第六話:青年は額縁の中で 3
『───改めて、二見賢二さん。
お忙しいところ、突然お邪魔してしまって、すいませんでした。
以後、よろしくお願いします』
澪さんに続き正座に座り直した青年は、急に畏まった態度で俺に一礼した。
「あ、いやいや、そんな。こちらこそ、お招きそうそう失礼しました。
俺のこと───、というか、こっちの事情はもう、ある程度知ってる感じ、でいいですか?」
俺も一礼で返すと、青年は澪さんと目配せをした。
『はい。澪ちゃんが懇切丁寧に教えてくれました。
ケンジさんの体質のこと、澪ちゃんとの関係のこと……。
あと────』
「"あと"?」
『……先日あった、虐待事件の、女の子のことも』
言いながら青年は、心苦しそうに眉を寄せた。
澪さんからの受け売り以前に、事件については知っていた様子だ。
「ご存知なんですか。愛実英那を」
『ええ、まあ。テレビでやってるのを軽く観ただけですけど……。あまりに辛い事件でした。
まさか、あの子とも繋がりがあったとは、驚きましたよ』
「そうですか……。
すいません、話の腰折っちゃって」
「いえ」
モモ。本名を、愛実英那。
彼女との思い出は、今なお俺の中で傷として残っている。
当初と比べれば落ち着いたが、割り切るには至っていない。
『それでさっき、澪ちゃんと話したんです。
澪ちゃんや英那ちゃんは、中でも特別な生霊、なんですよね?
普通の人間みたいにコミュニケーションをとれたり、触れたり』
「そうですね。澪さんとモ───。
……英那とでは、だいぶん差がありますが」
『ってことは、オレも二人のように、特別ってことなんでしょうか?
こうして話も出来るし、自分の目的もハッキリしてるし』
"自分の目的がハッキリしている"。
さらっと出てきた重要なワードを、俺は聞き逃さなかった。
「え、ちょ、ちょと、待ってください。
目的って───、生霊になった原因、分かるんですか?
自分が生霊である自覚、だけじゃなく?」
『両方とも、ちゃんと分かってます。
自分はいったい何者で、何がどうしてこうなったのか、なっていくのか。
だからこそ、オレはここへ来たんです』
暫定で最も生身に近く、空我の可能性が高いが、自らの記憶も目的も持たない澪さん。
生身に近いが空我ではなく、記憶はないが目的はあったモモ。
同じく生身に近いが空我ではなく、記憶も目的も明瞭らしい青年。
記憶を持たないが故に、いつの間にか此処にいた形で、オレの前に現れた澪さんとモモ。
恐らくは目的を果たすために、自らの意思でオレのもとを訪ねてきたという青年。
似て非なる三者三様。
手掛かりがあるだけでも、青年のケースは処理しやすい、と考えていいのだろうか。
「二度手間になっちゃって申し訳ないすけど……。
俺にも、そちらの事情、教えてもらっていいですか?」
本題はここから。
座り順は変えず、青年と澪さんにも楽な姿勢に崩してもらう。
『ではまず、名前から。
穂村凛太朗といいます。みんなからは凛太朗って下の名前で呼ばれるんで、お二人も是非そうしてください。
年齢は今年22で、3年前から天木の大学病院に入院してます』
青年あらため、穂村 凛太朗さん。
オレより年下なのも驚きだが、三年前から入院中という事実はもっと驚きだ。
「入院の理由を伺っても……?」
触れられたくない話題かもしれないので、俺は恐る恐る掘り下げた。
凛太朗さんは何でもないことのように、へらりと笑ってみせた。
『ただの交通事故ですよ。
ケンジさんと一緒で、うっかりした車に撥ねられちゃったんです。
……まあ、ケンジさんと違って、オレは無事じゃあ済まなかったすけどね』
凛太朗さんの笑顔に影が落ち、俺の背筋に悪寒が走る。
凛太朗さんが経験した交通事故の話は、俺には全く他人事じゃなかった。
**
今から三年前の夏。
大学一年生だった凛太朗さんの身に、突如として悲劇が降り懸かった。
その日、凛太朗さんは恋人とデートに出掛けていた。
途中までは恙無く、有名なデートスポットを巡ったりして、楽しい時間を過ごせていたそうだ。
やがて迎えた夕暮れ時。
ディナー前のブレイクをとることにした二人は、当時流行り始めたコーヒーショップに立ち寄った。
恋人は凛太朗さんの注文を聴くと、自分一人で店内へ。
凛太朗さんは店先にて、恋人が買い物を終えてくるのを待った。
そして、悲劇は起こった。
とある一台の乗用車が、何故か凛太朗さんに向かって急発進したのだ。
凛太朗さんは避けようとしたが間に合わず、ほぼ真正面から乗用車に激突されてしまった。
