第五話:泡沫に消えても 3
「───しっかりしろ、青年」
強く肩を掴まれる。
顔を上げると、いつにも増して精悍な桂さんと目が合った。
「何度でも言うが、あの子を殺したのはお前じゃない。あの子が死んだのも、お前のせいじゃない。
あの子の親が、あの子を殺した。あの子の不幸を知りながら、見て見ぬフリを通した奴らが、あの子を死なせた。
その中に、お前は入ってない」
低い声が耳に入る。
桂さんの一言一句が、水滴を落とすように俺の胸に沁みていく。
「救えなかったのは辛いが、お前はあの子の願いを叶えてやった。
全て正しくはないとしても、お前は間違ったことはしていない」
桂さんの視界には、きっと、俺のあられもない姿が映っている。
涙も鼻水も垂れ流しで、呼吸をする度に甲高い嗚咽を上げてしまう、醜い男の姿が。
分かっていても、込み上げるものを抑えられない。
なけなしの羞恥心も自尊心も、何もかもどうでも良くなるほど、今は悲しさと悔しさしか手持ちにない。
「おれ、どうしたら、よかったですか。
ぜんぶ正しいになるためには、おれは、他に何を、するべきでしたか」
胸で息をしながら喋る。
落ち着いた桂さんと違って、俺の一言一句には汚い濁音が混じる。
「それは、俺にも分からない」
俺から離れた桂さんは、座椅子の上で立て膝をついた。
「仮にお前が、あの子を檻から出してやったとして。命だけでも助かったとして。
あの子は、そう長くは生きられなかったかもしれない」
「どういうことですか」
「ニュースの内容を見る限り、肉体的にもかなりボロボロの状態だった。
ってえことはだ。精神的な、心に受けたダメージは、その倍以上ってことになる。
家族間でのトラブルは、不仲ってだけでも、一生の負担になり得るものだからな」
「……カウンセリングとか、適切な治療を受ければ───」
「そこも加味した上での話だ。
親から虐待を受けて育った奴が、大人になって、病院通いして元気になって、でもフラッシュバックが治まらなくて、結局はPTSDを苦に自殺するってケースも少なくない。
子供だから記憶は曖昧でも、子供だからこそ根が深いんだよ。虐待で負った傷ってのは」
「どのみち、あの子は助からなかったってことですか」
「そうは言わない。
ただ、人一人の人生を立て直すためには、最低でも三人の協力者が必要になる。
確固な信念と忍耐力と、経済的な余裕を持った、大人の協力者だ。
お前に用意できるか?俺にはできん」
「それは……」
「仮に用意できたとして、相手と向き合い続けられるか?
相手が転ぶ度に、何度でも手を差し伸べてやれるか?」
「………。」
桂さんからの厳しい指摘に、俺は返す言葉が見付からなかった。
心の傷とは、容易に治せるものではない。
長い年月をかけて、本人が努力を続けても、死ぬまで癒えない場合もある。
そんな大変なものを、他人が預かろうと思うなら。
治るまで癒やしてやるなら、穏やかな日常を送らせてやりたいなら。
自分の人生を投げ売ってでも、その人に尽くすだけの知恵と覚悟がいる。
俺にそんな知恵があるだろうか。
いいや無い。
俺にそんな覚悟があっただろうか。
いいや無かった。
「相手の不幸に呑まれず、自分の調子を保つこと。
慈善活動を行うに当たって、崩してはならない大前提がこれだ。
つまり、今のお前が答えなんだよ。
みんながみんな救われるわけでないように、みんながみんな、救えるわけでもないんだよ」
あの檻から、あの家から、あの両親から。
とにかく引き離してやることしか、頭になかった。
引き離した後のことなど、想像さえしなかった。
とどのつまり、俺はずっと、自己満足の話をしていたのだ。
何より命が最優先と、聞こえの良い正義を掲げていただけだ。
命の守り方なんて、別に知らないくせに。
「───いや、違う。そうじゃない。
そんなことを言いたいんじゃないんだ」
先程の言い方では語弊があると思ったのか、桂さんは心苦しそうに頭を掻いた。
「俺自身、後悔してることの一つや二つある。
君に説教垂れる資格なんかないのにさ、まったく。
嫌になっちゃうね、知ったかぶりのオジサンは」
桂さんが口を閉ざす。
書斎が静寂に満ちる。
互いの呼吸の音、廊下の振り子時計の音。
傍らに扇風機の風、外から鈴虫の声。
背中に滲む汗、乾ききった唇、握り締めて冷たくなった手、痺れ始めた足の裏。
そういえば、今は何時何分だ。
俺は、何しにここまで来たんだっけ。
ぼやけた視界に色が散り、ふやけた思考が靄を吐く。
「ごめん。話が逸れたね。
本当に大事なことを、これから言うね」
