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第九話:夜明け



目覚めると、俺は病室の床に大の字になっていた。

視界には真っ白な天井と、俺の顔を心配そうに覗き込む二人の女性の姿がある。


一体なにが、と起き上がろうとすると、全身ぴくりとも動かない。

というか、動けなかった。


なるほど。

どうやら凛太朗さんの性情憑依は上手くいったらしい。

意識は明瞭だが、どこか水中を揺蕩うような、白昼夢を見ているような感じがする。

息苦しさや違和感はないが、瞬きも呼吸も自分の意思では行われていないのが分かる。

言うなれば、今の俺は催眠術に掛かっている状態に近いのかもしれない。


何より、目覚める直前に見た、走馬灯に似た映像の波。

断片的ではあったけれど、あれは確かに凛太朗さんの記憶だった。


話に聞くより想像するより、ダイレクトに胸に訴えかけてくるものがあった。

あれを見たことで、切々と感じさせられた。

凛太朗さんがこれまで、どれほどの怒りを悔しさを、葛藤を悲嘆を絶望を乗り越えてきたのか。

どれほど凛太朗さんが千明ちゃんを愛しているか、千明ちゃんに愛されているかを。


だから、漠然と飲み込めた。

この全身を締め付けるような切なさは、俺ではなく凛太朗さんがそう感じているから。

凛太朗さんと一体になったからこそ、俺は凛太朗さんの半生を感覚で知ることが出来たのだと。


起きぬけの頭でぼんやり思案していると、尚も心配そうな澪さんと千明ちゃんが話し掛けてきた。



「────大丈夫ですか?ケンジさん。急に倒れられたので心配しました」


「どこか痛いところはない?しんどいようなら、看護師さん呼んで来ようか?」



心配をかけてごめん。

痛いところも具合悪くもないから大丈夫だよ。

俺は咄嗟にそう返事をしようとしたが、俺の体は俺の思うように発声できなかった。

瞬きも呼吸も俺の意思じゃないのだから、喋れないのは当然か。


段々と状況は理解してきたが、これでは澪さん達とコミュニケーションを取れない。

人格憑依に成功したなら、俺の体に入った凛太朗さんの面影は今どんな状態なのか。


成す術なく困惑していると、俺の意識の中で凛太朗さんの声が響いた。



『すいません、ケンジさん。大丈夫ですか?』



俺の体は発声していないので、この声は凛太朗さんの意識が直に話し掛けてきているものと思われる。

ファンタジー系の漫画でよくある、こいつ脳内に直接…!的な感じと言えば分かりやすいだろう。



『俺は大丈夫です。凛太朗さんは?』


『オレも何ともありません。同時に意識が戻ったみたいですね』


『俺の体、動かせそうですか?』


『まだちょっと違和感はありますけど……。

段々馴染んできた感じするんで、なんとか』


『俺のことは気にしなくていいんで、どうぞ好きなように使ってください』


『ありがとう。出来るだけ無茶はしないようにします』



意識のみで最低限の会話を済ませると、凛太朗さんは身動きが取り辛そうにゆっくりと起き上がった。

澪さんと千明ちゃんはすかさず手を差し延べようとしたが、凛太朗さんはそれを無言で断り、自力で立ち上がった。



「あの、ケンジさん……。いや、今は凛太朗さん、なんですかね?

声は出せそうですか?わたし達の声は聞こえてますか?」



気が気でなさそうな澪さんが、恐る恐る俺の顔色を窺う。

同じく神妙な面持ちの千明ちゃんは、固唾を呑んで俺もとい凛太朗さんの第一声を待っている。


凛太朗さんは二度深呼吸をすると、しっかりと背筋を伸ばして口を開いた。



「感度良好。聞こえるし、話せる。五感全部、正常に機能してるよ」



俺の声を通して凛太朗さんは初めて喋った。

俺としては何とも形容し難い不可思議な感覚だが、凛太朗さんに不便がないならそれで良い。



「二人とも、心配かけたね」



ようやく反応してくれた凛太朗さんを見て、澪さんはほっと胸を撫で下ろした。

一方千明ちゃんは、何故か眉を寄せてこちらを凝視してきた。



「それで、今はどちらがイニシアチブを取っていらっしゃるんですか?

