第一話:萌芽 2
天木市は実在しない市です。
7月14日。
件の事故から半月、俺は普通に退院した。
治療費については、俺を撥ねた相手が全額負担。
プラス慰謝料が支払われたおかげで、こちらの出費はゼロで済んだ。
必要な手続きも全て親父任せ。
俺自身は寝て起きて食べて、時々運動してを繰り返したら、いつの間にか元気になった。
支えてくれた病院スタッフ、励ましてくれた知人友人のみんな、ついでに親父に感謝である。
そんなわけで、あっちゅー間の入院生活。
帰宅を許された俺は、奇跡という言葉の意味を噛み締めながら、家業の手伝いを再開させたのだった。
「───おかえり、ケンジ」
「………うん、ただいま」
北海道、"天木市"。
都会と田舎が混在する、定住向きの穏やかな町。
俺の生まれ育った故郷であり、今なお住み続ける地元である。
「───あら、ケンジくん!
久しぶりねえ、体の方はもういいの?」
「ご無沙汰してます。店番する程度には、もう全然っすよ」
天木市、"むかご通り"。
植物の栄養繁殖器官の名に由来する、繁華街から外れた住宅街。
俺の実家がある地域で、ご近所さんとは概ね知り合いである。
「───おーい、ケンジ!
値札ねえけど、幾らだコレぇー?」
「あー、剥がれちゃったかな。ハイハイ、いま行きますよー」
むかご通り、"ふたみ商店"。
野菜の直売をメインに、日用品や食料品などジャンルレスに取り扱う。
"ふたみ"と読んで字のごとく、二見家が営む小さな商店。
俺の実家にして、仮初めの職場でもある。
「あー、挨拶だけで一日終わるなこりゃ」
うちでは農業と小売業、ならびに卸売業を兼業。
じゃが芋などの野菜や花を栽培し、採れたものを自分たちの店で売ったり、他の業者に卸したりしている。
端的に言うと、農家であり商人、といったところ。
希望があれば品物の取り寄せもするので、ご近所さんの間ではコンビニのような立ち位置だ。
畑の方は親父が、店の方は俺が、基本的には仕切っている。
二人で家業を回し始めてから、早いもので二年になる。
「───おう、ケンジ。どうだい調子は?」
常連客と入れ違いで、親父が店に入って来た。
使い古した作業着を身につけ、同じく使い古したフェイスタオルを首から下げている。
外出の際はもう少しマシな格好をするが、農作業をする時の親父は大体このスタイルだ。
「今んとこは平気だよ。
そっちこそどうなの。今日けっこう気温高いみたいだけど」
「なんもだよ。水分もこまめに摂ってるし」
レジカウンターに肘をついた親父は、土で汚れた顔に笑みを浮かべた。
わざわざ作業を中断してきた辺り、急ぎの用事でもあるのだろうか。
「ふーん。
で、なんの用?なんか忘れもん?」
「おいおい冷めてんなぁ。病み上がりの息子心配しちゃ駄目か?」
まっすぐに見据えてくる親父から、俺はつい目を逸らしてしまった。
「駄目ってこたねえけど……」
世話を焼いてくれることは感謝している。
心配を掛けていることも自覚している。
構われて悪い気はしないし、親父を嫌いなわけでもない。
ただ、俺と親父には、難しいのだ。
普通の親子のやり取りってやつを、普通には出来ない事情があるのだ。
それを互いに分かっていて、だから気まずい。
意図して普通のフリをしている瞬間を、ふと思い出してしまった瞬間が、一番いたたまれない。
歩み寄る努力はしても、根本の解決は絶対に無理だということを含めて、俺たちの間にはどうしても、埋められない溝がある。
「……ってえのは建て前で、実は替えのタオル取りに来たんだ。思ったより汗かいちまってな」
「そんなこったろうと思ったよ。
いつもんとこ置いてあるから、ご自由にどーぞ」
「おう。仕事中に悪いな」
剽軽に手を挙げながら、親父はレジカウンターの奥へと消えていった。
レジカウンターの奥は、二見家の住居スペースとなっている。
コンビニや飲食店を抱えたマンションなんかと同じで、商店と合わさった二階建ての一軒家だ。
レジカウンターを抜けた真横がキッチン、正面がリビング。
