第一話:萌芽
目覚めると、病院のベッドで横になっていた。
腕には点滴が繋がれ、脚には包帯が巻かれ、口には呼吸器が被せられている。
一体なにが、と起き上がろうとすると、全身ぴくりとも動かない。
というか、動けなかった。
なるほど。
経緯は不明だが、どうやら俺は、何らかの怪我を負ってしまったらしい。
寝惚け頭で思案していると、病室のドアが開かれる音がした。
辛うじて動かせる首だけでそちらを向くと、看護服に身を包んだ若い女性が立っていた。
「あ───っ、二見さん……?」
二見さん。
カルテを胸に抱えた女性は、まるで幽霊でも見たかのような顔で、俺の名を呼んだ。
「ぁ───、」
「たいへん!」
俺が返事をする前に、女性こと看護師は病室を出ていった。
まずは状況説明が欲しかったところだが、この場合は担当医への連絡が先か。
「(もしかして、死にかけたのか、おれ)」
俺の身に何が起こったかは、じきに明らかにされるとして。
看護師の反応から察するに、あまり芳しくはなさそうだ。
「(二見賢二。24歳。男。4月13日生まれ。彼女なし。うるせえ黙れ。今それ関係ねえ)」
自分の名前は覚えている。
自分がどこの誰かも分かっている。
五感も正常の範囲内で、ちゃんと機能している。
頭に痛みは感じない。
痛みを感じないなら、強くは打っていない。
強く打っていないなら、脳への影響も深刻ではない。
「(鎮痛剤、効いててこれなんか……?)」
深刻なのは、頭以外のほぼ全てが痛いこと。
激痛とまではいかなくとも、息を吸う度に軋む感じがするのは、地味に堪える。
命を落とさなくて良かったと思うか、そもそも何でこんな目にと思うか。
残念ながら俺は後者のタイプなので、今にも泣きたい気持ちだ。
「───おお、本当に生き返った」
しばらくして、病室に再び人がやって来た。
今度は二人組で、中年のおばさん看護婦と、同じく中年のおじさん医師だった。
先程の若い看護師は、いわゆるプライマリーナースというやつではなかったようだ。
「こんにちは、二見さん。ご気分どうですか?痛いところ、ありませんか?」
こちらに近付いた医師が、カルテを片手に俺の顔を覗き込む。
医師の後ろでは、看護婦が点滴やら機材やらの状況を調べ始めた。
「な、───にが、あったん、です、か」
尋ねた俺の声は、酷く掠れていた。
咳払いで整えようにも、腹筋に力が入らない。
「やっぱり、覚えていませんか。
酷い事故に遭われたんですよ。生きているのが不思議なほどの」
言いながら医師は、俺の両目にペンライトの光を当てた。
本職にそこまで言われるとは、よほど大規模な事故だったのだろうか。
「事故って、どんな……?」
俺は重ねて尋ねた。
医師は俺の脈を確認し、俺にできない咳払いをした。
「交通事故です。久檀通りの交差点。
原付に乗った二見さんに、信号無視した乗用車が突っ込んだんです」
「しんごう……」
「相当なスピードだったみたいで、二見さん、軽く2メートルは吹っ飛ばされたって、通報された方が仰ってたそうですよ」
そうだ。そうだった。
断片的に、でも着実に、思い出してきた。
あの時、俺は家業で育てたジャガ芋と共に、単車を走らせていた。
いつものように、親戚の家へお裾分けに行くために。
で、喰らった。
行きの道中に信号待ちをしていたところ、交差点の右手からクソデカワゴンが現れて、単車もろとも俺を撥ねやがったんだ。
撥ねられた瞬間、単車に積んでいた芋が散り散りに飛んでいった光景を、何故だか一番に覚えている。
「本当に、あれほどの大事故に巻き込まれて即死しなかったなんて、奇跡としか言いようがありません。本当に。大げさじゃないんですよ?」
「なるほど……」
「経過についてはまだ様子見ですが……。
しっかり寝て、しっかり食べて、適切なリハビリをして。
少しずつ、元の生活に戻れるように、頑張っていきましょう」
「はい……」
「もう一度聞きますが、痛いところはありますか?」