返事をしてくれたのはケンジさん?それとも凛太朗さんですか?」



澪さんが改まった問いを投げる。

凛太朗さんは敢えて答えることをせず、黙って千明ちゃんに向き合った。

すると千明ちゃんは、ひくりと喉を鳴らして目を見開いた。

澪さんはまだ俺と凛太朗さんのどちらが表に出ているのか計り兼ねているようだが、千明ちゃんのこの反応は、もしかして。



「千明」



凛太朗さんが千明ちゃんの名前を呼ぶ。

それは紛れも無く俺の声なのだけれど、まるで別人が喋っているような穏やかな響きを伴っていた。



「凛太朗、なの?」



信じられないとでも言いたげな千明ちゃんが、震える声で凛太朗さんの名前を呼び返す。

やはり覚醒した瞬間から、何となく凛太朗さんの気配を感じていたらしい。



「そうだよ、って言ったら、信じる?」



凛太朗さんが目を細めて千明ちゃんを見詰める。

その瞬間、俺の意識に激しい情緒の波動が押し寄せてきた。


やる瀬なさと悔しさと、溢れ出しそうなほどの愛おしさ。

酷く朧げで、しかし胸に込み上げてくるこの熱は、間違いなく凛太朗さんの心だ。


まるで俺が凛太朗さんになったみたいな、凛太朗さんが俺になったみたいな。

確かに俺が感じているのに、確かに俺ではない誰かの気持ちが、ここにある。


表現するのが難しいが、他者と肉体を共有すると、相手の感情までもを共有することになるようだ。




「わ、───かんない。

わかんない、けど。でも───」



困って頭を抱えた千明ちゃんは、ベッドに横になった凛太朗さんの厄主と、俺の体を借りた凛太朗さんとを交互に見比べた。

それでも、どんなに混乱していても、凛太朗さんを拒絶したり逃げ出そうとはしなかった。



「自分でも変だって思うけど、なんか、感じるの。

見た目ケンジくんで、声も全部ケンジくんで、なんだけど……」



再びこちらに向き合った千明ちゃんは、口元を手で押さえながら、両目いっぱいに涙を溢れさせた。



「ほん、と、に……。凛太朗、なの……?」



風にはためくカーテンと、千明ちゃんの濡れた声とが重なる。

そんな二人のやり取りを、澪さんは傍らでじっと静観している。



「うん。やっと、会えた」



凛太朗さんが笑う。

俺の意識に、凛太朗さんの幸福感と充足感がじんわりと伝わってくる。

そしてそれは、きっと千明ちゃんも。



「ほんとに、あえた……っ。やっと、や、と……っ」



はらはらと涙を流しながら、千明ちゃんが一歩二歩とこちらに近付いてくる。

澪さんは二人から一歩二歩と離れて、千明ちゃんと凛太朗さんだけの世界にしてあげた。



「ずっと、会いたかった……っ!」



控えめに擦り寄ってきた千明ちゃんを、凛太朗さんもまた遠慮がちに受け止める。


これが本当の二人の再会だったなら。

凛太朗さんの手は千明ちゃんの肩ではなく、背中に回されていたことだろう。

千明ちゃんだって、凛太朗さんの鼓動をもっとしっかり感じたかっただろう。


今更ながら、こんなにも俺という存在を自分で邪魔だと思ったことはない。



「オレも、会いたかったよ」



凛太朗さんが千明ちゃんの頭を撫でる。

凛太朗さんと比べて俺の手は少し小さいけれど、触れた時の優しさや温もりは凛太朗さんのものだ。