しばらくの間を置き、桂さんは再び話し始めた。
雑に前髪を掻きあげて、立て膝から胡座に姿勢を変えて。
「君は、十分よくやったよ。
見ず知らずの他人のために、一日かけて付き合ってあげたんだから。
君にできる全部を、君はちゃんと頑張ったよ」
俺に後悔する資格はないのかもしれない。
端から救える力を持たなかった俺が、後先を考える意味はなかったのかもしれない。
でも、全く責任がなかったとは、言えない。
子どもを守る大人の役目を、放棄していい理由にはならない。
暫定でも、消去法でも。
俺にしか可能性がなかったなら、やっぱり、俺が助けるべきだった。
死ぬほど頑張って、それでも救えなかったとしても。
死ぬほど頑張るを、俺はやらなければいけなかった。
見送ってしまった後ろ姿。
俺の後悔の根源は、結局のところ、そこなんだ。
「残念ながら、あの子を救う役目までは、君には回ってこなかったけど。
あの子と同じような、可哀相な子や人が、今後また現れたら。今度こそ君に、役目が回ってきたら。
その時は、後悔しないようにしなさい。
可哀相な人を全員救おうとするんじゃなく、自分の目の前にいる、自分に救える人を救いなさい」
モモを失った8月20日を。
英那を喪った8月27日を。
俺は一生、忘れることはないだろう。
いつか過去になる日が来ても、泣かずに思い出せる日は来ないだろう。
「無理はしないでいいけどさ。
あの子と楽しく過ごした思い出まで、悲しむことないんじゃない?」
だったら。
忘れることが出来ないなら。
どうせ遅いなら、どのみち辛いなら。
泣きながら思い出すしかない。
教訓に刻むしかない。反面教師に学ぶしかない。
どんなに胸が痛んでも、英那を悼んでやること。
英那という女の子が生きていたことを、英那の身に起きたことを、覚えていること。
今回のような悲劇が二度と繰り返されないよう、自分なりに努め続けること。
それが、今更の俺に出来る、せめてもの償いなのかもしれない。
「俺、ずっと、後悔することで、弔ってる気になってました。
泣いて、塞ぎ込んで、いつもと違う自分になることで、罪滅ぼしをしてる気に、なってました。
あの子のためじゃなく、自分のために。自分で自分を傷付けて、自分の外側にあるものから、逃げようとしてました」
英那。
助けてやれなくて、不甲斐ないお兄ちゃんで、ごめんな。
本当は、遊園地以外にも、叶えてほしかったよな。
本当の本当は、一番のお願いは、他にあったんだよな。
気付いてやれなくて、頼りないお兄ちゃんで、ごめんな。
「でも、それじゃ、駄目ですよね。
本当に、あの子のためを思うなら、あの子を言い訳にしちゃ駄目ですよね。
出来なかったことに逃げるより、出来ることに悩まないと、なにも、ならない」
もう、俺が君にしてやれることは、なくなってしまったけれど。
俺にやれることを、これからの俺は探していくよ。
涙を流しながら、悪夢に魘されながらでも。
君との出会いには、後悔しないよ。
君が生きたかった分まで、俺が未来に連れていくよ。
「すいません、桂さん。
もっと自分で、考えなきゃいけないことがありました」
彼女がいないからなんだ。
才能が、経歴がないからなんだ。
華やかさとは無縁の毎日だからなんだ。
凄いことや偉いことに拘るな。
全部や完璧に固執するな。
無知や無益に辟易するな。
前を見ろ。
前にある物を見ろ。前にいる人を見ろ。
たまには後ろを振り返って、過ぎた岐路を真っ直ぐ見据えろ。
せっかく拾った命を、せっかく授かった力を。
使い果たしてからでも、答え合わせは間に合うはずだ。
「これからはもっと、ちゃんとします。
どうせ俺なんかって、卑屈にならずに、俺にも出来ることを、探します。
俺の命だって、拾ったものだから。生きてるんだから、ちゃんと、生きます」
"モモってよんでくれて、ありがとう。"
あの笑顔に偽りはなかったと、信じよう。
「───だってさ。
聞いたかい、お嬢ちゃん?」
桂さんが廊下に向かって声をかける。
すると澪さんが、気まずそうに書斎を覗き込んだ。
実は彼女は、今まで席を外していたのだ。
ここまで同行したのも彼女の強い意思で、俺としては家で留守番をしてもらうつもりだった。
「ごめんなさい。
立ち聞きは良くないって、分かってたんですけど……」
「いいのいいの。君だって当事者なんだから。
───おいで」
桂さんが手招きすると、澪さんは怖ず怖ずと書斎に入ってきた。
俺は慌てて涙を拭い、桂さんから借りたティッシュで鼻をかんだ。
傍まで近付いた澪さんは、俺の顔色を窺いながら、俺の隣に腰を下ろした。
「心配したでしょ?