リビング左手に親父の自室、右手にバスルームとトイレ。
二階には俺の自室と二階用のトイレ、今は客間扱いの空き部屋がひとつ。
二階へ続く階段はバスルームの隣にあり、親父の自室とキッチンに挟まれた勝手口を玄関として使っている。
「───っと〜、身支度かんりょ〜」
「へいへい」
替えのフェイスタオルを二枚手にした親父が、レジカウンターを介してリビングから出てくる。
俺が適当にあしらう傍ら、会計中だった橋田さんは嬉しそうに親父に話しかけた。
「アラ〜、草汰さんじゃない!いつからいたの?」
橋田さんも常連客の一人で、親父と年齢の近い専業主婦である。
親父に一足遅れて、先ほど来店したばかりだ。
「橋田さん!こりゃどうも。
そちらこそ、いらしてたんですね」
「晩ごはん用の玉ねぎをね、ちょうど切らしちゃったものだから。
草汰さんは?まだ畑のお仕事中?」
「まだまだお仕事中です。これからもうひと頑張り行ってきますよ」
「お疲れ様〜。熱中症に気を付けてね〜」
「いやいや、どうも。お気遣い痛みいります。
───じゃ、戻るから。なんかあったら連絡しろよ」
「ん」
俺には目配せを、橋田さんには笑顔で会釈をしながら、親父は店を出ていった。
「相変わらず心配性ね〜、あの人。
まぁ、大変なことがあったばかりだし、親なら誰でもそうなるわよね」
「そっすかね」
「も〜、こっちは相変わらずクールなんだから〜。
たまには、おかえりのチューとかギューでもしてあげたら?」
「ハハハ。20円のお返しです」
橋田さんの言う通り、今日は熱中症の危険もある夏日。
いつもより早くに切り上げて、日暮れ前には帰ってくると思われる。
チューやギューは死んでもやらないが、すぐに汗を流せるように、風呂の準備くらいはしといてやってもいいかもしれない。
**
正午を迎えると、店内はすっかり静かになった。
いつも客足が途切れる時間帯なので、俺も店番をしながら軽食を頂くのが定番だ。
「───なんだ、ケンジがいるじゃないか」
今日は何を食おうか考えた矢先、腰の曲がった老婦人が来店した。
小豆色のプルオーバーに、同系色のチェックスカート。
長い髪を後ろで団子にし、絵に描いたようなおばあさんルックで現れた彼女は、"柳沼ツユ"。
"ツユちゃん"である。
「ツユちゃん。いらっしゃい。飯は?」
「これからだよ。お前は?」
レジカウンターから出て歩み寄る俺を、ツユちゃんはキツい三白眼で見上げた。
相変わらず強烈な目付きだが、顔立ちの問題なので悪意はない。
「俺もこれから。
いつものハムマヨパンまだあるけど、食う?」
「ああ」
昼食を求めに来店したらしいツユちゃん。
実際は俺を心配して、様子を見に来てくれたのだろう。
俺は敢えてツユちゃんの言い分に突っ込まず、食料品のコーナーへ向かった。
ツユちゃんと俺と、二人分の軽食。
種類の違う惣菜パンと、ペットボトルの飲料を持って、ツユちゃんの元へ戻る。
ツユちゃんは既に席に着いていて、丸テーブルの上で指のささくれを弄っていた。
「お待たせ」
丸テーブルはレジカウンター脇に、付属のスツールは全部で五脚置いてある。
俺が店番を始めた頃に導入した、いわゆるイートイン的なやつだ。
これが思いのほか好評で、今やジジババ達の憩いの場と化している。
イートインなのにイートで利用する客が少ないのは、ご愛嬌ということにしている。
「お茶とコーヒー、どっちがいい?」
「お前はどっちがいいんだい」
「俺はどっちでも」
持ってきた緑茶とコーヒーのペットボトルを差し出すと、ツユちゃんはコーヒーの方を受け取った。
俺はツユちゃん用の惣菜パンも一緒に渡して、向かいの席に腰を下ろした。
「ほんと好きね、それ」
「お茶よりは飽きが来ないってだけさ」
ハムとマヨネーズをたっぷり挟んだロールパンに、苦味と渋味がとりわけ強いブラックコーヒー。
どちらもツユちゃんが、ウチでよく購入する商品だ。
彼女は今年で82歳になるのだが、感覚は未だに若者のようである。
「いくらだい」
「いらないよ。サービス」
「そんなわけにいくかいね。乞食じゃあないんだ」
