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第九話:夜明け 3



食後、凛太朗さんと千明ちゃんは中庭へ向かった。

時刻はこの時、午後2時20分。日暮れにはまだ少しあるが、着々と運命の時は迫っている。



「────これは金木犀、あそこのはコスモス。どっちも秋が見頃の花だよ」


「さすが三年も勤めてるだけあるな。博士みたいだ」


「基本的な知識があるだけだよ。金木犀の方は香りもすごく良いんだよ」


「へえ……。本当だ。昔千明が使ってたシャンプーの匂いに、ちょっと似てる」


「え、そう?よく覚えてるねそんなこと」


「覚えてるさ。あの頃のことは、昨日のように」


「……私も、毎日思い出すよ」



初秋の穏やかな天日の下、千紫万紅の花壇の前で、他愛ない言葉を囁き合う二人。


お金を掛けない、手間も掛けない、意味すらないかもしれない、形だけのデート。

それでも二人にとっては、この上ない至福の逢い引きに違いない。



「ウメ達は最近どう?連絡とってる?」


「うん。週に一度はメールしてるし、ミンミンとは月一でご飯行ってる。二人とも元気だよ」


「そっか。結婚は?もうした?」


「え───。……あ、眠ってる間も話は聞こえてたんだったね。

まだだよ。今年中にはって予定してるらしいけど」


「そうか。じゃあ挙式も年内か、来年にはするんだろうな。若い内にドレス着たいって言ってたし」


「ミンミンはね。でも挙式あげる時は凛太朗が────」



上機嫌で話していた千明ちゃんが、途中ではっと口をつぐむ。


挙式を挙げるのは、凛太朗さんが元気になってから。

いつかにお友達と交わした約束を引き合いに出そうとして、やめたのだろう。

入籍も挙式も滞りなく進んだとして、そこに凛太朗さんは参加できないから。



「オレが、なに?」


「ううん。なんでもない」



手持ち無沙汰な逍遥、上っ面の喜色でうそぶく軽口。

やがて中庭を一周しても、二人は終始取り留めのない世間話しかしなかった。


千明ちゃんの職場について、千明ちゃんの日々の暮らしについて、千明ちゃんが最近楽しかった趣味について。

話題に上るのは千明ちゃんのプライベートなことばかり。


恐らく二人は、意図してそうしている。

今日で最後と理解した上で、もう幾許も猶予がないと承知の上で、敢えて深い話をしようとしない。


特に凛太朗さんのパーソナルに関わる部分は、露骨に避けている。

この三年間、面影として、どうして生きていたのか。

詳しく知りたいはずの千明ちゃんは言及せず、凛太朗さんから語ることもない。


本当に、こんな調子でいいんだろうか。

つい横槍を入れたくなるのを我慢するのは、もう何度目になるだろうか。




「───本当に、私だけで良かったの?」



ふと千明ちゃんが遊歩道の真ん中で立ち止まる。

彼女の視線の先には、入院着を身につけた少年と、その母親らしき女性の姿があった。

少年は左手に松葉杖をついているが、顔色は悪くないため、直に退院できるだろうことは想像に難くなかった。



「ああ。いいんだよ、これで」


「でも、せっかくこうして話を出来るなら、みんな……。

ご両親も、紗良さんも、ウメもミンミンも皆、挨拶くらい、したかったよ。ぜったい」



凛太朗さんのご両親には、今日限り来院しないようにと、千明ちゃんの方から伝えてあるらしい。

具体的にどう説明したのかは不明だが、その日に凛太朗さんが亡くなったと知ったら、ご両親はどう思われるだろう。

千明ちゃんが変に誤解されないよう願うばかりだ。



「そうだな。上手いことやれば、挨拶くらいは出来たかもな」


「今からでも────」


「いや、いい。家族や友達には手紙を遺してある。ケンジさんとも話したことなんだ。後悔はしてない」



