二話:部屋に入る時はノックをしてよ 4
「───フー、焦ったー……。
変なもん見せちゃって、悪かったね。おかげで助かった」
「いいえ。
それより、嘘ついちゃってごめんなさい。他に言い訳を思い付かなくて……」
「問題ない。後はこっちで処理するから」
出鼻を挫かれたので、仕切り直し。
「改めて、食事にしよう。
準備するから、澪さんはここで待っててくれる?」
「なにかお手伝いできることは?」
「いいって。テレビでも見てて」
リモコンでテレビの電源を入れてから、俺はキッチンに立った。
リビングに残った澪さんは、ローテーブルの前で正座をし、チャンネルそのままのニュース番組を観始めた。
「そんなに肩肘張らないで。
俺も楽にするから、澪さんももっと、自分の家にいるつもりで」
緊張しているのかもしれないが、あまりに規律正しすぎる。
見兼ねた俺が声をかけると、澪さんは怖ず怖ずと姿勢を崩した。
「(陰気な子かと思ったけど、話してみるとそうでもない。
機転も利くし、ユーモアっぽいのも無くはない。
なのに、どっか頑なというか、バリアを張ってるというか……。生真面目な性格なんだろうな。
身嗜みも言葉遣いもきっちりしてるし、ひょっとするとマジの令嬢だったり……?)」
勝手な想像を巡らせながら、付け合わせの準備。
同時進行で、使い古しのトースターに食パンをセットする。
しばらく待つと、トースターが甲高い機械音を発した。
まるで魔女か妖怪の金切り声に聞こえるのが、使い古しの所以である。
出来上がった付け合わせを食器に盛り、焼き上がったトーストにバターを塗る。
途端に香り立つ小麦の匂いは、炊きたての白米と味噌汁の匂いに次いで、いわゆるの朝食のイメージである。
「お待たせ。
大したもんじゃなくて悪いけど、どうぞ」
朝食完成。
二人分の食器をトレーに載せ、トレーを持ってリビングに戻る。
本日のメニューは、
適当にちぎったレタス、
半熟にならなかった目玉焼き、
お湯を注いだだけのコーンスープ、
唯一うまくいった気のするバタートーストの四品。
独身男の作るメシなんて、大体こんなもんだ。
ましてや女の子に振る舞う用の料理なんて、俺にレパートリーがあるわけなかった。
「わあ、すごい。
ケンジさん、お料理されるんですね」
食器をテーブルに並べていく俺に、感心しきりの澪さん。
素直に喜ばれてしまうと、却って申し訳なさが増す。
「そう言われると、なんか心苦しいけど……。
確認をする分には、これで足りるはずだよ」
「……そうですね。これくらいが、丁度いいと思います」
そもそもなぜ、朝食なのか。
出会ったばかりの生霊を相手に、本来は不要である食事の席を、適切とは言えないタイミングで、設けることにしたのか。
「どれから食べる?」
「じゃあ、冷めないうちに、スープから」
親睦を深めるため、だけではない。
澪さんの五感の有無を調べるためにも、今こそ食事が必要なのだ。
「ケンジさんもどうぞ、召し上がってください」
「うん。君が食べたら、俺も食べるよ」
ディスカッションの段階で、五感のうち四つは正常と明らかになった。
目で見て耳で聞いて、鼻で匂いを肌で物を判別できる。
ただし味覚だけは、先程の水では判別できなかった。
当然ながら、水は無味無臭だからだ。
そこで俺は、味のついた食べ物を、澪さんに食べてもらうことにした。
味覚の有無に加え、空腹や満腹の度合いなども調べれば、澪さんがいかに生身に近いかが分かる。
他の生霊と澪さんとで、より差別化が図れるようになるはずだ。
「……よし。いただきます」
覚悟を決めた澪さんは、コーンスープのカップを手に取り、軽く冷ましてから中身を啜った。
俺は自分のバタートーストを齧りながら、横目に成り行きを見守った。
「どう?」
カップから口を離した澪さんは、静かに首を振った。
「味もしないし、熱さも……、ぜんぜん感じないです。
分かるのは、ごくんと飲み込んだ感じだけ。水の時と一緒ですね」
「そっか……」
そういえば、水を飲ませた時にも、冷たいとは言わなかった。
何が触れたかの触覚は正常でも、温覚や冷覚までは正常ではない。
痛覚の範疇になると感じにくい、ということなのだろうか。
「でも、他もそうとは限らないし。
せっかくだから、目玉焼きとかトーストも食べてみない?調味料多めにかけてさ」
「やってみます」
トースト、目玉焼き、サラダの順で、澪さんは尚も食事を続けた。
残念ながら、澪さんの味覚が反応した食べ物は、無かった。
「ごちそうさまでした」
やっとの思いで完食。
ごちそうさまとだけ呟いた澪さんは、空になった食器を重ねた。
というのも、美味しくなかったのはもちろん、お腹いっぱいにもなれなかったのだ。
仮に澪さんが健啖家だったとして、一人前の食事を平らげた気すらしないのは、さすがにおかしい。
満腹中枢が機能していないか、機能自体が存在しない可能性が高い。
「だいぶ無理して食べてたけど……。大丈夫?吐きそうとかない?」
「はい。
砂を噛んでるみたいで、気持ちは悪かったですけど。
体調の方は、特に。なんともないです」
俺も一足遅れて完食し、空の食器を重ねた。
「味覚障害───、いや。この場合それだけじゃないか……」
「そうですね。
むしろ、幸いだったかもしれません」
「幸いって?」
「食事の必要がないことです。
