第七話:あと何度夜が明けたら 2
『───呼びました?』
ふと、視界を外れた場所から声がした。
そちらに目をやると、窓枠に浅く腰掛けた凛太朗さんが、初秋の風に吹かれていた。
「いつから、いたんですか」
『さっき。
ちょっと庭に出てたら、お二人が見えられた気配がしたので、飛んで来ました』
"庭"とは、敷地内に設けられた中庭を指していると思われる。
軽い散歩のような口ぶりだが、最期の見納めをしてきたのかもしれない。
『そのお花も。わざわざ用意してくれたんですね。ありがとう』
俺たちの持参したガーベラを一瞥して、凛太朗さんはやや複雑そうに眉を下げた。
どう答えるのが正解か分からず、またしても俺は、何も言えなくなってしまった。
「……いるの?そこに、」
驚いた様子の千明ちゃんが、俺と窓とを交互に見る。
俺は今度こそ答えようとして、凛太朗さんに先を越された。
『いたよ。ずっと』
そう言って身を乗り出した凛太朗さんは、愛おしそうに千明ちゃんに微笑みかけた。
向かい合っている。
すぐ傍で、凛太朗さんと千明ちゃんが対面している。
でも、実際はそうじゃない。
凛太朗さんには千明ちゃんの姿が見えても、千明ちゃんには凛太朗さんの姿が視えない。
凛太朗さんには千明ちゃんの声が聞こえても、千明ちゃんには凛太朗さんの声が聴こえない。
同じ時間、同じ場所にいて、なのに二人の間には、どうしようもない壁がある。
俺と澪さんの目にしか映らない二人の光景は、まるで額縁に収められた絵画のようだった。
「いる。千明ちゃんの、すぐ傍に」
ごくりと生唾を呑んだ千明ちゃんは、窓から吹く風に恐る恐ると手を伸ばした。
凛太朗さんも自らの手を伸ばし、千明ちゃんの掌に重ねるが、二人の肌が触れることはなかった。
"───桂さんの右手と、澪さんの肩とが接触する。
桂さんの右手が空を切り、澪さんの肩を擦り抜ける。”
本当に、みえないんだ。さわれないんだ。
あんなに近くにいるのに。互いの吐息さえ拾えそうな距離なのに。
”まるで透明人間か、幽霊に対するそれ。
映画やドラマでたびたび見られる光景が、現実のものとして目の前で起こっている───。”
ほら、千明ちゃん。
君の正に目の前に、あの頃の凛太朗さんがいるんだよ。
君に話し掛けて、君に触れようとしているんだよ。
今だけじゃなく、きっとずっと、そうだったよ。
いくら俺が念じても、凛太朗さんの手は空気に溶け、千明ちゃんの手は空を切るばかりだった。
「やっぱり、無理なんだね、私には」
項垂れた千明ちゃんが、空を切った掌を拳に変える。
片や凛太朗さんは、風に乗って俺の元まで跳躍した。
『時間が惜しい。
来てもらって早々で申し訳ないけど、始めましょう、ケンジさん』
「……わかりました」
今から俺たちが試すのは、"シンパシー
"を軸としたサイコメトリー。
凛太朗さんの意識を俺の肉体に憑依させる、いわゆる"口寄せ"に似た行為である。
モモや澪さんに対して行ったエンパシーは、あくまで一心同体のように感覚を同期させるものだった。
対してシンパシーは、俺の肉体に対象者の意識を降ろすことで、対象者が"二見賢二"の主導権を取る。
すなわち、文字通りの一心同体。
エンパシーが"分ける"行為であるならば、シンパシーは"与える"行為。
既存する用語ではイタコの使う"生口"が最も近いが、差別化を図るため俺たちはシンパシーと呼ぶことになった。
『特別な技術とかは、なくても大丈夫、なんですよね?』
「話によれば。
経験以上にセンスが大事、らしいです」
『なんか聞いたことある、それ』
桂さんから教わった話によると、シンパシーで重要なのは憑依側のポテンシャル。
対象者である凛太朗さんの素質こそが、第一に反映されるのだという。
霊的に強い弱いの基準はいまいち要領を得ないが、意思疎通が適う時点で野良生霊より格上なのは確か。
桂さんをして、それだけでも十分な素質だそうなので、凛太朗さんは基準をクリアしていると判断できるだろう。
ただし。
"分ける"だけのエンパシーと違い、"与える“シンパシーには、リスクが伴うとのこと。
それは、当事者の肉体に、対象者の意識が定着すること。
二見賢二の主導権を、穂村凛太朗が取ったまま、元の状態に戻れなくなることだ。
『せめて一度くらい、練習の機会があれば……』
「同感ですけど、逆にです。
特定の相手と何度も繰り返せば、その分リスクが上がるそうなので」
『そうか、定着……』
「どのみち、ぶっつけ本番は避けられない。腹括りましょう」
『……ええ』
桂さんのような専門家に頼み、力づくで引き剥がしてもらう場合、凛太朗さんは"除霊"扱いになってしまう。
凛太朗さんの尊厳を守るためにも、除霊は避け、"帰来"をさせなくてはならない。