「知ってるよ。
……入院中、そうとう世話になったんだって、親父から聞いた。
今度改めて礼するけど、これはなんつーか、前払いみたいなさ。
とにかく、金はいらないから。色々ありがとね」
「なにを他人行儀な。お前たちは私の息子も同然なんだから、礼なんかしなくていいんだよ。
……まあ、どうしてもって言うなら、貰ってやるさ」
「そうして」
俺が不在の間、親父は店番と農作業の両方を熟す必要に迫られた。
バイトさんのシフトも間に合わず、完全にワンオペになってしまった日もあると聞く。
そこへ助っ人として駆け付けたのが、ツユちゃんを始めとした常連客の皆さん。
並びに、ご近所の皆さんだ。
彼らが交代で親父を支えてくれたおかげで、畑はロスが出なかった。
商店も黒字のまま、休まず営業を続けられた。
加えてツユちゃんは、親父の個人的な面倒もみてくれたらしい。
どうせ暇な年金暮らしだからと、親父の食事を作ってくれたり、家の掃除を代わってくれたり。
店番の手伝いや、俺の入院を見舞う合間を縫って、だ。
いずれ正式にお返しはさせてもらうとして、全員揃っての無償奉仕。
災い転じてじゃないが、俺と親父は周りの人に恵まれている。
事故をきっかけに、つくづく実感させられた。
「で?具合はどうなんだい。ちゃんと糞はしてるのかい」
コーヒーを一口飲んでから、ツユちゃんは俺の頬を雑に撫でた。
「してるしてる。
みんな心配してくれるけど、意外と大丈夫なんだって」
「そうかい。
まあ、お前は、事故に遭う前から死体のような顔をしていたからね。
いつも通りといえば、そうなんだろう」
「せめて不健康そうって言ってくれねえかなぁ」
パンを齧ってお喋りして、ツユちゃんとの何気ないリラックスタイム。
すると途中で、出入口の扉が開く音がした。
新規のお客さんでも入って来たか。
俺は自分のエビカツバーガーをモグモグしたまま、そちらに振り返った。
新客は俺ではなく、真っ先にツユちゃんに目をやった。
「───ゲッ、柳沼のババアがいやがる」
チェックのポロシャツに、緩めのスラックス。
頭にはチノの帽子を被り、利き手には杖を持った彼は、"橘井 耕作"。
俺の親友の祖父にして、親父の一番の兄貴分。
無頼漢と見せかけて常識人と思わせて実は意外と小心者なジーさんである。
ツユちゃんとの関係については、出会い頭の発言からお察しの通り。
どっちがどっちな、犬猿の仲だ。
「耕作さん。いらっしゃい。なんか買い物?」
「ちゃうちゃう。お前に退院祝いだ。ほれ」
席を立って歩み寄ると、耕作さんは上等そうな紙袋を手渡してきた。
中には、有名店のカステラが入っていた。
「おお、カステラ。
そっか、この袋、あそこのか」
「せっかくならイイモン食わしてやりたくてよ。
甘いの好きなら、カステラもまあまあ好きだろ?」
「好き好き。ありがとう。
もしかして、このためにわざわざ?」
「おうさ。
お前さんの元気な顔見んことには、おちおち昼寝もしてられんでな。
これでようやっと、安心したわ」
歯抜け顔で笑いながら、俺の頭に触れる耕作さん。
撫でやすいように俺が屈むと、耕作さんはもっと大口を開けて笑った。
「(懐かしい、この感じ)」
耕作さんの住まいは繁華街の方にあるため、ツユちゃんと比べると頻繁には会えない。
その分、会えた時には必ず構ってくれる。
親父や親友の存在を抜きにしても、俺と仲良くしてくれる。
ツユちゃんも、耕作さんも。
俺にとって、かけがえのない、大切な人。
実の祖父母と同等、あるいはもう、それ以上に。
「これで、そこなババアと鉢合わせんければ、もっと良かったんだがの」
俺の無事を確かめるや否や、耕作さんは打って変わってツユちゃんを睨んだ。
ツユちゃんも負けじと耕作さんを睨み、一触即発な雰囲気に。
「こちとら時代錯誤な爺と会うために来たわけじゃないよ」
「誰が時代錯誤じゃババア。
俺と被るからチェックは着るなと言うとろう!」
「あんたこそ、いつまで若い子ぶった趣味してるんだい。センスのない」
「だったらお前はどうなんじゃい!
