第七話:あと何度夜が明けたら
9月3日。11時ちょうど。
まずバーバチカに寄ってから、俺と澪さんは医大へと向かった。
俺が事故に遭った際は別の病院で世話になったので、医大に訪れるのは数年ぶりである。
「───お見舞いとかって、わたしは経験ないんですけど……。
まずはナースステーションに行って、許可を貰ってから病室、って流れになるんでしょうか?」
「いや、今回は病室まで直行でいいって言われてる。
千明ちゃんが医大の人とツーカーだから、千明ちゃんと一緒なら申請とかも必要ないんだって」
「へー……。
本当に信頼されてるんですね、千明さん」
「3年間通い続けた賜物じゃない?」
千明ちゃんがメッセージで送ってくれた情報を頼りに、数年ぶりの院内を確かめながら進んでいく。
最終目的地は、入院病棟の5階。
そこに収容されているのは、凛太朗さんのような意識障害系の重篤患者。
天木には療護センターなどの専門施設がないため、医大で看護を引き受けるケースも少なくないという。
「結構いますね、人」
「医大ともなるとね」
「みんなお見舞いでしょうか」
「かもね」
ロビーを抜け、エントランスを過ぎ、入院病棟へ。
エレベーターに乗り、5階行きのボタンを押し、扉が開く。
ここが、凛太朗さんの厄主が眠る場所。
扉が開いた瞬間、俺は別世界に迷い込んだかのような錯覚を起こした。
「(水を打ったようってのは、まさにこういう空間を言うんだろうな)」
来院者も、関係者も。
いやに口数が少なく、閑散としている。
例えばここが、怪我入院のための病棟だったなら。
患者自身も、それを見舞う家族や看護師も、もっと活気があったに違いない。
「ここに、毎日通ってらしたんですよね、千明さんは」
「うん」
好転が確定している者と、好転も悪化も予測ならない者。
頑張った分だけ報われる者と、いくら頑張っても報われないかもしれない者。
どちらに希望があるかと言えば、前者に決まっている。
希望がある方が、明るい気持ちを保てるに決まっている。
ここには、後者の側の者しかいない。
好転も悪化も予測ならず、いくら頑張っても報われないかもしれない中で、尚も戦い続ける者しか、ここにはいない。
「(ゴールの見えないマラソンと同じ。
ホスピスの方がまだ、笑ってる人が多かった)」
同じ行為、同じ毎日の繰り返し。
繰り返した先に光が待っている可能性は、極低い。
傍から見れば、惰性で仕方なく続けているようにも映るだろう。
でも、実際はそうじゃない。
緩和も、延命も。
可能性は極低いと分かっていて、みんな希望を捨てていない。
だから無駄口を利かず、墓参りのような面持ちでも、生きること、生かすことを、誰も止めようとはしないのだ。
「(他人事じゃないんだよ。俺も、誰も)」
今は部外者の俺だけど。
ここにしかない哀しみは、今の俺にもよく分かる。
「さっきの人」
「うん」
「お見舞い、ですかね」
「そうだね」
「お菓子、いっぱい持ってましたね」
「うん」
「お菓子、好きな人なんでしょうね」
「……そうだね」
そういえば。
どうして、凛太朗さんだけなのだろうか。
ここで眠る全員が当て嵌まってもおかしくないのに、どうして凛太朗さんだけが厄主になったのだろうか。
あるいは、全員が既に厄主で、自分の 生霊を持っているとか。
俺と凛太朗さんには縁があったから、俺には凛太朗さんの生霊だけが視えるとか。
「───ジさん」
その場合、俺と凛太朗さんを繋ぐ縁は、千明ちゃんの存在ということになるけれど。
縁の有無が条件として、間接的な繋がりすらなかった澪さんやモモは、どう説明すればいい。
「ケンジさん?どうかしたんですか?」
澪さんの呼び掛けで我に返る。
思案に耽るあまり、当の彼女を放ったらかしにしていたようだ。
「あ……。ごめん。ぼんやりしてた」
「ぼんやりだけなら良いですけど……。
着きましたよ」
508号室。
"穂村凛太朗"のネームプレートと、横に貼られた向日葵のステッカー。
凛太朗さんの病室に着いた。
澪さんの呼び掛けがなければ、通り過ぎてしまうところだった。
「時間の方は?」
「今は ───、11時40分ちょい」
「正午になるまで待ちますか?」
「必要ない」
スマホで現在時刻を確認する。
待ち合わせは12時なので、あと10分弱の猶予がある。
千明ちゃんは多分、もう来てる。
「千明ちゃん、来たよ。入って大丈夫?」
「いいよ。入って」
病室の引き戸をノックすると、中から 千明ちゃんの返事があった。
やっぱり、もう来てた。
「いい?」
「はい」
澪さんと顔を見合わせる。
お互い呼吸を整えてから、俺は静かに引き戸を引いた。
「いらっしゃい。早かったね」
ベッド脇のスツールに腰掛けた千明ちゃん。
白いブラウスに裾の広がったスカートを穿き、化粧もいつになく華やかな様相を呈している。
なるほど。
こっちの彼女が、凛太朗さんと会う時の千明ちゃんであるらしい。
普段着と比べると結構な差なので、凛太朗さんが驚いていたのも納得だ。
そんな千明ちゃんの傍らには、ベッドに横たわる男性の姿があった。
「驚いた?