お腹はペコペコなのに、食べるもの全部おいしくない───、なんて方が、きっともっと、辛かったでしょうから」
「………。」
「そんな顔をしないで。
分からなかったことが分かっただけ、やって良かったなって、わたしは思います」
満腹になれない代わりに、空腹にもならない。
生理的には幸いかもしれないが、食事の楽しみを奪われるのは、やはり酷だろう。
どうにかして澪さんに、五感の全てを戻してやる方法はないのか。
それに、飲み食いした物がどこへ消えたかの疑問も残る。
排泄をせず、補給にもならないなら、なぜ食べるポーズだけ可能なのか。
「(ただでさえ起き抜けで頭回んねえってのに)」
ひとつ理解が進んでも、またひとつ謎が生まれて堂々巡り。
未確認生物の解剖でもさせられている気分になる。
「では、わたしはこれで。
いろいろ面倒を見てくださって、ありがとうございました」
俺に深々とお辞儀をすると、澪さんは食器を持って立ち上がった。
後片付けをしてくれるつもりのようだが、最後の一言を俺は聞き逃さなかった。
「タンマ。どうする気?」
右腕を伸ばし、澪さんの進路を塞ぐ。
立ち止まった澪さんは、俺に微笑んだ。
「お片付けさせてください。
お金は持っていないので、せめてこれくらいは」
「そんなこと気にしなくていいから。
それより、これからどうするつもりなの。まさか、このまま出ていくのか?」
胡座のまま、澪さんに向き直る。
笑みを消した澪さんは、俺から顔を背けた。
「どうなるかは、分からないですけど。ずっとここに置いてもらうわけにはいきませんから。
後のことは、自分でなんとかします」
俺はどうする。俺はどうしたい。
ここで澪さんを送りだせば、一先ずの厄介事からは解放される。
体感10年ぶりの休日を、一人のために潰されないで済む。
でも。
「一人でなんとかしなくていいよ」
「え?」
文句を垂れながらも、生霊と関わることを選んできた俺だ。
だったら、今度だって一緒だ。
「俺の部屋が最初だったってことは、俺も何か関係があるってことだと思う。
だったら、俺は君を放っておけない」
澪さんの前に立つ。
見下ろす側から見上げる側になった彼女は、言い分とは裏腹に引き留めてほしそうだった。
「君が何者か分かったら、改めて、どうすべきか考えればいい。
それまでは、俺が君の保護者になる。してやれることは、少ないかもだけど」
「でも、それだとケンジさんが───」
澪さんの持つ食器を奪い取り、柄にもない虚勢を張ってみせる。
「大丈夫。ぶっちゃけ、似たような経験、何回かしてるし。
いないよりはマシくらいには、ね。役に立つよ。たぶん」
記憶はなく、味方もなく、見ず知らずの場所で迷子になる。
俺が澪さんの立場だったらと想像すると、ぞっとしてしまう。
だからこそ、助けになってやりたいと思う。
できるできないの前に、俺しかいないと思う。
本当に、柄じゃあないんだけど。
「本当に、いいんですか?迷惑じゃないですか?」
「いいよ。一緒になんとかやってみよう。
───君が、本物の君に戻れるまで」
格好つけた台詞で無理やり締める。
ぎゅっと目尻を窄めた澪さんは、泣き出しそうな溜め息を吐いた。
「正直を言うと、怖いんです。すごく。
自分が誰か分からないのも、ここがどこか知らないのも」
「うん」
「でも、今のでだいぶ、楽になりました。
ケンジさん、いい人ですね」
普通に笑うと、ちょっと幼く見えるんだな。
楽にしてやれたんなら、格好つけた甲斐があったな。
澪さんの年頃らしい一面に、俺もなんだかホッとした。
**
7時41分。朝食の後片付け。
俺と澪さんで手分けして、使い終わった食器を洗う。
俺が水道水で洗剤を濯ぎ、澪さんが布巾で水気を拭いていく。
「───ちなみになんだけどさ」
「はい?」
「さっきの、"ケンちゃん"っていうのは、その……。
どういうアレでそうなったわけ?」
作業の片手間に、俺は改めて澪さんに尋ねた。
親父に申し開きをするためとはいえ、俺を"ケンちゃん"呼びした件についてだ。
友人の妹という体なら、親密を装う必要はなかったはず。
なのに澪さんは、"二見さん"でも"賢二くん"でもなく、"ケンちゃん"と呼んだ。
確かに"ケンちゃん"は愛称のひとつだが、中学生になる頃には定番から消えていた。
未だに俺をそんな風に呼ぶ人といえば、父方の叔母くらいか。
「言われてみれば……。
どうしてそんな、馴れ馴れしい呼び方をしてしまったんでしょう」
「意図があったんじゃないの?」
「意図……。うーん。
とっさのことだったので、あんまり覚えてないですけど……。
なんとなく、それがしっくりくる気がした、気がします」
「二重表現だね」
本人としては、意図があったわけではないという。
やけに意味深だったから、こっちは身構えちゃったじゃないか。
「俺は別になんでもいいけど、一回出しちゃったからには、それで通した方がいいかもね。
人前では───、特に親父の前では、"ケンちゃん"って言うようにしよう」
「嫌じゃないですか?」
「むず痒いくらいかな。頑張って慣れるよ」
たった半日で、"ケンジさん"から"ケンちゃん"にグレードアップ。
下の名前を、ちゃん付けにして、女の子の声でって、なんか。
「(別の意味で大丈夫じゃねえかも、これ)」
言葉の綾などではなく、本当に頑張るしかなさそうだ。




