第六話:青年は額縁の中で 7
18時03分。
バーバチカ前で落ち合った後、俺たちは千明ちゃんの自宅に招かれた。
医大の目と鼻の先にある、小ぢんまりとしたボロアパート。
立地こそ好条件だが、築30年という古さがネックとなり、近隣で最も空きの多い物件だという。
現に、千明ちゃんを除いた入居者は、苦学生と独居老人のみ。
どこかで聞いたことのあるような話だな、と俺は桂さんの事務所を思い浮かべた。
「───狭いとこだけど、どうぞ」
「し、失礼します」
「お邪魔します」
先導する千明ちゃんに促され、俺と澪さんも室内に足を踏み入れる。
3階突き当たりの角部屋。
ユニットバス付き12帖のワンルーム。
いかにもな外観とは裏腹に、内装からは古さも汚らしさも感じない。
千明ちゃんが管理を怠らず、清潔を保っているおかげだろう。
「(ここが、千明ちゃんの……)」
ただ、なんというか。
"綺麗"というより、"殺風景"という表現が近い気がした。
圧倒的に家具が少ないせいか、全体的に色味が暗いせいか。
若い女性の一人暮らしにしては、あまりにシンプルが過ぎる。
俺のイメージが偏っているだけで、今時女子とはこういうものなのだろうか。
女性の部屋に上がったことがないので、反応に困る。
「つまんない部屋でしょう?」
上着を脱いだ千明ちゃんが、何気なく話し掛けてくる。
こちらの心境を見透かしたかのようなタイミングで、俺はつい素っ頓狂な声を上げてしまった。
「ンェ、や、そんなことは……」
「いいの。来た人みんなに言われることだから。
ソファーもなくて申し訳ないけど、クッションなら、ほら。好きなの使って。
洗面所はこっちね」
「ども……」
手持ちの荷物を片付けに、千明ちゃんは一先ずクローゼットへ。
俺と澪さんは洗面所を借りてから、千明ちゃんと入れ違いでリビングに戻った。
「いっぱいあるね」
「そうですね」
四角いのと、俵っぽいのと、羊モチーフのモコモコしたやつと、猫のイラストが刺繍されたやつ。
ラグ周りに配置された、計4つのクッション。
前者2つがスタンダードなのに対して、後者2つはやけにファンシーだ。
部屋の雰囲気と合わないから、人にプレゼントされた物かもしれない。
「ケンジさんは、どれがいいですか?」
「俺はなんでもいいよ。澪さんはそいつ?」
「わ。どうして分かったんですか?」
「エスパー」
「ケンジさんが仰ると冗談にならないですね……」
澪さんは羊のクッション、俺は俵のクッションを手に取り、ラグの上に正座をする。
程なく洗面所から戻った千明ちゃんは、俺たちの様子に小さく吹き出した。
「なんか、借りてきた猫みたいだ。
もっと自分家みたいにしてよ、私も楽にするからさ」
笑いながらキッチンへ移動する千明ちゃん。
俺と澪さんは顔を見合わせ、それぞれ楽な姿勢に崩させてもらった。
「麦茶かコーヒーくらいしか出せないんだけど、どっちがいい?」
誰にでもなく、千明ちゃんが問い掛ける。
俺と澪さんはまた顔を見合わせ、俺が先に返事をした。
「俺はどっちでもいいけど……。手伝おうか?」
「いらないよー、座ってて。澪ちゃんは?どうする?」
「あ……。
えと、じゃあ、ケンジさんと同じもので……」
「りょーかい。
ちょっと待っててね」
「お構いなく~……」
「お構いなく〜……」
千明ちゃんがキッチンの奥に引っ込む。
俺が思わず会釈すると、澪さんも同時に会釈した。
文言だけじゃなく、挙動までユニゾンとは。
俺ばかりが意識しているかと思いきや、澪さんも負けじと緊張していたようだ。
「お待たせ。
室温とか、匂いとか、違和感あるとこない?大丈夫?」
しばらくして、千明ちゃんがキッチンから出てきた。
手にするお盆には、三人分の麦茶とクッキーの器が載っている。
「大丈夫だよ。ね、澪さん」
「はい。丁度いいです」
「よかった。今年は残暑が厳しいからね」
ローテーブルに麦茶とクッキーが並べられる。
千明ちゃんも着席し、三人でテーブルを囲む。
「(座り順、考えてなかったな……)」
俺、千明ちゃん、澪さん。
長方形のテーブルに、逆三角形の構図。
誰が家主で客人か分からない座り順になってしまったが、この際だ。