そういう細かいニュアンスだけでも、千明ちゃんが凛太朗さんを感じられると良い。




「────ケンジさんなら大丈夫だよ」



啜り泣く千明ちゃんを宥めながら、凛太朗さんが不意に澪さんの方を振り向く。

まさかこのタイミングで話し掛けられるとは思わなかったのか、澪さんは素っ頓狂な声を上げて驚いた。



「今はオレの意識に隠れちゃってるけど、ちゃんと中にいるから。消えたりしてないよ」



凛太朗さんの言葉に、澪さんは先程とは違う意味で胸を撫で下ろした。

千明ちゃんは勢いよく凛太朗さんから離れると、よたよたと覚束ない足取りで後ずさっていった。



「そっ、そっか。ケンジくん、中にいるんだもんね!ごめんね急にこんな、すっかり忘れてた……。普通にケンジくんなのに……」



わたわたと涙を拭う千明ちゃんの頬が、みるみる赤く染まっていく。

凛太朗さんに肉体を貸している間も、俺自身の意識が残っているとは思わなかったんだろう。


なんだ、この気持ち。

凛太朗さんと心を共有しているせいなのか、いつもの5割増しくらい千明ちゃんが可愛く見える。

いかんいかん。ぼんやりしていると、俺の方が凛太朗さんの意識に飲まれてしまいそうだ。



「そんなに狼狽えなくても大丈夫だよ。触ってるのも喋ってるのも、今だけはオレだから。

ケンジさんはあくまで、傍観者として居てくれてるだけ」


『あ、上手く行くか分かんないっすけど、出来るだけ意識をシャットアウトというか、お二人のやり取りは見聞きしないようにしますから』


「そんなこと出来るんですか?」


『完全には無理かもですけど……。このままじゃ思いっ切りデバガメなんで、せめて直視しないよう意識を逸らせるくらいは』


「なんか、色々気遣ってもらっちゃって、すいません。無理はしないでくださいね。

オレも人様の体で変なことはしませんから」


『お、お手柔らかにどうぞ』



俺と意識のみで会話をする凛太朗さんを、澪さんと千明ちゃんが不思議そうに見詰める。

今の俺の声は凛太朗さんにしか聞こえないはずなので、二人には凛太朗さんが特殊な独り言を言っているように見えるのだろう。


俺とシンパシーの近い澪さんならもしやと思ったのだが、この状態だと澪さんとも通じ合えないようだ。

俺から意見がある場合には、凛太朗さんに逐一通訳してもらうしかなさそうだ。



「今のはケンジさんと話されていたんですか?」


「ああ、うん。今はオレにしか声聞こえないみたいだから、ケンジさんに用ある時はオレに言ってね。仲介する」


「分かりました。

ともあれ、お二人がご無事なようで、なによりです」



凛太朗さんと澪さんの専門的っぽい会話を、千明ちゃんが興味深そうに聴き入る。


この分だと、俺の感情が凛太朗さんに伝わることはないのか?

さっきちょっと千明ちゃんに対してドキドキしてしまったし、彼氏を前にそんな疚しいこと考えたなんて知れたら───。



『"しっかり"伝わってますよ。

ケンジさんはオレにとって大恩人ですけど、それとこれとは話が別ですからね』


『ハイスイマセン』



どうしようかと思ったらやっぱりそうだった。

口頭ではなく意識を通して注意してきた辺り、凛太朗さんの本気度を感じる。

やんわりとした口調なのが却って怖い。




「では、この後はどうしましょうか?