凛太朗さんの左手が、千明ちゃんの髪を一撫でして耳に掛けてやる。



「今はただ、一秒でも長く、千明の温度を感じてたい。オレとしては、そんだけ」



風が鳴き、枝葉がそよぎ、木漏れ日が陽炎のごとく揺らめく。

時が止まったように感じる、とはこのことを言うのだろう。

今この瞬間だけ、二人に流れる時間だけは、確実に止まった気がした。



「わ────」



千明ちゃんが大きく口を開く。

しかしそこから二の句が発せられる前に、地響きにも近い鐘声が中庭中に轟いた。

発生源に目をやると、中庭中央に設置された時計塔が午後の3時を示していた。


今時期の日の入りは、早くて5時以降、遅くても6時前後と聞く。

つまり凛太朗さんのタイムリミットまで、残り3時間を切ったということだ。



「3時か。思ったより早いな」


「あ、あの、りん───」


「場所を変えよう、千明。いつリミットが来てもいいように、今のうちに人目のないところへ行きたい」



凛太朗さんの表情が引き締まる。

逆に千明ちゃんは動揺し始め、きょろきょろと周囲を見渡した。



「あ、でも、どこも誰かしらはいるし……。病室に戻っても、いつ誰が入ってくるか分かんないし……」



悩む千明ちゃんを見て、俺は心当たりを一つ思い付いた。



『屋上なんてどうですか?』


「屋上?」



俺の思い付きを凛太朗さんが復唱し、千明ちゃんが不思議そうに首を傾げる。



「屋上?屋上がいいの?」


「あ、いや。ケンジさんが、屋上ならどうかって」


「うーん。確かに屋上なら誰も寄り付かないだろうけど……。関係者以外は立ち入り禁止のはずだし、そもそも鍵かかってるから、こっそり行っても先には進めないと思うよ」



学校や病院などの公共施設は、転落防止等の理由から屋上は封鎖されていることが多い。

無論それは俺も知っているし、何の策もなしに提案したわけではない。



『そのへんは俺も分かってる。でも今の俺達には、頼りになる助っ人がいるじゃないですか』


「誰ですか?」


『澪さん。こっち来るよう呼んでもらえますか?』



頼りになる助っ人こと澪さんを呼び戻すよう俺は指示した。

よく分かっていないまま承諾した凛太朗さんは、背後を振り返って手招きした。

凛太朗さんの合図に気付いた澪さんは、駆け足でこちらに近付いてきた。

食堂を出てからずっとこの距離を保っていたので、彼女とコンタクトを取るのは久しぶりに感じる。



「どうしました?」


「急にごめんね。澪ちゃんを呼んでほしいってケンジさんが……」


「……わたしに何か、お手伝い出来ることが見付かったってことですか?」



澪さんの目に静かな炎が灯る。

この眼差しは、凛太朗さんの向こうにいる俺に訴えかけているのだと、俺には分かった。




**



「────うまくいきますかね」


『どちらにせよ、試してみる価値はありですよ』



澪さんにも事情を話し、俺達は人目を忍んで入院病棟最上階まで足を延ばした。

ここまではエレベーターを使って来れたが、屋上へ行くには更に階段を上るしかない。

俺達はより一層周囲を警戒しつつ、屋上に続く唯一の階段を上っていった。



「ここからはどうします?オレはどうすれば?」



踊り場まで上って来たところで、凛太朗さん達は足を止めた。

少し目線を上げた先には、施錠されたドアがある。

ここを抜ければ、目的の屋上が広がっているはずだ。



『凛太朗さんと千明ちゃんは、このまま動かずに。

澪さんだけ先に行って、彼女に鍵を開けてもらってください』



俺の指示をよく聞いた凛太朗さんは、その通りに澪さんに伝言した。

二つ返事で了承した澪さんは、軽やかな足取りで最後の階段を駆け上がっていった。

詳しく説明せずとも、俺の意図を彼女は理解してくれたようだ。



「少々お待ちを!」



そう言い残してから、澪さんはドアの向こうへと消えた。