俺と澪さんの二人がかりで説得するつもりだったし、間に千明ちゃんを挟んで丁度いいかもしれない。
「テレビ、点ける?」
「いいよ。話の邪魔になるし」
「そっか。それもそうだね」
会話が途切れる。
気まずい沈黙が流れ始める。
静かな割に落ち着きがないというか、招いてくれた割に早く帰ってほしそうというか。
千明ちゃんも千明ちゃんで、いつもと様子が違うのが窺える。
凛太朗さん絡みの用件だからか。
秘匿にしていたことを言及されるとなれば、身構えるのは当然か。
「早速だけど、本題、入っていいかな」
心を鬼にして、俺は単刀直入に切り出した。
息を呑んだ千明ちゃんは、数秒の間を置いてから頷いた。
**
「───それで、できれば明日にでも、一緒に凛太朗さんのとこまで行ってほしいって訳なんだけど……」
俺の体質について。澪さんの正体について。
どうして俺たちが凛太朗さんを知っているのか、今になって千明ちゃんに打ち明けたのか。
全て話した。
要点を絞った上で、一から百を順に教えた。
千明ちゃんは、黙って耳を傾けてくれた。
驚きながらも訝らず、俺たちの突飛な逸話を信じてくれた。
「(しまった、俺。
こっちの言い分通すばっかで、千明ちゃんのほう、心配してなかった)」
とはいえ、千明ちゃんも女の子だ。
どんなに大人びていたって、実際は20歳そこそこの若者だ。
受け入れ難いことの一つや二つ、理解や想像の範疇を超える場面もあったに違いない。
なのに、俺ときたら。
千明ちゃんの気持ちを度外視して、どんどん話を進めてしまった。
凛太朗さんが生き返る道はないのだと。
凛太朗さんに残された時間は、もはやカウントダウンに入っているのだと。
彼の目覚めを切に願ってきた彼女に対して、死刑宣告も同然に。
「ごめん、俺、一気に喋りすぎ、た……」
すっかり話し終えてから、俺は遅すぎる謝罪をした。
千明ちゃんは俯いたまま、すーっと鼻で深呼吸をした。
「いいよ。
回りくどい言い方されるより、そっちのがいい」
顔を上げた千明ちゃんは、笑っていた。
虚ろな目を細めて、青ざめた唇を引き締めて、営業スマイルの成り損ないを作っていた。
ビシビシ。
俺の心臓が軋む音と、麦茶に浮かんだ氷が割れる音が、重なって聞こえた。
「怒らない、の……?」
「怒らないよ。
性急ではあったかもだけど、ちゃんと分かるように話してくれたし」
「あ、と……。そうではなく……。そうなんだけど、もっと……」
「もっと、なに?」
「話の内容自体が、さ。普通、こんなん言われても、信じないっていうか。
最悪、殴られるか、追い返される覚悟してたんだよ。こっちは」
「そんなことしないよ」
千明ちゃんの目元と口元が、ふっと緩む。
本物の笑顔と呼べるほどじゃないが、意図して作られた表情ではなくなった。
「オカルト的なことは、正直あんまりだけど。ケンジくんが、こんな嘘言う人じゃないってことは、分かるから。
だから、信じるよ」
「……ありがとう」
「私こそ。話してくれて、ありがとう」
社交辞令ありきにせよ、本当に怒ってはいないらしい。
肩の荷が下りた俺は、堂々と安堵の溜め息を吐いた。
目が合った澪さんは、こっそりとグーサインを送ってくれた。
「話戻すけど……。
澪ちゃんもその、生霊ってやつなんだよね……?」
「あっ、ハイ!」
千明ちゃんの視線が澪さんに移る。
澪さんは慌ててグーサインを仕舞った。
「良ければ、肌、とか、どんな感じか、触らせてもらってもいい?」
「もちろんです。どうぞ」
生霊との触れ合い体験をご所望とのこと。
遠慮がちに伺う千明ちゃんに、澪さん自ら体を寄せる。
「あ……。やわらかい……」
突いたり、撫でたり、握ったり。
澪さんが差し出した右手を、箱の中身はなんだろな的な仕草で、千明ちゃんが触れていく。
「体温も普通にあるし、ぜんぜん……」
「顔も触ってみますか?」
「いいの?」
「はい。お好きなように」
手の次は髪、髪の次は顔。
耳に触れた時には、澪さんはくすぐったそうで、千明ちゃんは照れ臭そうだった。
居た堪れなくなった俺は、二人の触れ合いタイムが終わるまで、ラグの縫い目を数えて誤魔化した。
「ほんとに、言われなきゃ分かんないくらいだね。