本物に会うのは初めて、なんだもんね」
入口で固まる俺と澪さんを察して、千明ちゃんが困ったように微笑む。
俺は返事をせねばと思いつつ、喉が閊えて何も言えなかった。
「(ほんとに、凛太朗さん、なのか)」
腕に繋がれた点滴、口に被せられた呼吸器。
骨ばった四肢、痩せこけた頬、艶気を失った爪に唇。
血管の浮いた白い肌、枕元に散った黒い髪。
閉じたままぴくりともしない、薄い瞼。
衛生管理の徹底さからして、大事に扱われていることは窺える。
とはいえ、イメージと違いすぎる。
端正な顔立ちは変わらないにしても、明るく爽やかな印象は微塵も感じられない。
俺の知る凛太朗さんと、目の前の凛太朗さんとは、まるで別人だ。
「(黒髪、なんだな、本人は)」
俺の知る凛太朗さんはあくまで、凛太朗さん自身の理想像。
恐らくは事故に遭う以前の姿であって、実際の凛太朗さんはもっと悲惨な状態かもしれない。
死にかけのモモが、まだ元気だった頃の姿で現れたように。
前例があり、予想があった。
覚悟もしていた、はずだった。
まさか、ここまでとは。
今日明日にも決着をつけたいなんて、時期尚早ではないかと思ったけれど。
凛太朗さんが急いでいた理由が、やっと理解できた気がする。
「失礼、します」
一足先に入室した俺は、まず千明ちゃんに挨拶に行った。
「あの、これ……」
「あ……」
「邪魔になるかなとも、思ったんだけど……」
バーバチカで購入してきた花を千明ちゃんに手渡す。
オレンジ系ガーベラのアレンジメント。
香りが控えめで、鮮やかな暖色を持つガーベラは、見舞い用にも重宝される花だという。
「そんなことないよ。ごめんね、気遣わせちゃって。うちの店?」
「うん。来る途中に寄ってきた。
これから病院だって言ったら、古畑さんが見繕ってくれた」
「そっか。オーナーにも、後でお礼言わなきゃだね。ありがとう」
手渡したガーベラを、千明ちゃんが備品のキャビネットに置く。
先に飾られていた花瓶からは、一輪の向日葵が顔を覗かせている。
こっちは千明ちゃんが持参したのだろう。
表のネームプレートにもステッカーが貼ってあったし、凛太朗さんが向日葵好きなのかもしれない。
「澪ちゃん……?」
千明ちゃんの視線が俺の背後に移る。
俺も振り返ってみると、澪さんが入口で立ち往生していた。
「澪さん?」
凛太朗さんの厄主を、真っすぐに見据えている。
身じろぎひとつ、瞬きひとつせず、病室に入らないまま棒立ちでいる。
明らかな拒否反応。
例えるなら、凛太朗さんの厄主を通して、別の何かを視ているような。
何らかの圧力によって、物理的に動きを制限されているような。
驚いたのは俺もだが、澪さんの場合は驚きだけじゃなさそうだ。
「どうし───」
心配になった俺は、澪さんに近寄ろうと一歩踏み込んだ。
我に返ったらしい澪さんは、俺が近寄ろうとした一歩分を後退ってから、慌てて入室した。
「あ、───ッごめんなさい、ぼんやりしちゃって。今閉めますね」
先程の俺よろしく、"ぼんやり"を言い訳に取り澄ます澪さん。
詳しく掘り下げたいところだが、今日の主役は凛太朗さんと千明ちゃんだ。
二人に関係なさそうな話は、今は保留としておこう。
「医大って広いから、ここ来るまでも遠かったでしょう。
道、迷わなかった?」
タイミングを見計らって、千明ちゃんが俺たちのスツールを用意してくれた。
俺と澪さんが並んで座ると、千明ちゃんも自分の席に戻っていった。
「ガイド様様だよ。俺一人だったら、今頃めっちゃ迷子」
「なら良かった。
澪ちゃんも、来てくれてありがとね」
「あ、はい。あっ、いいえ!」
「具合悪かったりしたら直ぐ中断するから、遠慮なく言ってね」
「ありがとうございます。そうします」
凛太朗さんのベッドを間に挟み、凛太朗さん抜きで会話をする。
規則的に響く心電図の音が、凛太朗さんの相槌のように聞こえる。
「ちなみに、さ」
「うん?」
「いるの?今は」
「え?」
「凛太朗。
ここに寝てる彼じゃなくて、ケンジくんのところまで会いに行ったっていう」
「そういえば……」
千明ちゃんに指摘され、改めて周囲を見渡してみる。
凛太朗さんがいない。
厄主の方は目の前にいるが、生霊の方は病室のどこにもいない。
凛太朗さんとも現地で落ち合う予定だったので、そろそろ顔を出してくれてもいいはずなのに。
たまたま席を外しているのか、千明ちゃんが来院した時から不在なのか。
一体どこへ行っちゃったんだ、凛太朗さん。