事故はたちまち騒ぎとなり、救急車とパトカーが現場に駆け付けた。
乗用車を運転していた高齢男性、並びに撥ねられた凛太朗さんは、別口で救急病院へと搬送された。
運転手の方は幸いにも、軽い骨折程度で済んだことが、のちに明らかとなった。
暴走した理由も高齢者特有で、アクセルとブレーキを踏み間違えたのが原因だったという。
片や、凛太朗さんは。
被害者である凛太朗さんは、即死は免れたものの、昏睡の危篤に陥ってしまった。
それから三年の月日が経ち、現在。
未だ目覚めない凛太朗さんの厄主は、まるで生きた屍がごとく、深昏睡状態の日々を送っている。
**
「───すいません、あの……。なんと言っていいか、俺……」
凛太朗さんのエピソードがあまりに衝撃的で、俺はかける言葉が見付からなかった。
だって、普通なんだ。
他人を気遣える優しさがあって、冗談を言えるユーモアもある。
そんな人に、こんな過去があったなんて、誰が想像できようか。
『やっぱ、反応に困ります、よね』
「あ、そうではなく……。いや、そうなんです、けど……」
『分かります。大丈夫。気にしないで下さい。
オレ自身、気持ちの整理はついてますから』
「整理、すか」
『……まあ、納得って意味では、あんまりなんですけど。
でも、いいんです。あれは、あくまで事故だった。だから、恨むのはもう、やめたんです。
あの時、買い物に行ったのが彼女で、待ってたのがオレで良かったって、そう思うことにしたんです』
"事故に遭ったのが自分で良かった"。
俺が凛太朗さんの立場だったら、そうは言えなかったし、思えなかっただろう。
いかなる事情があろうとも、自分を害した相手を恨み続けただろう。
たった三年。されど三年。
気持ちの整理をつけるには、長すぎるし短すぎる。
「お話は分かりました。
それで、───生霊になってまで、俺のところへ来た理由は?」
同情より心配より、今は凛太朗さんの目的が優先。
もっと掘り下げたいのを堪えて、俺は話の続きを促した。
『さっきも言った通り、事故に遭ってからずっと、オレは意識が戻っていません。
生霊のオレがこうしている間にも、本物のオレは病院で隔離されたまま。
厄主、って呼ぶんでしたっけ、この場合』
「そうですね。
本物───、生身の方が、厄主になります」
核心に触れるのを躊躇ってか、凛太朗さんは頭を撫でるように掻いた。
微妙なニュアンスの苦笑いは、前向きにも後ろ向きにも受け取れる。
『今までは、なんというか……。
優秀なお医者さんや、家族が支えてくれたおかげで、命を繋ぐことが出来た、ですが……。
正直それも、もう限界でして』
「どういう、こと、ですか」
嫌な予感がする。
頼むから、モモの二の舞はやめてくれ。
せめて、少しでも希望のある目的を示してくれ。
『感じるんですよ。
目に見える異常がなくても、終わりが近付いてるって』
敢えて"死ぬ"とは明言せずに、凛太朗さんは俯いた。
もはや無意味と分かっていても、俺は反論せずにいられなかった。
「で、も……。三年は、維持してきたんですよね?
だったら、近々ふっと目が覚めるなんてことも────」
『いいえ。オレは二度と、目覚めることはありません。
植物のように、借り物のベッドに根を張って、朽ちて死ぬのを待つだけです』
「……それも、"感じる"ですか」
『残念ながら』
今にも泣き出しそうな顔と声で、尚も凛太朗さんは冷静に努めた。
『仮に、もうちょっとくらい、遅らせられるとしても、辛いんですよ、オレが。
みんな、オレに生きてほしいって、思ってくれてて。だからオレも、頑張ってきたけど。
でも、息があるだけで、どこへも行けないし、話もなにも出来ないし。息してるだけでも、お金はかかるし。家族にも友達にも、迷惑かけてばっかだし。
そんなの、何年も続けるのは、やっぱり、しんどいんですよ。
限界ってのは、結局、オレ自身の我慢の、限界ってこと』
長らく昏睡状態にあった人が、何年後かに予兆なく目覚める。
そんな例を、過去にニュースやドキュメンタリー番組で観た。
しかし当の凛太朗さんは、二度と目覚めることはないと言い切った。
自分の末路を最も理解しているのは、他でもない自分自身であるからと。
「(なるほど。
さっき澪さんが泣いてたのは、そういう訳か)」
俺は、厄主の凛太朗さんを知らない。
病院にいるという彼がどんな状態で、どんな状況か知らない。
俺の口からは、何が正しくて間違いでも、何も言えない。
ただ、俺にも分かることが、ひとつだけある。
