深まるばかりの後悔。
いくら凛太朗さんが否定しても肯定しても、それが自分への罰でない限り千明ちゃんは嫌がった。
何度も何度も、自分のせいなんだと繰り返した。
ここまで思い詰めた彼女に、もはや正論は響かない。
美談として収めてしまえば、却って傷は深まるだろう。
どうすれば納得してもらえるのか。なんと言葉をかければ、彼女を苛む責め苦から解き放ってやれるのか。
その答えは俺には分からないが、凛太朗さんならきっと。
『いいですよ』
とっさに衝いて出た台詞。
前後も主語もない、普通だったら"なにが?"と聞き返されそうな意思表明。
それでも凛太朗さんには、俺がどういうつもりでそう言ったのかが伝わったようだった。
「傷付けるわけないだろ、これ以上」
凛太朗さんの足が進み、腕が伸び、千明ちゃんの震える体をそっと包み込む。
俺の頼りない背格好と比べても、こんなに小さく感じるほどだ。
今日までの千明ちゃんの献身が、いかに苦難の伴うものであったかがよく分かる。
「千明はもうめちゃくちゃ苦しんだよ。罪でもないのに償いすぎた。
もう、自分で自分の首を絞めるのはやめてくれ。自分を嫌いにならないでくれ。
オレが愛した人を、これ以上傷付けないでくれ」
壊れ物に触れるように、凛太朗さんは千明ちゃんを力強く抱きしめた。
千明ちゃんは直ぐには抱きしめ返さなかったが、凛太朗さんの胸板に額を寄せて応えた。
「見てたんでしょ、ずっと」
「うん」
「聞いたんでしょ、いろいろ」
「うん。大体は」
「じゃあ、分かったでしょ。私全然いいやつじゃない。人の悪口も言うし、八つ当たりするし、いつも自分中心に考えてる。
凛が好きって思ってくれた私は、凛に好かれたくてイイコちゃんぶってた私なんだよ」
「は、ちっちゃい懺悔だなあ」
「ちっちゃくないよ」
「小さいよ。本当は醜いやつなのはオレだもん。千明の我が儘なんてかわいいもん」
「かわいくないよ」
「かわいいよ。全部ひっくるめて、千明はかわいい」
時折ぐすぐすと鼻をすすりながら、千明ちゃんが弱々しい力で凛太朗さんを抱きしめ返す。
凛太朗さんの温もりを受け取ったことで、少しは冷静さを取り戻したようだ。
「千明は?実は嫉妬深くて女々しくて、面倒臭いオレのこと、嫌いになった?」
「なるわけないよ」
「本当に?」
「ほんとだよ。みんなからも散々言われたけど、嫌いとか絶対有り得ない」
「なに言われたんだ?」
「お前のそれは、もう愛情じゃない。執着だって。可哀相だから側にいるだけだって」
「そうなの?」
「そうなのかなって、自分でも考えたことあったけど。考えて考えて、結局答えは変わらなかった」
「どんな?」
「執着とか、可哀相とかよりも、ただ好きだって気持ちが一番ってこと。
好きだから、側にいたよ」
「オレも。好きだから見てたよ」
目線は交わさない、表情も教えない。
一方的な言い分をぶつけ合い、纏まり良く締め括らない。
小難しい言葉を使わなくても、丁寧に紡ごうとしなくても、確かに通じるものがある。
真に想い合っている二人でないと、こうはならない。
「オレの気持ち、わかった?」
「うん」
「わかるなら、わかるだろ?」
「………うん」
「ごめんな」
「うん。ごめんね」
「ごめん」
「ごめんね。……っ本当に、ごめんね。ごめんなさい。ごめんなさい……っ」
首元が湿って生温かい。
観念した吐息と嗚咽が耳に触れる。
なにが"わかる"のか。
なにに対しての"ごめん"なのか。
飲み込もうとしなくても、勝手に底の底に落ちてくる。
"わかるから、ごめん"
千明ちゃんはやっと、本当の意味で理解したのだ。
凛太朗さんは今日死ぬ。
明日から自分は、凛太朗さんのいなくなった世界で生きていくしかないことを。
呪うばかりだった天に、もはや祈るしか叶わなくなったことを。
「ごめんは、これで最後。いい?」
「はい」
凛太朗さんがゆっくり体を離す。
恥ずかしそうに俯いた千明ちゃんの目尻は、すっかり赤くなっていた。
「はは。子供みたい」
「子供でいいよ。今は」
千明ちゃんの顎に伝った涙を、凛太朗さんが親指で拭ってやる。
二人の間に音のない風が吹く。
微かに肌寒さを感じさせるその風は、二人の膿んだ痛みだけを彼方へ連れ去っていった。
「絶対、もう、どうにもならないんだよね」
「うん」
「戻れないし、生き返ったり出来ないんだよね」
「うん」
