第九話:夜明け 2
入院病棟一階にある食堂まで降りてきた俺達は、千明ちゃんの奢りで昼食をとることになった。
「────おー、うまそうな匂い。
腹減る感覚って、そういやこんなだったなあ」
厨房から漂ってくる芳しい香りに、凛太朗さんがスンスンと鼻を鳴らす。
『面影だった間は、視覚と聴覚以外ほとんど機能してなかったんでしたっけ』
『ええ。せっかく香りの良い花を貰っても、それを確かめることも出来なかったので。ずっと残念な思いをしてきました。
だからこんな風に、普通に色んなこと感じられるのが、すごく嬉しいです』
面影だった間、凛太朗さんは五感の半分を失っていたという。
正常に機能していたのは視覚と聴覚のみ。
なまじ見聞きは可能だった分、余計に辛い思いをしてきたことだろう。
しかし逆を言えば、触覚が麻痺状態にあったのは幸いだったかもしれない。
もし誰にも訴えられない痛みを抱えていたとしたら、そういう意味でも発狂し兼ねない。
「もしかして、またケンジくんと喋ってる?」
店先で突然立ち止まった凛太朗さんに気付いて、千明ちゃんがこちらを振り返る。
「ちょっとね。ごめん、ぼんやりして」
「いいよ。足元にさえ気を付けてくれれば。
ケンジくんも、今更ながら付き合わせちゃってごめんね」
『だからいいってば。遠慮しないで好きなように使って』
俺の返事を凛太朗さんが通訳して伝える。
千明ちゃんはありがとうと言って、俺達を食堂に引き入れた。
「わたしはあそこの、隅っこの席に座っていますね」
俺達の背後を付いてきた澪さんが、入口から最も遠い窓際の四人席を指差す。
時刻は丁度昼食時だが、その割に店内は混雑しておらず、空席の方が目立っていた。
「確か3メートル圏外なら視えなくなるんだよね?」
「はい。わたしだけ何も頼まずにいるのは不自然なので、出来ればその距離を保って頂けると」
「わかった。あそこから3メートルっていうと……」
澪さんと相談しながら、凛太朗さんも自分達の座る席を選び始める。
どうしても澪さんの存在を消す必要はないが、他人の目に触れない方が何かと都合は良い。
凛太朗さんと千明ちゃんが食事をしている間、澪さんには適当に雑誌でも読んでいてもらう手筈になった。
「大体あのへんかな」
「ですね」
凛太朗さんの示した先には、カップル向けの二人席があった。
澪さんの言う四人席の斜向かいに位置し、両者の間には3メートル程の距離が開いている。
この間隔が保たれている限りは、澪さんは透明人間になれるはずだ。
「先、行ってますね。なにかあれば合図お願いします」
「うん、よろしく。じゃあオレも席取りを……」
「待って」
一足先に別れた澪さんに続いて凛太朗さんも席に着こうとすると、千明ちゃんが腕を掴んできた。
「まだ、なに食べるか決まってないでしょう?一緒選ぼうよ」
「オレは何だっていいよ。千明が勧めてくれるなら何でも───」
「だとしても。とにかく、先には行かないで。席取られても良いから、一緒に。お願い」
たかが食券一枚買うだけのことなのに、なにをそんなに大仰がるのか。
千明ちゃんの意味深な言動に、俺と凛太朗さんは同じ疑問を覚えた。
そして同時に気付いた。
千明ちゃんは、あの時と同じシチュエーションになるのを怖がっているのだと。
自分が二人分済ませてくるから、戻るまでここで待っていて。
そう言って凛太朗さんを店先に残していった結果、あの事故が起きた。
千明ちゃんが少し目を離した隙に、凛太朗さんは取り返しのつかない体になってしまった。
それは決して千明ちゃんのせいではないけれど、千明ちゃん自身はそう思っていない。
だから、どんなに安全と分かっている場所でも、見た目の違う男が相手でも、当時を再現するような真似はしたくないんだ。
「……そう、だな。せっかくだし、一緒選ぶか」
凛太朗さんが頷くと、千明ちゃんは泣きそうに頷き返した。
**
あれも良い、これも良いと相談した結果、千明ちゃんは女性人気のナポリタンを。
凛太朗さんは男性人気のカツカレーをそれぞれ注文した。
券売機の前でメニューに悩んでいる間も、席で料理の完成を待っている間も、二人はとても楽しそうだった。
まるで付き合いたての中学生カップルのように。
いっそこのまま、無為なお喋りに耽っていたいとでも言うように。
「────お、同時だ」
「二人で行くか?」
「うん!」
持たされた呼び出しアラームが料理の完成を知らせる。
凛太朗さんと千明ちゃんは注文の品を取りに行き、改めて席に着いた。
「うん。やっぱ良い匂い。本当にどっちのも美味そうだな」