凛太朗さんはきっと、自分の悲運を哀れんでほしいのでも、英断を称えてほしいのでもない。
端から俺たちには、感傷など求めていないのだ。
「(一歩間違えてたら、俺も───)」
"交通事故を経験した者同士"と括るのは、失礼千万かもしれないけれど。
運良く生還を果たした俺には、果たせなかった凛太朗さんの力になる義務がある。
「俺は、何をすればいいですか。
俺にできること、何がありますか」
下手に干渉したら、また取り返しのつかない事態を招いてしまわないか。
せっかく縁を持てた人を、また対岸から見送らなければならないのか。
怖さもある。不安もある。
ただ、凛太朗さんのお願いを断る選択肢は、ひとつもない。
「(モモの二の舞にはさせない。させてなるものか)」
"自分の目の前にいる、自分に救える人を救いなさい。"
後悔しないように、ですよね。桂さん。
『───死ぬ前に、もう一度だけ、話をしたい人がいるんです』
「お相手は?」
『恋人───、だった人です』
凛太朗さんの目が不自然に泳ぐ。
「ご家族ではなく?」
『家族は……。もちろん、そう出来たら、オレは嬉しいですけど。
あの人たちは、たぶん、色々な意味で、受け入れられないと思うので。そちらには、手紙を書きたいと思ってます』
「手紙……」
『でも、恋人は別です。
彼女にはちゃんと、直接、伝えたいことがあるんです』
"恋人だった"と言ったり、"恋人"と言ったり。
過去形か進行形か曖昧なのは、関係そのものが曖昧だからなのだろう。
互いの想いがどうであれ、話し合いが出来なくなった以上、継続も破局も叶わない。
「(つまり俺に、メッセンジャーになってほしいってことか)」
凛太朗さんがどのタイプの生霊か、だいたい分かった。
"影分け"によって生まれた"面影"。
つまり今回の最終到達点は、帰来ではない。
目的を果たした凛太朗さんに待つのは、恐らく。
「その恋人さんは、今どちらに?」
『天木にいますよ。
ほぼほぼ毎日、オレの病室まで見舞いに来てくれてます』
「おお、毎日」
『そんなことしなくていいって、オレの家族からも、何度も止められてるんですけどね。それでも、来るんですよ。
違う花を持って、違う服を着て、違う話題を用意して。衛生面のケアだったりも、看護師さんに習いながら、欠かさず毎日。
恐ろしい女性でしょう?三年前からずっとですよ?』
「ウワー……。本当にいるんですね、そんなすごい人……」
凛太朗さんの恋人は、凛太朗さんの入院生活を支え続けているという。
どんなに努力しても、凛太朗さんは応えられず、凛太朗さんが目覚める保証もないのに。
執念にも近い一途さ。
"自らの体たらくが辛い"という凛太朗さんの発言は、主に恋人に対してだったようだ。
『初対面の方に、こんな個人的なことをお願いするのは、申し訳ないですが……。
今はとにかく、時間が惜しい。
───二見賢二さん。
どうか、オレのメッセンジャーになってくれませんか?』
再び正座に座り直した凛太朗さんが、改めて申し出る。
澪さんと頷き合った俺は、改めて咳払いをした。
「要望通りにやれるかどうかは、自信ないですが……。
俺で良ければ、付き合います」
ぱっと破顔した凛太朗さんは、飛び付くように俺の手を取った。
『ありがとうケンジさん!やっぱり貴方いい人だ!』
凛太朗さんの冷たい両手が、俺の生ぬるい右手を握り締める。
喜んでもらえて良かった。
それはそれとして、この人また聞き捨てならないこと言わなかったか。
「"やっぱり"……?
もしかして凛太朗さん、俺と面識あります………?」
ぴたりと動きを止めた凛太朗さんが、したり顔で俺から離れる。
『オレじゃなくて、彼女の方がね。
ちょっとした知り合いみたいなんですよ、実は』
「え……。だ、誰ですか」
俺と交流のある女性といえば、隣近所のオバハンもといマダム達が殆ど。
同年代もゼロではないが、一気に候補が絞られる。
天木在住の10代後半から20代と、年齢は仮定するとして。
凛太朗さんの眼鏡に適うほどだから、お相手も相当に整った容姿をしているはず。
加えて、一人の男性を慕い続ける誠実さや、欠かさず見舞いに訪れる忍耐強さの持ち主。
「あ」
条件に当て嵌まりそうな女性は、ぱっと思い付いただけで二人。
内の一人は、凛太朗さんが話してくれたエピソードにも通ずる美女だった。
『花守千明。
俺の、自慢の恋人だった女性です』
花守 千明さん。
名は体を表す彼女が、凛太朗さんにとってのキーパーソンだ。