せっかくの逢瀬の邪魔はしたくありませんし、私は暫く席を外して───」



澪さんが気を利かせて病室を出ようとすると、凛太朗さんが待ったを入れた。



「いや、万一ケンジさんの身に何かあるといけないし、澪ちゃんには出来るだけ近くにいてほしい」


「え、いいんですか?でも───」


「心遣いは嬉しいけど、オレは千明と話が出来るだけで充分だから。千明はどう?」



凛太朗さんが問うと、千明ちゃんは笑顔で頷いた。



「私も、凛太朗がそれでいいならいいよ。

邪魔だなんて思ってないから、もう暫く私達に付き合ってね。澪ちゃん」


「は、はい。では私は、少し離れたところで控えていますので、何かあれば呼んでください」



ある程度の段取りが決まったところで、凛太朗さんはいよいよ本題に入った。



「じゃあ、どうする?千明はどうしたい?」



千明ちゃんの表情が僅かに曇る。



「どう、しよう……。

凛太朗が目覚めたらアレしたいコレしたいって、いっぱい考えてたのに……。

いざ御膳立てされると、どこからどうしたらいいか……」


「うん」



凛太朗さんは自分から選択肢を出さず、千明ちゃんの考えに委ねた。



「ずっとこうしてられるわけじゃ、ないんだよね?」


「うん」


「タイムリミットは?」


「分からない。ただ、日付を跨げないことだけは確か」


「そう……」



何となく察しは付いていたようだが、千明ちゃんは悲しそうに肩を落とした。

俺はふと気になったことを凛太朗さんに尋ねた。



『言わないんですか、本当は日が落ちるまでだって』


『ええ。最初に言ったら、時間ばっかり気にしちゃうだろうから。直前になったら教えることにします』



凛太朗さんの口から聞いたわけではないが、凛太朗さんの記憶を垣間見た折に俺も知った。

凛太朗さんに残されたタイムリミットは、恐らく半日もない。

日暮と同時に、凛太朗さんは本当の意味での眠りに就くのだと。


それを分かった上で敢えて千明ちゃんに教えないのは、凛太朗さんなりの意図があってのことだ。

俺は二人の行く末を見守らせてもらおう。



「あ、じゃあご飯は?」


「ご飯?」


「うん。最後の晩餐……、って言ったら悲しくなっちゃうけど。

せっかくだし、一つくらい凛太朗の好きなもの食べようよ。それくらいの時間はあるでしょ?」


「うーん、食事か……」


「……やっぱり、そんな気分にはなれないかな。

あ、人の体に入ってる間は食べられないとか」


「いや、そんなことはないよ。ですよねケンジさん」


『多分大丈夫だと思いますよ。栄養にするのは俺の体ですけどね』



千明ちゃんの提案に、凛太朗さんは妙に歯切れの悪い反応をした。

気が乗らないわけではなさそうなのに、嫌でないなら何故すぐに承諾しないのか。



『……俺のことは気にしなくていいと言ったでしょう。

ある程度手持ちもありますから、飲み食いも自由にしてくれて構いません。

その方が千明ちゃんも俺も嬉しいです』



俺が思い付きのフォローを入れると、少しだけ凛太朗さんの肩の力が抜けた。


遠慮しなくていいって言ってるのに。

もっと勝手気ままに振る舞ってくれていいのに。

色んな意味で腰が低いのは、元来の性格なのか。面影として過ごしているうちに染み付いてしまったものなのか。

こうも欲の無い姿勢を見せられると、余計に心配になる。



「うん。じゃあ、そうしようか」



凛太朗さんが頷くと、千明ちゃんはぱっと嬉しそうな表情になった。



「そうと決まれば、早速移動しよう!

ちゃんとしたご飯屋さん行く時間ないのが残念だけど……。ここの食堂も結構美味しいんだよ」



子供のように燥ぐ千明ちゃんが、早く早くと凛太朗さんの腕を引く。

背後では澪さんが千明ちゃんに加勢して凛太朗さんの背中を押す。



「分かった分かった。行くって。行くから。

フフッ。なんか久しぶりだな、この感じ」



千明ちゃんも凛太朗さんも、こうして心の底から笑うのは、きっと三年ぶりだ。

本当は千明ちゃんも凛太朗さんも、もっと言いたいことや聞きたいことがあって、それでもこうして笑っているんだ。

戻らない過去を悔いるより、解けない疑問に悩むより、今しかない二人の時間を楽しむべきと決めたから。


まるで織姫と彦星。閉鎖的な終末。

もしあと数時間で世界が終わるとして、最後の一時を愛する人と共に過ごせるとするなら。

俺だったら、その人とどんな話をして、どんなことを思うだろうか。


呼び起こされるのは、母との別離の瞬間だった。



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