「動かなければ、大丈夫デス……」
医師の持つ聴診器が胸に当てられると、少しヒヤッとした。
"即死"という単語の意味を考えると、胸の内側がヒヤッとする。
「(事故も病気も、したことねえのが取り柄だったのに)」
して欲しいことはあるか、しないで欲しいことはあるか。
痛いところはどの辺りで、他に自覚症状などあるか。
触診の合間に、事務的な質疑応答。
医師の質問に俺が答え、俺の答えた内容を看護婦がカルテに代筆していく。
「(人生、なにがあるか分からんな)」
"元の生活に戻れるように。"
脅すような言動も見られたが、医師も看護婦も雰囲気は明るい。
ひとまずの峠は越えられた、と思って良さそうだ。
「そういえば」
「どうしました?」
安堵したと同時に、ふと湧いた疑問。
事故があったのは分かったが、事故から何日経ったのか。
今日という日は何年の、何月何日何曜日か。
「えっと……。
今日って何日ですか?」
看護婦から返されたカルテに、今度は医師自ら追記していく。
看護婦はこちらに一歩寄ると、医師に代わって俺の問いに答えてくれた。
「22日ですよ。6月の」
6月22日。
芋を運んだのが18日だったはずだから、あれから4日か。
数日に亘って意識不明となると、親父はさぞ心配しただろう。
やはり、事故と名のつくものは、すべて侮るべからずだな。
『 』
空白の4日間。
俺は確か、夢を見ていた。
4日間ずっとなのか、4日間のうち僅かの間かは覚えていない。
どんな夢だったかは、もっと覚えていない。
ただ、離れがたい夢だった。
悲しくて切なくて愛おしくて、本当は忘れてはいけない夢だったことは、思い出せなくても覚えている。
そんな気がする。
***
7月1日。
絶対安静の状態から解放され、病院に隣接する整形外科施設でリハビリ開始。
もともとヒョロガリだった俺、生まれて間もない小鹿化。
「───だーから、変に重心寄せんなって!楽な方に逃げるな!」
「大声出さないでくださいよ。こっちは病人ですよ」
「病人じゃなくて怪我人だろ」
「ニンニン」
「ぶつぞ」
小鹿の世話をしてくれることになったのは、茶髪で小柄でコーギーのような顔をしたコイツ。
"柳沼 大地"。あだ名を"ヤギ"。
まさかの小鹿担当が、コーギー似のヤギである。
「つか、真面目な話さ。
お前けっこうな状態だったわけだろ?なのに、事故から10日でもうリハビリって。
有り得ねえだろフツウ」
ヤギは俺の中学からの友人で、ここで働く理学療法士でもある。
俺の事故を聞き付け、リハビリを始める際には自分がと申し出てくれたらしい。
不良のような出で立ちだけど、義理人情に厚い男。
暴走族の総長かと疑われたこともあったけど、俺の親友のひとりだ。
「この貧弱ボデーのどこに、そんな頑丈さがあるってんだァ?」
「いたい!虐待!」
「ふはは。半紙みてえな腹しやがって」
「半紙って久々に聞いた」
笑いながら、俺の腹を叩くヤギ。
ヤギの言う通り、今の俺は四肢の自由が利く。
支えを借りれば、歩くことも出来るようになった。
大怪我を負わずに済んだとはいえ、凄まじい回復力だ。
こんな貧弱な体でどうして治りが早いのか、自分でも謎だ。
「頑丈ってよりは、単純にラッキーだったんだろうな。
2メートルも吹っ飛ばされたって割に頭打ってないし、骨折もしてないし。
むしろなんで4日も意識なかったのか分からんて、医者の先生にも言われた」
「そうかい。
ま、友人としては、無事で何よりですけどネ」
補助用の手摺りを使った歩行訓練は切り上げ。
マットを敷いてのストレッチに移行する。
「痛み出たら直ぐ言えよ。
無理しても、却って悪化させるだけだからな」
「さっきと言ってること違うくない?」
「それとこれとは別」
こうして並ぶと、ヤギは小柄な割にガッシリとした体つきをしている。
理学療法士とは、印象とは裏腹に体力が資本の職業だという。
「そういや、昨日も親父さん、見舞い来たんだって?