でも────」
最後に澪さんの頬を一撫でしながら、千明ちゃんは悲しそうに呟いた。
「澪ちゃんだけが特別、なんだもんね」
"彼も同じだったなら"。
"こうしてまた、触れ合えたかもしれないのに"。
千明ちゃんの心の声が、声にせずとも伝わってくる。
凛太朗さんとの再会を望むのは、この場にいる全員の総意である。
「うん。よく分かりました」
「もういいんですか?」
「十分だよ。ありがとう」
千明ちゃんは、忍耐強い女性だ。
俺個人の印象はもちろん、凛太朗さんにも太鼓判を押されるほど、忍耐力と思考力に長けた女性だ。
だからこそ、俺は千明ちゃんが心配だ。
泣いて喚いて怒れる人には、時間が薬になってくれることがあるけれど。
千明ちゃんのように発散する術を持たない人には、どんな薬も言葉も効かない。
「(衝撃に強い分、蓄積に弱い。
千明ちゃんのようなタイプが陥る闇を、俺は知っている)」
いつか。
いつか千明ちゃんも、自分の内に溜め込んだ膿や毒に殺されてしまわないか。
泣きも喚きもしなかった代償として、呼吸の仕方さえ忘れてしまう日が来るのではないか。
理屈で受け止めようとするほど、感情という獣は牙を剥くもの。
凛太朗さんの目指す場所に、君はまだ行ってはいけないんだよ、千明ちゃん。
「───よし。
明日、お昼過ぎに、病室に行けばいいんだよね?」
千明ちゃんが自分の膝を叩く。
いつの間にか触れ合いタイムは終わっていたらしい。
俺もハッと我に返る。
「あ……、うん。
なんか要望、とか、聞きたいことあったら……」
「んー、今はいいかな。
ケンジくんだって、昨日の今日なわけでしょう?
実際の、現場を見てみないことには、答え辛いこともあるだろうし」
「……うん。まあ、はい」
「だから、いいよ、今は。
今夜中に気持ち整理して、明日に備える。
要望も質問も、明日続き、ね?」
「千明ちゃんが、それでいいなら……」
千明ちゃんが自分の麦茶を飲み干す。
お開きの合図だ。
俺と澪さんも飲み干すと、千明ちゃんは続けて咳払いをした。
「じゃあ、うん。
早々に追い出すようで悪いけど……」
「そんなことないよ。
詳しい予定は、後でメッセージ送るから」
「助かる」
何はともあれ、最初の関門は突破できた。
あとは、本番に臨むだけ。
俺というメッセンジャーを介して、凛太朗さんと千明ちゃんは仮初めの逢瀬を果たす。
上手くいくかは、神のみぞ知る、だ。
**
「───ごめんね、長居しちゃって。ゆっくり休んで」
「ケンジくんこそ」
「お茶とクッキー、ご馳走様でした」
「澪ちゃんも、またね」
玄関。
見送りに来てくれた千明ちゃんと、"また明日"の挨拶をする。
「……大丈夫?ほんとに、」
靴を履き、ドアを開けたところで、治めたはずの心配ふたたび。
もう一度だけ千明ちゃんを振り返ると、早くも彼女の眼下には隈が出来ていた。
「ほんとは、───うん。
でも、大丈夫にするから。明日、必ず行くから。心配しないで」
「……お邪魔しました」
俺と澪さんが部屋を出る。
千明ちゃんがドアを閉める。
夜の帳が下りた、19時22分。
世間一般的には、夕食を始めるか済ませた頃。
テレビ番組的には、俗にゴールデンタイムと呼ばれる時間帯。
「(凛太朗さんが目覚める未来と、目覚めない未来)」
今夜の千明ちゃんは、なにを食べるのだろうか。
食べられるのだろうか。
テレビを点けるのだろうか。
本を読んだり、音楽を聴いたりするのだろうか。
眠れば夢を見るのだろうか。眠れるのだろうか。
きっと、明け方まで頭を抱えて、枕を濡らして、このまま時が止まらないかと、何度も祈るのだろう。
俺が千明ちゃんの立場だったら、きっとそうするし、そうなるから。
「(いつかこんな日がって、どっちにも備えてきたんだろうな)」
俺は言えなかった。
凛太朗さんに死が迫っていることは伝えても、凛太朗さんが明日死ぬことは告げられなかった。
俺にはどうしても、その一言を言えなかった。
でも、千明ちゃんは気付いているんだ。
気付いた上で、敢えて食い下がらなかったんだ。
「行こう」
「はい」
ごめんね、千明ちゃん。
ハッピーエンドには、導けない。
俺は、神様にはなれない。