「幽霊になって留まったりとかも、無理だよね」
「千明」
「ううん、いい。いい加減しつこいね。言ってみただけ」
短い静寂。
公道を走る車のエンジン音や、幼い少年少女が戯れる声。
遠く離れた地上での営みが、急に大きく聞こえてくる。
「うん。理解した」
千明ちゃんは二度三度と頷くと、精一杯の笑顔を見せた。
「後悔するのは、もうやめる」
その直後だった。
耳馴染みのある音色が、不意に凛太朗さんの、俺の背後から響いてきた。
この音は、中学校か高校の下校を知らせるチャイムだ。
この方角で、この病院から比較的近い学校といえば確か、星森高校だったか。
『(ん…?星森高校って何か……)』
俺が気付くと、凛太朗さんの意識もドクンと脈動した。
「あ────」
四肢の爪先から、じわじわと体温が失われていく感覚。
鳩尾の深くから、じりじりと空洞が広がっていく錯覚。
そんな、まさか。
まだ太陽は沈んでいないのに。
「凛……?どうしたの?」
千明ちゃんが心配そうに顔を覗き込んでくる。
せっかく、やっとフラットな気持ちで向き合えるようになったのに。
このタイミングでの審判は、あまりに性急すぎる。
「悪い。カウントダウン、始まったっぽい」
凛太朗さんが苦笑する。
千明ちゃんは目を見開いて絶句した。
「う、そ……。もう!?でも、さっきは日没までって───」
「言ったろ。確証はないって。さすがにオレも、ここまで急だとは思ってなかったけど」
「うそ、やだ、ちょっと待って。待って、ねえ、凛。苦しいの?痛い?」
「いや、痛みはない。すこし、眠くなってきた気するだけ」
「え、え、待って。待って待ってまだ、まだ全然言いたいこと言えてない……!」
また狼狽し始めた千明ちゃんの目から、止まったばかりの涙がまた溢れてくる。
具体的な刻限は不明だと聞いていたが、それにしたって兆候くらいないものか。
まだ千明ちゃんと再会して、たった4時間だぞ。早過ぎる。短か過ぎる。
このままでは双方に微妙なしこりを残したまま、強制的に引き離される結末を迎えてしまう。
そんなの駄目だ。
『(待て。待て待て待て待てよ。どうにか俺に留める方法。捕まえる。もう少しだけでいい。凛太朗さんを引き留める。入れるのが出来たなら出ていくのをセーブすることも出来るはず。待て待て待て。待てって頼むから急かすなよ。頼むから、あと少しだけ────)』
凛太朗さんと千明ちゃんのやり取りを一旦無視し、俺は水面下で意識を集中させた。
一時間とは言わない。
せめてあと20分、10分だけでも延長させてやってほしい。
慌ただしい最中にではなく、穏やかに別れさせてやってほしい。
誰にでもなく必死に祈った。
すると俺の稚拙な願いが通じたのか、全身を蝕む謎の虚脱感が僅かに和らいだ気がした。
その隙に俺は急いで意識を浮上させ、凛太朗さんに話し掛けた。
『最後のチャンスです。二人だけにしますから、今のうちに』
承諾を得るまでもなく、俺は自分の意識に蓋をした。
祈っている間の凛太朗さん達の声はほぼ聞こえなかったので、さっきのでコツを掴んだのかもしれない。
完全にシャットダウンとまではいかなかったが、少なくとも二人の会話の内容や表情は分からなくなった。
なにより、同期していた凛太朗さんの感情が欠片も入ってこなくなった。
これから凛太朗さんが何を言い、何を思うのか、もう俺には分からない。
「千明────」
凛太朗さんが千明ちゃんの名前を呼んだのを最後に、俺の意識は外界の一切を知覚しなくなった。
「───────────。─────。」
「──────、────────────。
───────────、────────。」
真夜中というよりは明け方に近い静けさの下、夢現に微睡む心地に包まれる。
「────。───。─────────。」
「─────────────、───────────────、───────。」
現実で何が起こっているのか一つも分からないが、不思議と不安はない。
「───、────────。」
今の俺に出来る最大のことは、二人がゆっくり眠れるよう祈ることだけだ。
「─────。──────────。」
そして、暫くの空白を数えた後。
俺の意識に凛太朗さんの声が届けられた。
「ありがとう」
それは俺に対して言ったものなのか、千明ちゃんに言ったのか。
確認する術はなかったが、この一瞬だけ、俺は空を飛んだ気がした。




