第五話:泡沫に消えても 2
「───いらっしゃい。
急に来るなんて言う、から……」
愛実英那。
児童預かり所等の施設には通わず、外出の機会も殆どなく。
6年間という長きに渡り、自宅アパートのみで過ごしたとされる少女。
好物は、チョコレートとビスケットのお菓子、フライドポテト、冷凍チャーハン、コンビニのツナマヨおにぎり。
主に既製品を好んでいたのは、日々の食事がそれら中心の内容だったため。
そもそも知っている食べ物の種類が限られていたためである。
性格は基本的には大人しく、俯きがちだったが、知らない人にも挨拶をできる積極的な一面も持ち合わせていた。
もしかすると、血を分けた家族より、見ず知らずの他人の方が、彼女にとっては心休まる相手だったのかもしれない。
「なにがあったか知らんが、とりあえずお入りよ」
愛実彩香。26歳。
当時交際中だった男性との間に英那をもうけるも、出産直前に破局。
以降2年間は、親族の扶けを借りながらシングルマザーとして生活していた。
英那が4歳を迎える頃、同い年の伊崎恭平と出会い、交際に発展。
英那を合わせて、三人での同棲生活をスタートさせる。
しかし恭平には酷いDV癖があり、彩香と英那は日常的に暴力を振るわれた。
当初は英那を庇っていた彩香だが、いつしか恭平の側に加勢するようになった。
彩香が英那を殴ると恭平は喜び、自分は殴られずに済むと気付いたからだ。
「愛実───って、最近ニュースになってるアレか。
もちろん知ってるよ。子どもの知り合い多いし、俺だって他人事じゃない」
"食事中に箸を落とした"。
"無断でお菓子のストックを食べられた"。
"寝る時間なのに寝てくれなかった"。
"黙れと言っているのに泣き止んでくれなかった"。
恭平と彩香の言い分に正当性はなく、英那を虐げていい理由にはならなかった。
それでも二人は際限なく英那を殴り、蹴り、時には煙草の火を押し当てたり、浴槽のお湯に沈めたりした。
最終的に二人は、英那を物置き部屋に追いやり、中型犬用のケージに閉じ込めた。
食事は一日に一度、入浴は五日に一度、排泄物の処理は臭いが居間に漏れ出てから。
劣悪な環境下で放置された英那は、みるみるうちに衰弱していった。
「タイプ的には"オマク"……、いや"面影"のが近いか。
子どもで"飛びだまし"を扱えるケースは滅多にないから、起源は"乖離"か"影分け"か……。
本人に確認が取れない以上、断言はできないけど」
そして、8月の20日。
食事を吐き戻してしまった英那に怒った恭平が、英那の顔と腹を激しく踏み付け殺害。
外出から戻った彩香も英那の死を確認するが、罪を恐れた二人はそれを隠蔽。
英那の遺体を冷凍庫に移し、目処が立つまでの措置とした。
後日、8月の27日。
遺体の始末をどうするかで二人が揉め、その声を聞いた近隣住民が警察に通報。
幼児虐待および死体遺棄などの疑いで、二人は逮捕された。
遺体発見当時の英那は、痩せ細った肢体に、夥しい痣と火傷を負っていた。
殺害現場周辺には、本人のものと思われる吐瀉物や排泄物が染みとなり、カーペットに広がっていたという。
「つまり君は、あの子が死ぬ直前に、あの子の───」
俺の前に現れたモモは、子どもらしい肉付きで、艶のある肌をしていた。
着ていた服や履いていた靴も、新品同然に綺麗だった。
たぶん、あれは。
英那にとっての、自分自身の理想像だったんじゃないかと、思う。
せめて生霊でいる間は、夢幻に浸っている間くらいは、元気いっぱいでいたいと。
そう願った英那のifが、モモとなって具現化したんだと、思う。
"───じゃあ、ゆうえんち、行きたいって言ってもいい?
ずっと行ったことないから、行きたかったの。"
「俺、なんとなく気付いてたんですよ。不自然なことが多すぎるって。
生霊は、よほどの事情がない限り現れない。死の淵にあるくらい切羽詰まった人でないと、生み出せるものじゃない。今まで全員そうだった。
気付いてたんですよ。おかしいって。ただ遊園地で遊びたいだけの、ただの子供に、こんなの有り得るわけないって」
遊園地で遊ぶのも、声を出して笑うのも。
目一杯に外を走るのも、胸一杯に息を吸うのも。
英那がやりたくて、でも英那には出来ないことだった。
だから、モモが代わりに叶えた。
己の限界を悟った英那が、一縷の望みを託すため、作り出したのがモモだった。
俺たちと過ごした思い出は、英那が思い描いた夢だった。
"───たのしいねぇ、たのしいねぇ。"
"───あ、これもおいしい!はじめてたべるあじだ!"