少しの間を置くと、ガチャリと施錠の解かれる音がした。



『(やっぱり)』



予想通りに事が運び、俺は内心してやったりとほくそ笑んだ。


俺と体を共有している凛太朗さんには一部始終が視えただろうが、千明ちゃんの目にはいつの間にか澪さんがいなくなったように映ったはずだ。

例えるなら、透明人間と瞬間移動くらいの違いがある。



『準備できました。ドアに向かって近付いていってください』



凛太朗さんと千明ちゃんも階段を上り始める。

凛太朗さんの体重が三段目から四段目に推移すると、屋上のドアが外から開かれた。

先に待ち構えていた澪さんは、俺と同じく"してやったり"顔で仁王立ちしていた。



「作戦成功、ですね」



先程までいた踊り場と、屋上のドアまでの距離は3メートル強。

つまり澪さんは、凛太朗さんから3メートル以上離れて不可視状態となったことで、物理的にドアを擦り抜けた。

後に凛太朗さんが3メートルの距離を縮め、再び可視状態となった澪さんが外側から施錠を解いた、というわけだ。


こんな風に澪さんを顎で使うのは気分の良いものじゃないが、彼女の特異性は状況によっては武器になりうる。

こうした連携は、以降も活用する機会がありそうだ。



「驚いた……。こういう使い道───、っていうのは失礼だけど。こんなことも出来るんだね」


「ほんと。手品っていうか、魔法でも見せられたみたい」



澪さんと合流した凛太朗さんと千明ちゃんは、目を白黒させながら順に感想を述べた。

すると澪さんは嬉しそうに、申し訳なさそうに肩を竦めた。



「今まで自分の"これ"を良い風に思ったことはないですけど……。

少しでもお役に立てたなら嬉しいです」


「少しどころじゃないよ。おかげで安心した。ありがとう」


「ありがとう、澪ちゃん」



謙虚な澪さんに対し、凛太朗さんと千明ちゃんは厚く感謝を告げた。


天井のない空から、あてどない風が吹き抜ける。

見渡す限り、他に人のいる気配はない。

無機質なパラペットに囲まれた、地上より隔絶された世界。

箱庭と表現しても良さそうな此処にいるのは、今は俺達三人だけだ。



「わたしは中で見張り番をしてます。

万一誰か来た時にはお知らせしますが、念のため鍵をかけておいてください」


「分かった。面倒をかけるね」


「いいえ」



凛太朗さんと千明ちゃんが最後の一時を過ごす間、澪さんは中で見張りをしてくれることになった。



「では、ごゆっくり────」


「あ、待って」



澪さんが屋上を退出しようとすると、凛太朗さんが躊躇いがちに待ったをかけた。



「君とはこれで最後になると思うから……。

ありがとう、本当に。終わりに知り合えたのが君達で、本当に良かった」



凛太朗さんが澪さんに向かって右手を伸ばす。

ここが千明ちゃんとの別れの場になるなら、澪さんにとっては今が凛太朗さんとの別れだ。

つぎ澪さんが目にする俺は、俺の体を借りた凛太朗さんではなく、正真正銘ただの俺。

これきり澪さんと凛太朗さんが言葉を交わすことは二度とない。



「わたしも、凛太朗さんと会えて良かったです」



澪さんも両手を伸ばし、凛太朗さんと固く握手する。

その瞳には、うっすらと涙が滲んでいた。



「どうか最後まで、穏やかに過ぎますように。

さようなら、凛太朗さん」



名残惜しげに手を離すと、澪さんは今度こそ踵を返して退出した。

閉められたドアに鍵をかけた凛太朗さんは、一つ深呼吸をして千明ちゃんに左手を差し出した。



「いこう」



千明ちゃんは一言"うん"とだけ返し、二人は手を取り合って歩き始めた。

天国に最も近い場所、凛太朗さんが瞑目に見るだろう空へと向かって。



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