凛太朗さんに俺の体を貸し、用が済んだら返してもらう。
凛太朗さんの最期をみんなで見届け、残された千明ちゃんやご家族は後で対応する。
自信がない、経験がないは、言い訳にできない。
必ず成功させる。トラブルが起きても、俺が割を食えばいい。
「なんの話、してるの?」
「ああ、ごめんね。前から相談してたことなんだ。
詳しくは、また後で」
そもそもは、こんな話じゃなかった。
凛太朗さんはあくまて、俺にメッセンジャーになってほしいと望んだだけ。
俺の体を使わせろなんて言われてないし、リスクについて明かした時には寧ろ心配された。
俺が提案した。
俺が持ち掛けて、凛太朗さんに呑んでもらったんだ。
たとえ姿が、声が別人でも。
真に愛し合う二人ならば、通じ合う部分があるはずだと。
凛太朗さん自身で想いを伝える方法があるならば、そっちの方がいいと。
そうしなければいけないと、俺は思ったんだ。
「凛太朗さんはここに、澪さんはこっちに。
千明ちゃんは、そこで見てて」
『はい』
「はい」
「わかった」
ベッドの前に移動し、各人に指示する。
凛太朗さんは俺の正面に、澪さんは俺と凛太朗さんの脇に。
千明ちゃんには念のため、定位置から動かないようお願いした。
「じゃあ、リラックスして。
頭の中で、俺の輪郭をなぞるように、イメージしてください」
この文言も、もちろん桂さんの受け売り。
桂さん曰く、正しい手順を踏むことで、リスクを低減させる効果が得られるという。
ちなみに。
リスク度外視で一方的に乗り移る場合は、手順は必要ない。
改めて、凛太朗さんが悪霊じゃなくて良かった。
「深呼吸。目は閉じた方がいい」
緊張した面持ちの凛太朗さんが、黙って俺の指示に従う。
「次は、俺の右手に、自分の左手を重ねて」
『………。』
「ここ。そのまま」
凛太朗さんが目を閉じたまま、ふらふらと左手を差し出す。
俺は凛太朗さんの左手首を掴み、自分の右手まで誘導した。
俺の右手は上向きに、凛太朗さんの左手は下向きに。
交差して重ねた掌から、凛太朗さんの肌の感触と、冷たい体温が伝わってくる。
「触れてるところ、重なったところに、今度は血流を繋ぐみたいにイメージしてください」
『オレの血が、ここを介して、ケンジさんの体の中まで流れてく、みたいにですか?』
「そうです。
実際には血じゃない何か、目には視ないものが行き来するらしいんですけど。
血流っていう表現をした方が想像しやすいとかなんとか」
『血流……。繋ぐ……』
重ねていた掌を、凛太朗さんが軽く握る。
すると数秒の間を置いて、凛太朗さんの髪が宙に浮き始めた。
擬似的な無重力状態。超集中状態に入った合図だ。
「いい調子です。続けて」
ここで俺は、脇に控える澪さんに目配せをした。
澪さんは頷くと、俺と凛太朗さんに一歩近付いた。
「交代です。
今の意識状態を保ちながら、今度はわたしの声に従ってください」
仕上げは澪さんの担当。
俺も凛太朗さん同様に目を閉じ、肩の力を抜いた。
「今からわたしは、間に手拍子をしながら、1から10まで順にカウントしていきます。
10まで数え終わったのが聞こえたら、ゆっくり目を開けてみてください。
その時には、エンパシーは成功しているはずです。
よろしいですか?」
俺は頷き、恐らく凛太朗さんも頷いた。
澪さんは深く息を吸い、カウントを始めた。
「いきます。
……1。……2。……3、」
澪さんの粒だった声の後に、ひとつ手拍子をする音が響く。
「……ゴ。……ロク、」
カウントが0に迫るにつれ、凛太朗さんの掌が熱くなってきた。
熱は掌を介して俺にも伝わり、俺の腕から全身へと巡っていった。
あたたかい。
少し気怠い感じもするが、不快さはない。
まるで本当に、輸血でもされているかのような。
「……はち。……きゅう、」
鼓動が早まる。
澪さんの声が、手拍子の音が、段々とぼやけて聞こえてくる。
今の俺と凛太朗さんは、どんな状態なのか。
うまく言語化できないが、漠然と分かる。
あと少しで、俺たちは、同じ温度になる。
「10」
澪さんが最後のカウントをし、最後の手拍子をした、次の瞬間。
俺は背後から引き寄せられる感覚に襲われ、ぐらりと仰向けに崩れ落ちた。
「ケンジさん───!」
「ケンジくん───!」
澪さんと千明ちゃんの張り詰めた声が残響する。
倒れる瞬間の虚脱感と浮遊感はあったのに、倒れた瞬間の衝撃や痛みはない。
水の中。
そう、水面を浮かんでいたところを、水底まで沈んでいくような。
そんな自分を、浅瀬に立つもう一人の自分が、俯瞰しているような。
"凛太朗。"
意識を手放す直前。
俺ではない誰かの名前を誰かが呼び、俺が俺に呼ばれた気がした。