"───あはは。おにいちゃん、またへんなかお〜。"
「なのに俺、ちゃんと向き合ってやらなかった。
変だって分かってたのに、その変がどこから来るのか、突き止められなかった」
アトラクションを選んでいる時も、遊んでいる最中も、終わった後も。
モモ、ずっと笑ってた。
そのへんの、どこでも買えるフライドポテトやタコ焼きを、まるで王様のご馳走みたいに、美味しい美味しいって喜んでた。
撫でた頭は、くりくりしてて小さかった。
繋いだ手は、ふわふわしてて柔らかかった。
俺の目に映るモモは、確かに、ただの5歳の女の子だった。
"───モモ、おにいちゃんとおねえちゃんとゆうえんちこれて、よかった。"
「もっと、真剣にやってれば、辿り着けたはずなんです。間に合ったかもしれないんです。
俺がもっと、あんな、慣れてるからみたいな、惰性みたいな、しなければ、きっと───」
仲睦まじい親子連れを、羨ましそうに眺めていたこと。
締めくくりの観覧車で、寂しそうに泣いていたこと。
思えば全て、あの子なりのSOSだった。
最初からモモは、ヒントを出してくれていたんだ。
なのに俺は。
記憶がないなら仕方ないと、所詮は子供だからと。
なんだかんだと横着して、真摯に取り組んでやらなかった。
なるようになるだろうと、根拠もないまま楽観していた。
「言いたいことは分かるが、それとこれとは別だろう。
あの子を殺したのは君じゃない。あの子の人生に君は関係ない。
君とあの子は、良くも悪くも擦れ違っただけの、結局は他人だ」
なにが"順応"だよ。なにが"前進"だよ。
深山さんや野宮さん達の時は、たまたま上手くいったってだけだろ。
たまたまが続いただけで、俺の手柄じゃないだろ。
なにを、調子に乗ってんだよ。
見える目があって、聞こえる耳があって、話せる口があって。
自由に動く手足があって、平均には働く頭脳もあるくせに。
仮初めの特異性だけに頼って、甘えて、驕って。
地道に調べて考えて、着実に解決しようという努力を怠った。
たったひとり。
ただの6歳の女の子を、ちんけな檻から逃してやることさえ叶わないなら。
この特異性は、この能力は体質は、一体なんのために。
どうして俺に、俺だけに、生霊なんかが視えるようになったんだ。
"───でも、もう、おわりなんだね。"
「他人でも、顔を覚えた。好きな食べ物を知った。
会話をして、名前を呼び合った。仮につけた名前でも、俺は、あの子の名前を呼んだ」
どれほど怖かっただろう。
痛かっただろう。悲しかっただろう。
辛くて苦しくて堪らなくて、それでも母を憎めないもどかしさに、空っぽな胸を潰しただろう。
愛されない我が身を呪っただろう。
"───モモ、ちゃんとひとりでかえれるよ。だから、だいじょうぶ。"
「同じ町に住んでたんですよ。
俺が走っていけば、モモは、あの子は、助かったかもしれないんですよ。
救ってはやれなかったかもしれないけど、死なずには済んだはずなんですよ」
どうせ死ぬなら、最後に一度だけ。
憧れの遊園地で遊べるなら、他にはいらない。
あんなに小さな子どもが、そんなことを願ってしまったのか。
この世の闇を、悪を、不条理を。
取り戻せない昨日を、明日を迎えられない今日を。
あんなに優しい女の子が、そんなものを知ってしまったのか。
大人になったら野球選手にと、信じて疑わなかった頃の俺と、同い年の君が。
理解を、してしまったのか。
「だとしても、俺たちは人間だ。ただの一般人だ。
警察でも医者でも、ましてあの子の家族でもない。近所に住んでたわけでもない。
たとえ名前を、好物を知っていても、一方的に知ってるだけの君にはどうしたって───」
「でも俺は生きてる!あの子も生きてた!
どんなに難しいことでも、生きてるなら助けられた!可能性があった!
俺だけが、あの子の夢を見た!」
帰らなくてはいけない。
帰り道は分からないが、とにかく帰らなくては駄目なのだと。
夕焼けにモモの後ろ姿が消えた時刻が、18時過ぎ。
英那が義理の父に殺害された推定時刻が、19時前後。
正にあの時、英那の死がカウントダウンに入った。
だからモモは走り出した。英那の待つ家に帰ったんだ。
自分が誰かを思い出すと同時に、自分の命の終わりを感じたから。
あの"バイバイ"は、またねの意味のバイバイじゃなかった。
さようならの、二度と会うことはないでしょうの、永遠のバイバイだったんだ。
"───モモといっぱいあそんでくれて、ありがとう。
モモをこどもにしてくれて、ありがとう。"
「帰るって、言ったんですよ。楽しかったって、笑いながら。
また、地獄みたいな家に戻るのに。これから死ぬのに。もう、次も、明日もないのに。
どんな気持ちで、あんな……。どんな気持ちで……っ」
追い掛ければ良かった。
理屈を捏ねる前に、本能で動けば良かった。
そうすれば、今度こそ英那の居所を突き止められたかもしれない。
間一髪、奇跡を起こせたかもしれない。
"───もういくね。"
「俺のせいだ」
助けられなかった。
みすみす死なせた。
頑張ったけど無理だった、じゃない。
頑張らなかったから、無理だった。
"バイバイ。"
「俺が殺したみたいなもんだ」
英那を殺したのは、俺じゃなくても。
英那が生きられなかったのは、俺のせいだ。