男だけチェック着ちゃ駄目ちゅう法律でもあるんか!」
「法律がなくても私の目には余るんだよ」
「それはこっちの台詞じゃ!」
子犬のように吠えまくる耕作さん、コーヒーを嗜むついでに言い返すツユちゃん。
こうしていると本当に反目し合っていそうだが、本当の本当はそうでもない。
幼少期からの腐れ縁であるが故に、遠慮がないだけなのだ。
二人きりにさせた場合、そうでもないが顕著に出る。
「ハイハイどうどう。二人とも、来てくれてありがとね。
せっかくお土産もらったし、みんなでお茶にしようか。
耕作さんも座りなよ」
「……お前がそう言うなら」
「なんでも構わないけど、私の隣には座らんでおくれよ」
「言われんでも離れて座るわい!」
「耕作さーん。元気もいいけど血管切れるよー」
耕作さんも交えて、三人でお茶会をやり直すことに。
耕作さんはツユちゃんへの当て付けとばかりに、テーブルから離れて着席した。
俺は温かいお茶の用意と、頂いたカステラを切り分けるため、住居の方へ引っ込もうとした。
「なぁ、ケン坊」
「うん?」
後ろから耕作さんに呼び止められる。
帽子を脱いだ耕作さんは、感情の読めない表情に変わっていた。
「今度のは、お前のせいじゃないから、仕方ないけどな。
あんまり心配───、草汰に心配、かけてやるなよ」
「え?」
「お前は、草汰の息子で、ここの看板息子なんだから。
お前がいなきゃ、みんな悲しくて、どうしようもないんだからな」
「………。」
「もちろん、お前が好きなように生きるのが一番だぞ?
お前自身にやりたいことがあって、ここを出て行くんなら、みんなで送り出してやるだけだ。
ただ、ちょっとな。もうちょっとくらい、自分のこと大事にしてくれやって、言いたかっただけだ」
「……うん。わかったよ」
「そうか。うん。変なこと言って、悪かったな。
うい、早よお茶持っといで」
「うん」
24歳。彼女なし。
取り沙汰されるほどの才能も経歴もなし。
生まれ育った町で家業の手伝いをしながら、華やかさとは無縁の代わり映えしない日々。
今の自分に満足しているか、と聞かれれば、答えはノーだ。
学生時代には、こんな将来を望みはしなかった。
だが、そんな俺でも、周りの人達は好きだと言ってくれる。
必要な存在だと頼ってくれる。
だから、華やかでなくてもいいと。
彼らに囲まれて過ごす日々は悪くないと、俺は思っている。
思うように、している。
「(大事にしてない、わけじゃないんだけどな)」
ちなみに。
皆からはすっかり看板息子扱いされているが、俺の本業はウェブデザイナーというやつだったりする。
頭にフリーと名のつくせいで、滅多にご依頼はないけれど。
ご依頼がないせいで、家業の手伝いに腰を据えざるを得ないけれど。
せっかく大学出させてもらってこのザマじゃ、どっちが本業か誤解されるわけだ。