年下の女の子にまで気ィ遣わせて、しょうがない男だね?」
「いいえ、わたしはそんな……」
桂さんに、いつもの軽口が戻る。
俺自身も段々と、落ち着いてきたのを感じる。
「ケンジさんにも、色々お考えがあるでしょうから。
わたしはただ、黙って、傍にいるだけです」
醜態を晒すだろうからと、最初は留守番をお願いした。
不思議と今は、近くに寄られても嫌じゃない。
みっともなくて恥ずかしくて、でも遠ざけるほどじゃない。
親の前でも意地を張ってしまう俺なのに、妙な感覚だ。
「分かったか?青年。
自己嫌悪やら自己犠牲やらってのは、一見すると自分だけの問題に思えるが、実際はそんなことはない。
お前が自分を責めるほど、嬢ちゃんだって、遠回しに責められてる気分になって、辛かったんだよ」
はっとして、隣を一瞥する。
俺とは対照的に、澪さんは背筋を伸ばしている。
「こういう時は、下手に澄ましたりせず、周りに愚痴ったり、泣きついたりした方が、周りも楽だったりする。
痩せ我慢と過ぎた卑下は、自分にも周りにもイイことねえから、程々にな」
そうだ。当事者は俺だけじゃない。
英那の訃報を知ってショックだったのは、澪さんも同じだ。
なのに澪さんが泣かなかったのは、俺を心配したからだ。
俺が先に滅入ってしまったせいで、澪さん自身の悲しみには、蓋をせざるを得なかったんだ。
桂さんの方が、よほど澪さんと気持ちが通じてるじゃないか。
一応は保護者の立場のくせに、つくづく俺ってやつは。
「ごめん、澪さん。心配かけたね」
「いいえ、あの、わたしも……。
どうしていいか、わからなかったので……」
澪さんに改めて謝罪をする。
澪さんは困ったように眉を下げ、ふるふると首を振った。
「でも、今は、わたしも少し、落ち着きました。
桂さんが居てくださって、良かったです」
澪さんが桂さんに微笑みかける。
桂さんも微笑み返すと、何かが閃いた声を上げた。
「そだ。ちょっと待ってな」
おもむろに書斎を出ていった桂さんは、数分後あるものを携えて帰ってきた。
「ほれ」
あるものを投げ渡される。
すかさずキャッチしたそれは、ソーダ味のアイスキャンディーだった。
駄菓子屋でよく売られている、小学生なら誰しもお世話になったことのある、甘酸っぱくて美味しいアレだ。
「これで少しは、頭も冷えるだろ」
定位置に座り直した桂さんが、自分用のアイスに齧りつく。
俺も頂いたアイスを開封し、少し悩んでから澪さんに尋ねた。
「いっしょたべる……?」
このタイミングでやるわけねーだろ、と一蹴されるかと思いきや。
意外にも澪さんは、"はい"と頷いて、俺の右手に触れた。
桂さんと澪さん。
奇縁ながらも良縁だった二人。
もはや俺にとって、指折り数えるほどに重要な存在。
努力すれば俺も、二人みたいに。
出会えて良かったと思ってもらえる人間に、いつかなれるだろうか。
"もうなってますよ"。
エンパシーを通じてか、実際に言われたのか。
俺の心の声に、澪さんが答えてくれた気がした。




