第一話:萌芽 3
7月15日。
退院して二日目の午後。
店番をしていたところへ、妙な男がやって来た。
というより、現れた。
「(なんでまた、平日の真っ昼間に)」
年齢は、40代前半くらい。
服装は、大人しめのカジュアル系。
容姿は、日本人らしい中肉中背。
良くも悪くも、そのへんにいる感じの、真面目そうなおじさん。
彼のどこが妙かというと、何をするでもないのだ。
店内に入ってくるでもなく、店内の様子を窺うでもなく。
軒先に立ち尽くしたまま、ぴくりとも動かない。
まるで最初から、そこに落ち着くのが目的だったかのように。
「(通報するか……?
いやでも、悪さをしたわけでなし……)」
もしかしたら、誰かと待ち合わせをしているのかもしれない。
最初はそう思ったが、二時間も同じ状態が続くとなると、さすがに見過ごせなかった。
彼はいったい何者で、何がしたいのか。
通報すべきか否かを判断するためにも、俺はおじさんと接触を図ってみることにした。
「───あのー、すいません。うちに何かご用ですか?」
店の出入口から外へ出て、おじさんに恐る恐ると声をかける。
おじさんは全くの無反応で、こちらに一瞥もくれなかった。
「あの……。すんません、聞こえてます?」
再び声をかけるも、やはり無反応。
耳が不自由な場合を考慮して、今度は声をかけながら、おじさんの目の前で手を振ってみる。
いずれに対しても、やはり無反応。
「うーん。どうすっかな……」
おじさんは意図して、俺を無視しているのか。
特殊な病気でも患っていて、反応したくても出来ないのか。
幸いにも、トラブルにはまだ発展していない。
俺以外でおじさんを気にしている人も、今のところはいない。
かといって、ずっとこのままにもしておけない。
「(俺だって、通りすがりだったら見ないフリするわ、こんなん)」
おじさんをどう扱えばいいか分からず、俺は困って天を仰いだ。
すると、地蔵のように固まっていたおじさんに、初めて動きがあった。
おもむろに顔を上げて、俺と目を合わせたのだ。
「あ……、っと。
俺、この店の店員をやってる者、でし、て───」
驚きつつも、改めて声をかける。
おじさんはやはり返事はせずに、南の方角へ向かって歩きだした。
5メートルほど進むと、おじさんは立ち止まった。
こちらに振り返った顔は、無表情ながら何かを訴えているようだった。
「え。どゆこと?」
なんなんだろう、この人。
俺をからかいのだとしても、面識はないはずだし、意味も分からない。
事情だなんだと考慮せずに、さっさと通報してしまうべきだったか。
沸々と恐怖を覚え始めた俺は、頭の中で様々な想像を巡らせた。
次の瞬間。
再びおじさんと目を合わせた瞬間、強い衝撃に襲われた。
ひん曲がっていた背骨を、強制的に伸ばされるような感覚だった。
「付いて来い、ってことか?」
おじさんは頷いてもくれなかったが、きっとそうに違いないと確信した。
「防犯ブザー持ってくか……」
そこへ、ちょうど農作業を終えたらしい親父が帰ってきた。
適当な言い訳で店番を代わってもらった俺は、自分一人でおじさんに付いて行くことにした。
「ブザー持った。スマホ持った。
よし。大丈夫。俺、男だし。いざとなったら返り討ちにすればいいんだし。うん。よし。
………うん」
深く考えず、誰にも相談せず。
見ず知らずの不審者を相手に、刑事ごっこの探偵ごっこ。
本来の自分ならば、こんな危ない真似は頼まれてもしないはずだった。
せめて親父に一言くらい告げていくのが正しいと、理屈では分かっていたはずだった。
後になってみれば、これが全てのはじまりだった。
**
地蔵おじさんに導かれるままバスに乗り、更に歩くこと数分。
繁華街の片隅までやって来ると、地蔵おじさんは漸く足を止めた。
目の前には、古めかしい雑居ビルが一棟。
聞いた話によると、テナントの減少により廃業へと追い込まれ、手付かずの状態で放置されているものだという。
「───あの。ここに何かある、です、か……?」
そろそろいいだろうと、長らくの沈黙を破らせてもらう。
地蔵おじさんはこちらに一瞥だけくれてから、一定した足取りでビルの中へと入っていった。
恐らくはこのビルが、地蔵おじさんの本当の目的地。
いいから黙って付いて来い、という俺の解釈は、間違ってはいなかったわけだ。
「マジ入んの?ここ……」
現在時刻、18時22分。
日の落ち始めた空、明かりのないほぼ廃墟、不審者と密室で二人きり。
怪しさ満点のシチュエーションで、おまけに俺の所在を知る者なし。
先に進んだが最後、二度と家に帰れないかもしれない。
最悪の場合、今日が命日になる可能性すらある。
どうする。
引き返すなら今しかない。
今しかない、けれど。
ここで引き返したら、おじさんを見捨てていったら。
たぶん俺は、一生をかけて、後悔することになる。
そんな確信だけが、ずっとある。
「事故でどっか変になっちまったのかな、俺」
謎の使命感に突き動かされて、俺もビルの中へと足を踏み入れた。