「私のもいっぱい食べていいからね」
「ありがと。じゃあ食うか」
「うん」
湯気の立つナポリタンとカツカレーを前に、凛太朗さんと千明ちゃんは有り難そうに手を合わせた。
凛太朗さんは直ぐにスプーンを取り、千明ちゃんは凛太朗さんが先に食べ始めるのを黙って見守った。
「……うん。うまい。うまいよ、すごく」
鼻を抜けるスパイスの香りに、揚げたてのカツの小気味よい歯ざわり。
千明ちゃんの言う通り、この食堂は病院運営とは思えないほどレベルが高いようだった。
凛太朗さんが美味い美味いと頬張る一方で、俺の意識にもカツカレーの細かいニュアンスが伝わってくる。
こちら側を体験するのは初めてのことだが、遊園地でモモに官能同期を施した時も、あの子はこんな風に感じていたんだろうか。
「良かった。私のもほら、美味しいから食べてみて」
「うん。………あ」
千明ちゃんがナポリタンの器を差し出すと、凛太朗さんは一度頷いてから動きを止めた。
「?……あ、チーズかける?」
「うん。───じゃなくて」
「うん?」
「いや、その……。これも今更なんだけどさ。あんまり親しげにしてたら、色々と誤解されたり、とかさ。後々、千明とケンジさんの迷惑になったりしないかなって」
どうやら凛太朗さんは、俺と千明ちゃんがカップルと噂されてしまう可能性を懸念しているらしい。
確かに、長らく男っ気のなかった千明ちゃんが急に若いのを連れていたら、新しい彼氏と誤解する人もいるかもしれない。
俺と千明ちゃんじゃ全くビジュアルが釣り合っていないのは置いといて。
「ああ、そんなこと。大丈夫だよ、ケンジくんとは本当に友達みたいなものだし、元から親しいんだから」
「そう、なんだろうけど……。本当にいいのか?オレのせいで話ややこしくなったりしない?」
「なったとしても大丈夫だよ。誤解されるのは慣れてるし、ケンジくんにも迷惑かからないようにするし。
だからほら、ね?なんならアーンしよっか?」
「し───、てほしくないことないけど、遠慮しとく」
「そう?」
露骨にイチャイチャはせずとも、ふとした仕種にラブラブカップルの片鱗が出る凛太朗さんと千明ちゃん。
さっき格好つけたこと言っちゃった手前、二人だけにしてやりたいのは山々なんだけど。
他に意識を逸らそうにも、凛太郎さんの強烈な感情に引っ張られて直視せざるを得ない。
いよいよ本格的にデバガメになってきた。
「うん。これも美味い。どっちもレベル高いな」
「ね?一般の人も入れるようになったら、行列とか出来ちゃうかも」
「この分だと他のも凄そうだな」
「!そう、他にも美味しいのまだまだあるの!
せっかくだし、もう一つ二つ注文しよっか。ラーメンとか餃子も人気で───」
喜ぶ凛太朗さんに気を良くした千明ちゃんが、追加の注文をしようと提案する。
「いや」
しかし凛太朗さんは否定的に続きを遮った。
「どうして?二人で分け合えばギリギリ入るよきっと。
これだけでお腹いっぱいになっちゃいそう?」
「そういうわけじゃねえけど……。
オレはもう充分だし、勿体ないからいいよ」
「勿体なくないよ。高級フレンチとかじゃないんだし、心配しなくても全部私が───」
「だから、いいんだよ。これ以上無駄な金、千明に使わせたくない」
「無駄なんて────」
途中まで食い下がっていた千明ちゃんが、凛太朗さんの神妙な様子を見て顔色を変える。
「………もしかして、知ってた?」
「……知ってた、っていうか、聞いた。前に千明が、オレの両親と話してたの」
知ってた、というのは、恐らく凛太朗さんの治療費のことだ。
アルバイトを掛け持ちして金を捻出していた千明ちゃんは、その殆どを凛太郎さんのために費やしていたという。
尤も、千明ちゃん自身は周囲に隠していたことなので、俺も知ったのは凛太朗さんを介してだ。
「千明がどうしてもって言ってくれる手前、形だけは受け取ってたみたいだけど。一切、手は付けてないらしいから。
だからオレが、……治療とか不要になったら多分、纏めて返されると思う」
千明ちゃんの心からの善意を、凛太朗さんのご両親は受け止めはしても利用しなかった。
ご両親は千明ちゃんをもう一人の娘のように思っていたそうなので、当然といえば当然だろう。
「そ───、っか。そっか。
なんとなく、そうなんじゃないかって気はしてたけど、……そっか」
予感を確信にした千明ちゃんは、寂しそうに項垂れた。
「私としては、力になりたかっただけなんだけど。却って迷惑だったかな」
「そんなことない。全然そんなことはないから。