店のこと、なんか言ってた?」
「こっちは心配いらんから、お前は養生に専念しろ、だってよ。
そんなわけにいくかってぇーの」
「はは。ただでさえ人手足りんのに、また大変なことになったな。
女は誰も来なかったのか~?」
俺の背中を摩りながら、わざとらしく語尾を伸ばすヤギ。
壁一面の姿勢鏡には、俺の仏頂面とヤギのニヤケ面が隣り合わせで映っている。
当てがないと確信した上での質問。
正直にゼロと答えるのが癪だった俺は、ちょっと見栄を張った。
「来たぜ、ひとり」
「うっそ!誰!?」
「ツユちゃん」
「うちのバーちゃんじゃん!」
若い女はともかくとして、リハビリ前の見舞い客は引っ切りなしだった。
友人知人、ご近所さんに、店の取引先や常連さん。
中でも足しげく通っていたのが、親父だ。
俺と親父は、二人で家業を営んでいる。
取引先や常連さんというのは即ち、家業の方での関係者だ。
俺のいない間は、親父が一人で働かなければならない。
バイトさんのおかげでワンオペは避けられても、負担が増えるのは間違いない。
たとえ治りが早かろうと遅かろうと、いつまでも病院のベッドで寝起きするわけにいかないのだ、俺は。
「ツユちゃんだって立派な女だ」
「人の祖母を女扱いするのはやめろ」
ちなみに。
足しげく通ってくれたナンバーツーこと"ツユちゃん"とは。
店の常連代表にして、ヤギの父方の祖母。
我が道を行く系のツンデレ毒舌おもしろバーさんである。
ヤギのツンデレ属性はツユちゃんからの隔世遺伝ではないかと噂されている。
「なんにせよ、一時はマジで死んだと思ったからさ。
心臓に悪ィから、あんま危ない目には遭わんでくれな」
ヤギの声がトーンダウンする。
鏡越しに一瞥すると、ニヤケ面も消えていた。
「今回のは、さすがに避けようもなかったけどな。
……まあ、気ィ付けるわ」
そうだ。そうだった。
俺は、事故に遭ったんだ。
事故に遭って死にかけて、本当なら俺が|こういう面をするべきなんだ。
誰より俺が、俺の人生に無頓着なのかもしれない。
「───あ。あとさ。この話もう聞いた?」
「あん?なに?」
「オレも昨日、看護師の人から聞いたんだけどさ」
ストレッチも切り上げ、本日分のリハビリは終了。
ヤギに支えられて立ち上がると、ヤギはおもむろに話題を変えた。
「お前、意識なくしてる間、なんか、魘されたりとかして、しょっちゅう泣いてたらしいよ。
……悪夢でも見てたんか?」
空白の4日間。
意識不明当時の俺は、魘されて泣くことが度々あったという。
それは、傷が痛むが故の生理的なものだったのか、あるいは。
「悪夢……」
例の夢について、改めて考えてみる。
悪夢、ではなかったはずだが、断言はできない。
泣いていたというのも、言われなかったら知らなかった。
離れがたい、忘れてはいけない、愛おしい。
ただの俺の、気のせいだったんだろうか。
「わかんね。覚えてねえや」
「……そっか」
"お前が何でもないなら、何でもいいんだ。"
いつぞやにも見せた顔で、ヤギは笑った。