千明がオレの、オレの家族のためにって色々頑張ってくれてたのは皆知ってるし、千明の心遣いには本当に、皆感謝してるんだよ」
「そうかな。だと、いいんだけど」
「そうだよ」
二人の間に気まずい沈黙が流れ始める。
その隙にこっそり俺だけ澪さんへ意識をやってみると、彼女も婦人誌の背から心配そうな目を覗かせていた。
若い女の子向けの雑誌も幾つか置かれている中、健康なんとかの本を読んでるのが実に澪さんらしい。
「私からも、一ついい?」
沈黙を破ったのは千明ちゃんだった。
「なん、なに?」
「今の凛太朗の話聞いて、私も凛太朗に教えてあげなきゃいけないこと、思い出した」
千明ちゃんの改まった姿勢を見て、凛太朗さんも一度スプーンを置いた。
「凛太朗が事故に遭った時のこと、関係者の人から詳しく話、聞いた。
それで分かったんだけど……。間違えてたらごめんね」
「うん」
「……凛太朗、あの事故は半分自分のせいとか、思ってるかもしれないけど。
あれは全然、凛太朗は悪くないから。タイミングは悪かったかもしれないけど、凛太朗の不注意でとか、自業自得とか、そういうことは全くないから」
「……どういうこと?」
事故当時の話を蒸し返され、凛太朗さんの意識が緊張に強張る。
だが千明ちゃんの雰囲気は優しいままで、少なくとも咎められるような話ではなさそうだった。
「事故を起こしたお爺さんが、ブレーキと間違えてアクセルを踏んじゃったって話は知ってる?」
「うん。聞いた」
「あれね、凛太朗のためにブレーキ踏もうとして、じゃなかったの」
「というと?」
軽いジェスチャーを交えて千明ちゃんは説明する。
「あの時、お爺さんの車と凛太朗とは、結構距離あったみたいだけど。その間に駐車してた別の車がね、周りをよく確認しないで、バックで発進しようとしてたんだって。
それでお爺さんは慌てて一時停止しようとして、間違えてアクセルペダルを踏んじゃったんだって。
だから、あの事故はあくまで、後方不注意の車と、それを回避しようとして失敗したお爺さんの問題だったの。
凛太朗は巻き添えになっちゃっただけ。凛太朗のせいで起きたことじゃないんだよ」
千明ちゃんによると、あの事故の詳しい背景は以下の通り。
後に加害者となる運転手のお爺さんは、目の前に停めてあった車が急にバックで出てきたためにパニックを起こしてしまった。
そして勢い余ってアクセルペダルを踏み込み、凛太朗さんに接触するまで止まることが出来なかった。
全ては歯車の掛け違い。
自分勝手に先を急いだ若者と、正しい判断と行動の出来なかった老人が引き起こしてしまった不運だった。
凛太朗さんが巻き添えを食ってしまったのは、あくまでタイミングが悪かったから。
前者の内どちらか一方でも正しく運転できていたなら、せめて凛太朗さんは撥ねられずに済んだかもしれない。
真面目に交通ルールを守った凛太朗さんだけがこんな目を見るなんて、ますます理不尽な話だ。
「そうだったのか……。その話は、初めて聞いたな」
「………。」
「確かに、オレは巻き添えを食っただけなのかもしれない。でも、全く落ち度がないとも言い切れない」
「そんな────」
「自分では注意したつもりだったけど、足りてなかったのかもしれないし。
そもそも、千明が戻るまでじっとしてりゃ良かったんだ。どんな理由であれ、自分から動き出した時点で完全な被害者とは言えない」
「そんなことないよ!だってあの車、軒先すれすれのとこまで突っ込んで来てたし、凛太朗があそこから動かなかったとしてもきっと、だから私が────」
周りの人の迷惑にならないよう声のボリュームは押さえつつも、千明ちゃんはどんどん感情的になっていった。
対して凛太郎さんは、尚も落ち着いた態度で首を振った。
「いいよ千明。いいんだ。オレは、もう恨んでない。
全部オレが決めて、オレがそうしたことだ」
「………っ」
穏やかに制す凛太朗さんに言い返す言葉が見付からないのか。
千明ちゃんは不満げに唇を噛んだ。
「ごめんな、辛いこと思い出させて。
けどありがとう。おかげで一つ、胸に支えていたものが取れたよ。聞いて良かった」
本当は今でも納得していないくせに。
自分のせいじゃなかったなら、尚のこと悔しくて堪らないくせに。
千明ちゃんの前では取り繕えても、俺にはお見通しだよ、凛太朗さん。
「積もる話もあるけど、とりあえず今は食事に集中しよう。
せっかくの飯が冷めちまう」
凛太朗さんが明るく場を仕切り直す。
千明ちゃんは二度深呼吸をし、先程までの笑みを浮かべて答えた。
そうだね、と。




